48 目覚めて
サラ──
微睡みのなか、そっと名を呼びかける声が耳に落ちる。
静かに、そして、甘く優しくささやく声。
身体を丸めぴたりとハルの胸に頭を寄り添え眠っていたサラは、うん……と声をもらし身動いだ。
何度も髪をなでてくれる手が心地よい。
触れ合うハルの体温が温かくて、それに、とてもいい匂いがする。
とくとくと耳に響くハルの鼓動が自分の鼓動と重なって、それだけで安心感に満たされていく。
このままずっと、ハルの腕の中で眠っていたかった。
幸せの余韻にひたっていたかった。
いや……。
まだ目覚めたくないの。
お願い。
もう少し、このままでいさせて。
「サラ」
再び眠りの底に沈みかけたところで、もう一度耳元で名前をささやかれ、サラはゆっくりとまぶたを開く。自分を見つめている藍色の瞳が間近にあって、サラは恥ずかしそうに視線をそらし、きゅっとハルの身体にしがみつきその胸に顔をうずめた。
ついさっきまで、その瞳に見つめられながら抱かれていたのだと思うと、恥ずかしくてまともに顔を見ることができない。
それよりも、ハルの色気にあてられてのぼせそう。
わずかにまぶたを落としたハルの、藍色の瞳の奥にちらりと揺れ動く色香を忍ばせた影。 こぼれる吐息まで艶っぽい色がついていそうで。
女の子の自分だって、ハルみたいな色気は出せないわ。
それでも、自分を抱きしめてくれた腕は、力強い男の人の腕だった。
私、本当にハルと一緒になれた。結ばれたのね。
「もう少し眠らせてあげたいところだけど、そろそろ目を覚まして。雨、あがったよ」
腕枕を解き、ゆっくりと上半身を起こしたハルが手を差し出してきた。
「ゆっくり起き上がって」
差し出された手をとり、ベッドから身を起こしたサラはかすかに眉を震わせた。
痛い……。
それに、少し身体がつらいかも。
でも、いやな痛みでもつらさでもない。むしろ、刻まれ残された痛みに、愛おしいものさえ感じた。
胸元を隠すようにシーツを引き寄せ、ぼんやりとした目で窓の外に視線をあてる。
いつの間にか雨はやみ、傾きかけた陽の光が窓から差し込み薄暗いながらも部屋を照らしていた。熱のこもった空気にどこか物憂げな気配を漂わせ、緋色の夕映えがベッドの上の二人の影を壁に映し出す。
無理をさせないようにとハルが気遣ってくれたのだろう。肌を重ねていた時間はそう長くはなかった。ハルは最後まで、まるで壊れ物を扱うように優しかった。
サラは胸のあたりでシーツを握りしめる。
ハルと重なりあった時のことを思い出すたび、胸の奥が疼き、徐々に失いかけつつある熱を再び呼び覚ますように、身体が火照り始めた。
ハルが与えてくれた痛みの先を思いだし、小さく細いため息をこぼす。その吐息さえ熱を帯びているかのようで熱い。
昇っていくような堕ちていくような。
自分の身体なのにどうにもできなくて。
途中から頭の中が真っ白になってしまって、記憶が曖昧だけれど。ただひたすらハルの名を呼び続け、泣きながらすがりついていたような気がする。
「目が真っ赤」
目の縁、かすかに残る涙のにじんだ跡にハルがそっと口づけをする。しっとりと濡れたまつげがかすかに震えた。伸ばされたハルの手がほつれた髪を指ですくようになでてくれる。解けかけ緩んだ藍色のリボンがハルの指に絡まり、するりとすり抜けてサラの膝に落ちる。
「後で結んであげる」
サラは恥ずかしそうにうなずくと、シーツを顔のあたりまで引き上げ、膝の上のリボンに視線を落とした。
「私、途中からわけがわからなくなってしまって……」
立てた片膝にひじを乗せて頬杖をつき、ハルは笑う。
意識を半分失った、そんな状態の姿までハルに見られていたのかと思うと、恥ずかしくて視線をあげることができなかった。
「でもね、ハル……」
「どうしたの?」
「とても気持ちよかった」
素直に思ったことを口にするサラの唇から再び、熱のこもったため息がこぼれ落ちる。
「ちょっと待って……」
「うん?」
見れば、ハルが片手を顔にあて横を向いている。驚いたことにほんの少し頬のあたりが赤い。
「それ滅茶苦茶、褒め言葉」
「そうなの?」
「まさか、そういうこと言ってくれるとは思わなくて……嬉しくて」
サラは首を傾げる。
「俺、動揺してる……」
「だって、ほんとうのことだもの。まだ夢の中にいるみたいで、身体がふわふわして空に浮いてるみたい。だけど、私……たくさん泣いてしまって、ごめんなさい」
「どうしてあやまるの?」
「ハルを困らせてしまったのではないかと思って」
「嬉しかったよ。必死に俺にしがみついて、可愛い声で泣いて。何度も俺の名前を呼びながら、好きだと途切れ途切れに繰り返して。俺の方が気がおかしくなるかと思った」
お願いだから、恥ずかしいからもうそれ以上言わないで、と耳まで赤く染めサラはシーツで顔を隠してしまった。
「自分を抑えるのに必死だった」
サラはそろりとシーツから目だけをのぞかせてハルを見る。
「ハルは余裕なのだと思ってた」
「余裕? 好きな女を抱いてどうして余裕でいられると思う? ひとかけらの理性にすがりながら何度も自分に言い聞かせていたよ。自分を見失ってサラを壊してはいけない、怖がらせてはいけないって」
ハルがそんなことを言うとはとても意外で、少し驚いてしまった。それと同時にハルが、名前で呼んでくれていることに、サラは嬉しさにそっと口許を緩める。
「……ハルこそ無理しなくても、抑えなくてもよかったのに」
へえ、とハルは薄く目を細めた。その口許にいつもの意地悪な笑みが浮かんでいることに気づき、サラはうろたえる。
えっと、私何かいけないことを言ってしまったかしら。
ハルの目が何か怖いわ。
「そんなこと言ってしまっていいの? 今だから言える言葉だよね」
え? と、サラは首を傾げた。その首筋にハルの唇が触れ、ぴくりと反応してサラは首筋を押さえ慌てて身を引く。
ハルが悪戯げに目を細めたままのぞき込んでくる。
「俺が本気になったら、どうなるかわかってる?」
「本気って、どうなるかって……」
「次は手加減しなくていいね」
次、と言われサラは胸をどきりとさせた。
「あの……」
「息もできないくらい、愛してあげる。壊れるのを覚悟して」
「そ、そ、そんな、どきどきするようなこと言わないで! 私、どういう顔したらいいのか困る……っ!」
ハルの指先が胸元につんと突きつけられた。
「困るとか言って、実は少し期待してる? いいよ。期待してくれても。どうして欲しいか、どうされたいか、どうなってしまいたいか、どんな要望でも応えてあげる」
「もう! ハルやらしい!」
「何を今さら」
「それに、私期待なんて……」
「してないの?」
「それは……」
その後の言葉が続かなくなって、サラはうう……と声をもらし口を引き結ぶ。
もう……ハルの意地悪。
「冗談だよ」
「冗談?」
「今はね。今は、サラとはゆっくり愛情を深めていきたい。大切にしたいんだ」
「ハル……」
ふっと笑ってハルはベッドから降りると窓辺へと歩み、空を見上げ眩しそうに手をかざした。差し込む夕陽がハルの素肌に橙色の光を落とす。淡い光をまとったハルの背中をサラは愛おしげに見つめた。
振り返ったハルが乾いた服を手に、再びこちらに歩み寄ってくる。
身をかがめたハルの手がそっと頬に添えられる。
「身体……つらくない? 動けそう?」
「うん、平気……」
まだ、少しだけつらいけど……。
「服着せてあげる。そうしたら、そろそろ行こうか。夕陽、さっき見たいって言っていただろう?」
サラは嬉しそうに表情を輝かせた。
◇
「うわあ……」
目に飛び込んだその光景に、サラは口許に手をあて感激の声をもらした。
たなびく雲の波間から、いくすじもの黄金の光が地上に降りそそぐ。
遠くに見えるアルガリタの王宮が、天から差す金色の光をまとい輝いていた。さらに、王宮の向こう、悠々と連なる山々の脊梁が茜色の空に黒い波線を描き、その山の合間に今にも沈みゆこうとする夕陽が輪郭をにじませ溶けていく。
見る景色は昼間と同じ。なのに色が違うだけでこんなにも世界が変わるとは。
眼前に広がる夕焼け色に染まったアルガリタの町並みもまた格別だと思った。
「きれい」
側に立つハルの顔を見上げ、サラは瞳をきらきらとさせた。
「雨があがってよかった。もしかしたら夕陽は見られないかもってあきらめていたの」
「別に今日でなくても、見たいと思ったらいつだって連れてきてあげるよ」
「ありがとう。でもね、今日は特別だから」
特別と言って、サラはハルから視線をそらした。
頬が赤いのは差す夕陽のせいばかりではない。
「私、ハルに優しくしてもらえて幸せ」
「どうしたの急に?」
サラはうん、と声を落としうつむく。
「実は、ほんの少し不安だったの」
「不安?」
「あのね、侍女たちが言っていたの」
「また侍女? 今度は何て?」
「彼と一線を越えた途端、急に態度が冷たくなって、とうとう会ってもくれなくなったって。最初は彼の仕事が忙しいのかなと思っていたけれど、全然連絡もくれなくなってしまったまま、それっきり……」
ハルは呆れたように肩をすくめた。
「……ハルのこと疑ったわけではないのよ。だけど、そんな話を聞いてしまったから、少しだけ、ほんとに少しだけ不安に思ってしまったの」
「それで?」
「私の余計な心配だったみたい」
ハルはにこりと笑ってサラの頭を優しくなでた。
「サラの侍女たちはそういう会話が好きだね。なら、その侍女に言ってあげるといいよ。気の毒だけれど、男を見る目がなかったねって。次はもっとまともな男を選びなって」
「そんなこと……」
言えないわよ、とサラはもごもごと口ごもる。
「もっとも、俺もまともかと言われると、はなはだ疑問だけど」
「そんなことない! ハルは私にとって素敵で最高の人だわ!」
照れを隠すように、サラは丘のふちまで駆けていく。雨に濡れた草の露が跳ね返り、衣服の裾を塗らしたが、そんなことは少しも気にはならなかった。
緩やかに空は薄紫色に染まり、辺りに薄暮が迫り始める。
街はそろそろ火点し頃。あちこちの家々から炊煙が立ちのぼり、暗さを増し始めた高い空へゆらゆらと揺れながら消えていく。
ふと、辺りを震わせる笛の音に、サラは振り返ってハルを見る。
「ハル……」
町の喧噪はここまで届かない。
ゆっくりと世界が静かな闇に閉ざされゆこうとする中、もの悲しさを漂わせる笛の音色が遠くの空へ緩やかにのぼり、吸い込まれる溶けていく。
サラは目を閉じて、じっとハルが吹く笛の音に耳を傾けていた。
しらずしらず目の縁に涙が盛り上がり、曲げた人差し指を目元にあてこすった。
ここで、こんな場面で笛を吹いてくれるなんて、ずるすぎるわ。
だって、感動して涙がこぼれそう……。
笛の音が終わると同時に、山の向こうに顔をのぞかせていた夕陽がすっかりとその姿を消してしまった。
夕闇に染まり始める空に星がまたたき始める。
ハルに背を向けたままサラはその場に立ち尽くした。
唇を噛みしめ涙をこらえるように震わせるサラの背に、ハルがふわりと腕を回し抱きしめた。
丘の下から吹き上げる風にサラの衣服の裾が、髪があおられる。
「少し風が冷たくなってきたね。帰ろうか」
吹く風から守るように、ハルの腕が肩に回された。
どこか名残惜しい気持ちでサラはうなずき、ぴたりとハルに身を寄り添えた。




