43 心にかかる不安
ハルの腕に自分の腕を絡ませ、サラは連れられるまま薔薇園の中を歩いた。
もしかしたら、ファルクが剣を手に追いかけてくるのでは不安に思い、何度もサラは後ろを振り返ったが、どうやらその心配はなかった。
「いいところってどこかしら。どこに連れていってくれるのかしら。私の知らないところ? もしかしたら、町から離れたところでしょう? とても楽しみだわ!」
ファルクのことを意識からしめ出そうとしているのか、サラの態度はどこか無理にはしゃいでいるのは見るからにあきらかであった。
不意にハルが立ち止まった。つられてサラも足をとめ、どうしたの? と、きょとんとした顔でハルを見上げる。
「無理しなくてもいい」
その言葉にサラの胸がとくんと鳴る。
「ううん……無理なんか全然してないわ。せっかくハルと過ごせる大切な時間だもの。今はハルと一緒にいられることだけを考えたいの」
ハルと一緒にいればあの男のことなど忘れられる。
あの男のことなど、これっぽちも考えたくない。
そう思っていたのだが、やはり、ほんの少しの不安さえ、ハルには気づかれてしまったようだ。
「さっきの男、あんたの婚約者だろう?」
「やっぱり、知っていたのね。婚約者がいたこと黙っていて怒ってる?」
サラの表情がふっと翳りを見せる。
ハルには婚約者の存在を、それもあの男がそうだと知られたくないと思った。
「怒ってなどいないよ。シンのやつから聞かされていた。それに、あんたほどの家柄のお嬢さんなら婚約者がいてもおかしくはない」
「そっか……ねえ、お願いだから帰れって言わないでね」
もし、あの男がハルのことをお祖母様に話してしまったら。
婚約者がわざわざ訪ねてきたというのに、他の人と、それも男の人と出かけてしまったなどと知られてしまったら、それこそ、本当にお屋敷から出してもらえなくなるかもしれない。
それに……。
あの男に何をされるか。
「言わないよ。今帰したら、あいつに何されるかわからないだろう?」
サラはぶるっと身を震わせた。
あいつにひどいことをされていたことも多分、ハルは知っているのね。
「ねえ、私に婚約者がいると知っても、ハルは何とも思わない?」
「どうして?」
「どうしてって……」
まさか、そう聞き返されるとは思いもせず、サラはしゃんぼりとうなだれ自分の足下に視線を落とした。
「あんたは俺のものだと言った。そして、あんたを他の誰にも渡すつもりはないと誓った。今さら、他の男と一緒になると言っても俺は許さないし、他の誰かに心変わりすることも認めない」
「あの人と結婚するつもりなんて、これっぽちもないわ。それに、ハル以外の人となんて考えたこともない」
ハルにそう言ってもらえて嬉しいのに、なのに何故だろう、素直に喜ぶことができなかった。
サラは何かに脅えるように身体を震わせた。
全身が総毛立つような、まるでざらついた何かで肌の表面をなでられる感覚に襲われ不安でたまらない。
ハルと一緒にいるところをファルクに見られてしまった。
ハルとファルクが出会ってしまった。
シンの時のように、ファルクから何かを仕掛けてくることがなかったのが救いであった。だが、もしあの時、ファルクがハルに剣を向けたらどうなっていたのだろうか。
もし、そうなったらハルはどうしただろうか。
そう思うと恐ろしさに震えた。
それに、先ほどからつきまとう不安は何だろう。
とてつもなく、何かよくないことが起こる……そんな気がしてならなかった。
けれど、その不安が何を意味するのか、自分は何に脅えているのか、それがわからないだけに、いっそう焦れた思いをつのらせた。
ハルの手が頬にあてられた。
「どうしたの? 何か心配事があるなら言って」
「ハル……」
「言ってごらん」
もう、あの屋敷には戻りたくない。
いっそうのこと、このままどこかに連れていって欲しい。
とても嫌な予感がする。
心がざわざわと騒いで落ち着かず、鼓動が何かの暗示を知らせるようにしきりに警告を鳴らしている。
何かよくないことが起こりそうで怖い。
でも……。
よくないことって何?
それは私の身に?
それともハルの身に?
この胸に巣くう不安をハルに打ち明けるべきだろうかとサラは思い悩む。だが、不安に思うのはあくまで自分がそう思い込んでいるだけであって、実際には確たるものなど何もないのだ。
いってみればただの予感。
ハルの優しい言葉に声に、喉まで出かかった言葉だが、サラは何故か飲み込んでしまった。
そんなとりとめのない予感を話したところでどうなるというのか。けれど、そう思い込んでしまったのはサラの大きな間違いであった。
「ううん、何でもない。ただ、あの人のことは忘れたいだけ。だから早く行こう! せっかくの時間がもったいないわ」
心の中に渦巻く黒いもやもやを振り払い、サラは精一杯の笑みを浮かべ、ハルの手を引いて歩き出す。
心に落ちる暗澹としたものが決して消えたわけではないが、もしかしたら、自分の思い過ごしなのかも知れない。きっとファルクの姿を見てしまったからそう不安を感じているのだと、無理矢理そう思うことにした。
ごめんねハル、心配をかけさせてしまって。
とにかく今は忘れてしまおう。
ハルと一緒にいられる時間を大切にしたい。
そんな自分を気遣ってくれているのか、ハルが時折、手を強く握りしめてくれた。それはまるで、大丈夫、俺がいるよと言ってくれているようで嬉しかった。
言葉はなくても、ハルの気持ちは伝わってくる。
隣を歩くハルの顔をちらりと見上げると、ハルも気づいて視線を落としてくる。目が合うたび、サラは微笑みを返した。
薔薇園を抜けたその奥には林が広がっていた。
ハルがあんたの庭は広くて迷う、と言っていたわりには、広大な敷地内をまるで知りつくしているかのように、ハルの足どりはためらいもなく進んでいく。サラとて、奥にまで入って行くのは初めてで、自分の屋敷なのに、こんな場所があったのかと驚いてしまったほどであった。
林内に踏み込むと一転して辺りは薄暗くなり、ひんやりとした空気が漂い、肌寒さを感じた。
サラはきょろきょろと回りを見渡しながら、ハルの手に引かれ歩いた。薄暗い木々の中、上空を覆う枝葉の隙間から、ちらちらと太陽の光が見え隠れした。
しばらく歩くと、一頭の馬が木に繋がれているのがサラの目に飛び込んだ。
「え? こんなところに馬」
ハルが連れてきたのだろう、サラは木に繋がれた馬に駆け寄りその背をそっとなでた。
「どうしたの、この馬?」
「今日は少し遠出をしようかと思って借りてきた」
サラは嬉しそうに瞳を輝かせた。
「ハル、馬に乗れるの! すごいわ!」
「そんなに驚くこと?」
「ハルは何でもできてしまうのね。ねえ、ハルにできないことってあるのかしら?」
「できないこと?」
ハルは首を傾げてしばし考え込み。
「思い浮かばないな」
と、しれっと答える。
「そんなことはないでしょう。ハルにだって苦手なこととかあるでしょう? たとえば、お料理とかお裁縫は? 男の人だもの苦手よね」
「それ、あんたの苦手なことだよね? 困らない程度にはできるよ。少なくともあんたよりはね」
「それを言われると返す言葉がないわ。うーん、私、絶対ハルの苦手なこと探してみせるから」
「いちいち探さなくていいよ。そんなことより」
言うや否や、ハルは軽やかに馬にまたがった
手にしていたお弁当の籠を胸に抱え、サラはぽうっと頬を赤らめハルを見上げる。
「何だかハル、王子様みたいで素敵……」
何それ、と苦笑を浮かべ、ハルはおいで、とサラに手を差し出してきた。
「もしかして、一緒に乗せてくれるの?」
「一緒に乗らなかったらあんたはどうするつもり? 歩くの?」
「歩かない。乗せて!」
「ならお姫様、お手をどうぞ」
「お姫様……」
「照れてないで、手」
うん、とうなずきハルの差し出してきた手をとると、軽々と引っ張り上げられ騎乗する。
「うわー馬ってこんなに高いのね」
「乗るの初めて?」
「初めてだわ」
「怖くない?」
「ハルと一緒だもの。怖くない」
首を傾けてサラは振り返り、にこりとハルに笑顔を向けた。
「ハル、私のためにありがとう。嬉しいわ」
ふわりと背後から抱きしめられる。
「喜んでくれるなら、よかったよ」
背中越しに伝わってくるハルの温かさが心地よくて、サラは静かに目を閉じた。
「少し笑ってくれたね」
「心配かけてしまってごめんなさい。それに、私がハルにお屋敷に来てと言ったばかりに……まさかあの人があの場に来るとは思わなかったから……」
回されたハルの手にサラは自分の手を重ねた。
「ねえハル、もしさっきファルクが剣を向けてきたら、ハルはどうするつもりだったの? 戦うつもりだった?」
いいえ……殺してしまうつもりだったの。
「どうするつもりもないよ。それに、剣を抜くまでもない。あの男程度なら、素手でじゅうぶんだ。一瞬で沈めてやる」
「素手でって……」
重ねたハルの手にサラは視線を落とす。
こんなにきれいで、女の人みたいに細い手なのに。
「それに、心配しなくても、あの男が俺に何かを仕掛けてきたとしても、どうこうするつもりはないよ。いちおう、あんたの婚約者だし、今あの男に何かあったら問題があるだろう」
それを聞いてほんの少しだけ安心した。
が……。
「ただし……」
ただし、と言って、重ねた手に指を絡めとられ、さらに、回されたハルの腕に力が込められる。
「あんたに危害を加えない限りはだけどね」
私に危害を加えない限り……。
ならもし、と言いかけようとしたサラは思わず言葉を飲み込んでしまった。
恐ろしくて聞けなかった。
もし、私に何かあったら、間違いなくハルはファルクを容赦なく叩き潰してしまうだろう。
ハルにそんなことはさせたくない。
大丈夫。
私がちゃんと気をつければいいだけのこと。
あの男と二人っきりになったりしないし、夜もしっかりと部屋に鍵をかけておけばこの間のように忍び込んでくることもないはず。
「行くよ。しっかりつかまっていてね」
ハルの声にサラは我に返りうなずいた。
そして、馬は走り出す。
けれど、もしもこの時、素直に今の不安をハルに打ち明けたら、この後に起こる悲しい出来事を少しでも回避することができたのだろうか。
幸せなど、他人の手によって簡単に壊されてしまうのだ。
あっけないほど、いとも簡単に。
徐々に不穏な気配が足を忍ばせ、残酷なまでに二人を引き裂こうとしていた。




