45 私を愛して
建てつけの悪い扉を開け、二人は降りしきる雨から逃れるように小屋の中へと飛び込んだ。
背後でぎっと音をたてて扉が閉まる。
光を遮断された部屋は薄暗く、重く垂れこめた雨雲のせいで、窓から差し込む明かりだけでは部屋全体を照らすまでには至らなかった。
人の気配は感じられない。
しんとした部屋に窓を叩きつける激しい雨音。
いつの間にか雷は遠のいていったようだ。
雨のにおいに混じり、ほこりっぽさがつんと鼻腔をかすめたが、それもすぐに気にならなくなった。
びしょ濡れになったまましばし、二人は扉の前で立ち尽くす。
髪や服に吸い込んだ雨がしずくとなって落ち、てんてんと床にしみを作った。
「誰もいない、みたいね」
空き家だとわかっていても無断で入ることに気後れを感じたのか、サラはおじゃまします……と小さな声を落とし、おそるおそる小屋の中へと足を踏み入れ中をぐるりと見渡した。
入ってすぐに居間。二人がけ用のテーブルと椅子。そして、隅には小さな食器棚が置かれていた。さらに、奥に続く間はおそらく寝室。部屋はその二間だけであった。
どの家具にも白くほこりがつもっていて、長いこと人が使った形跡は見あたらない。
もしかしたら、この家の持ち主が突然戻ってくるのではと危惧したが、どうやらその心配はないとわかると、ようやくサラは肩の力を抜きほっと息をついた。
緊張が抜けた途端、サラはぶるっと肩を震わせた。
服が肌に張りついて少し気持ちが悪いが、まだ夏の終わり、ほんの少し我慢していればすぐに乾くだろう。
肌寒いのも、耐えられないほどではない。
ちょっと待っていてと、動き出したハルから離れまいと咄嗟に腕をつかむが、ハルの向かう先が寝室だとわかった途端、すぐに手を離してしまった。
すぐに奥の部屋から戻ってきたハルは、手にした毛布をサラに手渡した。
「服、乾かした方がいいね。毛布、少しほこりっぽいけど、ないよりはましだろう?」
ほこりっぽいのは全然気にならないけれど……。
手にした毛布をぎゅっと胸に抱きしめる。
ハルはためらいもなく上着に手をかけて脱ぐと、居間に置かれていた椅子にかけた。
サラは慌ててハルから視線をそらす。
私、変に意識しすぎだわ。
普通にしなければ。
普通に……。
再び上げた視線がハルのしなやかな身体に釘づけとなり、あり得ないくらい胸がどきりと鳴る。意識するなという方が無理であった。
それにしても、どうやって鍛えたらあんなきれいな身体つきになるのかしら。
まるで芸術品のよう……。
そんなことを考えるサラの目は、やはりハルから離れることができなかった。
「どうしたの? 脱がないの? 手伝ってあげようか?」
サラは慌てて首を振った。
「じ、自分でできるから大丈夫! それに、いいの……私はこのままでいいの! そんなに濡れなかったみたいだし」
「びしょ濡れだよ。風邪をひいてしまう」
「私、丈夫だから滅多なことでは風邪ひかないし! だから平気」
「恥ずかしいの?」
「恥ずかしいに決まっているわ!」
「そう? でも、俺一度あんたの身体を見たよ」
何でもないことのようにさらっと言うハルに、サラはうっと声をつまらせる。
ハルが見たというのは、ベゼレート先生の診療所でのことを言っているのだ。あの時、突然ハルに服を脱がされ、そして……強引にベッドに押し倒された。
サラはふるふると頭を振る。
「や、やめて。思い出したりなんてしないでね。私、胸もおしりもぺったんこだし色気だってないし……ほんとうに恥ずかしいから」
「そんなこと気にしているの? 今だってじゅうぶん可愛くて、魅力的だよ。それに、気づいていないの? ほんの少し手を加えるだけで、あんたは今以上に輝けるってことを」
「輝ける? 私が?」
そうだよ、と静かな声を落とし、上半身裸のままハルがこちらへと歩み寄って来る。
「あの、あの……」
口をぱくぱくさせながら、近づいてくるハルから距離をとるように後ずさる。けれど、すぐ背中に壁があたり逃げ場を失ってしまった。サラはちらりと背後に視線を走らせる。後ろに続く部屋は寝室で、隅にはベッドが置かれてある。
も、もう完全に意識しているのがハルにばれているわ。
恥ずかしすぎる。
目の前に近づいたハルが身をかがめ、とんと壁に片手をついた。
ハルの体温さえ感じるほどの間近な距離に、心臓がとくとくと音をたて、息をするのも苦しく感じられた。
頬がかっと熱くなる。
表情を強ばらせ、ハルを見上げた。
ハルの髪から、したたる水滴がぽたりと落ちる。
「そんなに警戒しなくても何もしないよ」
「なら……この体勢は何?」
まるで追いつめられているみたいで。
逃がさないといわれているみたいで。
動くことができない。
「怯えた顔があまりにも可愛いから、少し意地悪してみたくなった」
「ほんとうにそれだけ?」
「どういう意味?」
「それは……」
それ以上の言葉を口にすることができず、サラはうつむいてしまった。
頭の上で、ハルがふっと笑うのが聞こえた。と同時に、壁についていたハルの手が離れる。
あっさりと身を引かれ、サラの心に戸惑いが生じた。
キスして欲しい。
その手で私に触れて欲しい。
なのにどうして? どうして、そんな思わせぶりな態度をとっておいて、私に触れてくれないの? どうしてあっさり引いてしまうの?
いくつものどうしてが頭の中を過ぎっていく。
うつむき視線を足下に落としたまま、サラは沈んだ表情を浮かべた。雨に濡れた髪から水滴のひとしずくがこめかみに流れ、頬を伝い、ぽたりと足下に落ちる。
ハルは自分のことを大切にすると言ってくれた。それは、私がハルと結ばれたいと心から思うまで、いっさい手を出さないという意味。
大切にされてとても嬉しいはず。なのに、自分に触れてくれないという寂しさ、もどかしさも心のどこかにあって……。
どんなに強く願っても、どんなに目で訴えかけても、望みを口にしない限りハルは私に触れようとはしてくれない。
身体の力が抜けてしまうようなキスすらもしてくれない。
恥ずかしいという思いを捨て、勇気を振り絞って素直に自分の気持ちを口にすればこの状況は変わるだろうか。けれど、どうしてもその一歩を踏み出す勇気をだすことができなかった。
私、どうしたらいいのかわからない。
「服、脱いだら声をかけてね」
「うん……」
「見ないから安心して」
背を向け離れて行こうとするハルに、ねえ、と呼びかける。
「……ほんとうは少しは見たいと思ってる?」
自分でも信じられない言葉が口から出てしまったと思う。
「何? 見て欲しいの? 見せてくれるの?」
目を細め、意地悪く笑うハルの指先が衣服の胸元の紐にかけられ、器用にするりと解いていく。
「や……だめ!」
それは反射的な行動であった。
はだけてしまいそうになった胸元を、慌てて両手で押さえ、サラはその場に座り込んでしまった。
思わずだめと叫んでしまってはっとなる。それに、身体を丸めて床に座り込んだこの格好はまるで自分自身の身を守っているかのようだ。
顔を上げることができなかった。
すぐ側に立つハルの目を見ることができなかった。
先ほど自分をどきりとさせるような行動をとっておいて、あっさりと引いてしまったハルを一瞬、残酷だと思い責めてしまったが、けれど本当に残酷なのはどちらだろう。
動揺して悲鳴をあげ、ハルの気持ちを無駄に煽ってこんな態度を返すなんて、むしろ残酷なのは自分の方ではないか。
ハルを傷つけてしまったかもしれない。
そんな思いに胸が押しつぶされてしまいそうであった。
ごめんなさい……とサラの口から弱々しい声がもれる。
「驚かせてしまったのは俺の方なのに、どうして謝るの?」
伸ばされたハルの手に肩をつかまれ、立たせられる。それでもハルの顔を見ることができなかった。
「ほら、ほんとに風邪をひいてしまうよ」
そう言って、サラに背を向けたハルは窓辺へと歩み空を見上げる。
濡れた服を脱ぎ下着姿となったサラは、毛布をすっぽりと頭からかぶって身体にまきつけハルの背中を見つめた。
外は変わらずの雨。
さらに勢いを増す雨の粒が窓を叩きつけ跳ね返り、外は霞がかったように白く煙った。
「ハル……」
愛しい人の名を呟いた途端、心臓がきゅっと締めつけられるようなせつなさを覚える。
サラの頭から毛布がするりと滑り足下に落ちる。そのまま毛布を拾うこともなく、下着姿のままハルの元へと静かに近づいていく。
サラの気配に気づいたハルが振り返った。その瞬間、サラは両腕を伸ばしハルの胸に飛び込み抱きついた。冷えてしまった身体にハルの体温が伝わって、温かくて気持ちいい。
この腕に抱かれたい。
愛されたい。
どうしたの? と首を傾げて問いかけ、ハルの手が優しく頭をなでてくれた。
優しい声。
温かい手。
怖くなんかない。
私……。
そろりと顔を上げ、自分を見下ろす藍色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「ハル……私を愛して」
二人の間に落ちた沈黙。
そして、耳に響くのは、降りしきる雨の音──




