42 ハルとファルク
翌日、久方ぶりにトランティア家にその人物が訪れた。
その人物とはサラの婚約者、ファルク・フィル・ゼクスであった。
ファルクがこの屋敷に姿を現すのは、実にあの夜会以来のことであった。
トランティアの屋敷に足を踏み入れるなり、ファルクは出迎えた使用人たちひとりひとりに気さくに挨拶を交わし、爽やかな笑顔を振りまいた。
「ファルク様がおみえになったようよ」
「まあ、ファルク様が!」
年若い侍女たちは仕事の手をとめ、みないっせいにファルクの姿を一目見ようとわらわらと集まってきた。
「ところで、私の可愛い婚約者殿はどこにいるのだろうか? お部屋かな」
ファルクは大仰に芝居がかった仕草で両手を広げ、婚約者の姿を探すように視線をきょろきょろとさせる。
侍女たちは揃って顔を見合わせた。
せっかく、ファルク様がいらしたというのに、婚約者であるサラ様は何故この場に現れないのかという非難の混じった目だ。
「あの……サラ様でしたら先ほどお庭に向かわれましたわ」
「庭?」
「はい、薔薇園の方に走っていくのを見かけました」
「薔薇園……」
と、呟くファルクの眉間に深いしわが刻まれたのを見た侍女たちは、怪訝そうに首を傾げる。
数日前の夜会の日、ファルクがその薔薇園でシンに剣で完膚なきにまでに打ち負かされたという屈辱を味わわされたことを侍女たちは知らない。
当然ながら、ファルクもそのことを誰にも話してはいなかった。けれど、ファルクが不愉快げに眉をひそめたのはほんの一瞬のこと。
「申し訳ございません。ファルク様がお見えになるとは知らなかったもので」
わかっていたら、引き止めたのですが……と申し訳なさそうにうなだれる彼女たちに、いいのだよ、とファルクは人好きのする笑顔をたたえた。
「君たちのせいではないさ。突然やってきた私がいけないのだから」
侍女たちはほっと息をもらしつつも、ファルクの笑顔に心をとろけさせ、ぽっと頬を赤らめる。
「今すぐ、サラ様をお呼びしてきますわ。ファルク様、お待ちになってくださいませ」
サラを呼びに行こうと背を向けたその侍女を、ファルクはいや、といって引き止める。
「私が直接、薔薇園に出向こう」
「ファルク様がですが?」
「突然、行って驚かせてあげようと思ってね。それに」
ファルクは窓の外を見上げ、まぶしそうに目をすがめた。
雲ひとつない清々しいほどの真っ青な空。
「今日は天気もいいことだし、少し彼女と庭を散歩しながら話でもしようかと思ってね」
「まあ……それはきっとサラ様もお喜びになりますわ」
ファルクのその言葉に、しばらく二人っきりになりたいのだと侍女たちは悟ったようだ。
「では行ってみるとしよう」
じゃあ、と軽く手をあげ侍女たちに背を向けたファルクの顔に、今まで浮かべていたにこやかな笑みはすっかりと消えていた。
「ああ……いつ見てもファルク様は素敵だわ」
「凜々しくて男らしくて」
「それでいてお優しくて」
「物腰も穏やかで落ち着いていて」
「大人の男の魅力がにじみでてるのよね」
「早くこの屋敷に来てくださらないかしら。待ち遠しいわ」
「もうすぐよ。もうすぐ、サラ様とご結婚されるのだから」
ファルクの本性を知らない侍女たちは、胸に手をあて、去って行くファルクの逞しい背中を熱のこもった目でいつまでも見送っていた。
◇
ファルクがトランティアの屋敷を訪れる少し前。
薔薇園へと辿り着いたサラは、そこにハルの姿を見つけ、嬉しそうに手を振り小走りに駆け寄った。ふわふわと肩に背に踊るサラの髪に、昨日ハルから買ってもらった藍色のリボンが揺れていた。
「今日はハルの方が先に来ていたのね。待たせてしまったかしら」
「来たばかりだよ」
軽く息をはずませ肩を上下させるサラに、ハルはそんなに走らなくてもと苦笑する。
「ハルからもらったリボン、今日もつけてみたの。うまく結べてる?」
言って、サラは恥ずかしそうにうつむいた。
「可愛いね」
「リボンが?」
ハルの手が頬にあてられ、小指があごにかかり上向かせられた。
「違うよ。昨日も言った。あんたがだよ」
そう言って、ハルはサラの頬にちゅっとキスをする。
「可愛いよ」
サラはかあっと顔を赤くさせた。
それにしても、可愛いと真っ直ぐに自分を見つめ、ためらいもなく言ってくれるのに、どうして名前を呼ぶことが照れくさいのだろうかと不思議に思ったが、そのことは口にはしなかった。
「あ、あのね」
と、声をうわずらせ、サラは手にしていた籠をハルの前に差し出した。
「今日はお弁当を持ってきたの」
「……」
ハルは一瞬、怯えたように頬を引きつらせたが、作ってもらったの、と後に続いたサラの言葉にほっとした表情を浮かべる。
「お弁当、本当は私が作れたらいいのだけれど」
「いや……」
「なかなか厨房に入れないから」
「そのうちだね」
「そうね。ちゃんとお料理覚えてからね」
「そうだね……ところで、お弁当の中身は何?」
気になる? と、サラは籠の蓋を開けハルに見せる。
「パンとチーズとハム。どれも全部手作りなのよ。それから、こっちは蒸した鶏肉。あれ? 何か葉っぱみたいなのがのっかてるけど、何かしら」
「……ローズマリーだね。風味づけ」
「ほんとうだわ。いい香り。それから、こっちがりんごパイでしょう。果物もあるし林檎酒も。それに、焼き菓子もたくさんつめてきたの」
ハルは籠の中を見てへえ、と顔をほころばす。
「どれもおいしそうだね」
「いろいろ、たくさんつめてってお願いしたの。この中にハルの好きなものはあるかしら」
「りんごパイがおいしそう」
「ハルはりんごパイ好き?」
「大好物」
「大好物なの? なら、私のぶんもあげる」
そんなに食べられないから、と言うかと思いきや、にこりと嬉しそうに笑うハルを見てサラはまたしても胸をきゅんとさせる。
な、な、な、何っ! 今の笑顔は何!
その笑みは嬉しい笑みなの? そうなのね!
思わず緩んでしまいそうになる頬を押さえつけるように、サラは手をあてた。
それに、ハルがりんごパイが好きだなんて。
何だか可愛い。
「なら、今日はいいところに連れていってあげる。そこでお弁当を食べよう」
「いいところ! どこかしら?」
「それは、ついてからのお楽しみ」
「お外でハルと一緒にお弁当を食べられるなんて、今日も素敵な一日になりそうだわ」
◇
話し声?
薔薇園の方から聞こえてくる声に、ファルクは訝しげに眉根を寄せた。
聞こえてきた声は間違いなくサラのもの。それも、ずいぶんとはしゃいだ声であった。
相手は誰だろうか。
誰と薔薇園で会い、会話をしているのか。
ファルクの脳裏に先日の夜会でサラと親しげにしていた男の姿が思い浮かんだ。
足音を殺し、ファルクはそっと薔薇の茂みから声がした方へと顔をのぞかせた。
◇
サラの手をとり歩き出そうとしたハルは、ふと何かの気配に気づいたように肩越しに振り返る。
ハルにつられてサラも後方を振り返った。
視線の先、薔薇の茂みの蔭からこちらを見つめ立っている婚約者、ファルクの姿を見つけサラは息を飲む。
「ファルク……」
まとわりつくような、ねっとりとしたファルクの視線から逃れるように目をそらし、サラはつないでいたハルの手を握りしめる。
あの夜会の次の日、自分の部屋に、それも夜更けにこっそりとやってきて以来、姿を見せなかったファルクが何故。それも、よりにもよって、ハルと一緒にいるところを見られてしまうとは。
「あの人のことはいいの。だからハル、行こう……」
怯えた声を落とし、サラはハルに身を寄せた。身体を震わせるサラの肩をハルは引き寄せる。
ハルとファルク、言葉もなく絡み合う二つの視線──
誰だ、あの少年は……。
ファルクは顔をしかめ、サラともうひとりの少年の姿を凝視した。
屋敷からずいぶんと離れた薔薇園に来るなど、ひとりではない、おそらく誰かと会っているのだとすぐに直感した。そして、その直感はあたった。
だが、てっきり先日の夜会で一緒にいた男だろうと思っていたが、驚いたことに相手は違った。
知らない顔であった。
見る限り、この国の人間ではないようだ。
細身の、見るからに弱々しそうな身体つきをした少年。
剣を携えてはいるが、どうせ見せかけだろう。たいして強そうにも見えない。
あの少年なら自分が負けることはないと判断し、サラの元に駆けつけ無理矢理にでも連れ戻そうとしたがそれ以上、二人に近寄ることができなかった。
何故だかわからない。
一歩も足を動かすことができなかった。
少しも表情を変えることもなく、その少年はファルクから視線を外し背を向けた。そして、二人の姿が薔薇園の向こうへと消えていくのを、ファルクはただ黙って見ているだけであった。
◇
腕の中で震えているサラを抱きしめ、髪に口づけを落とし優しくなでる。
大丈夫。
怖がらなくていい。
サラのことは俺が守るから。
あんな奴に指一本触れさせはしない。
相手の男が一歩足を踏み出しかけた。すかさず、ハルは鋭い視線と気を放つ。
一歩たりともそこを動くな。
彼女に近寄るな。
近寄れば容赦しない。
貴様の何もかもをずたずたに切り裂くぞ。
「ハル……」
睨みつけるようにこちらを凝視するその男から、ハルは静かに視線と殺気を解く。
不安なそうな目で見上げてくるサラに、ハルは微笑みを落とす。
「行こう」
震えるサラの肩に手を添えたまま、ハルは男に背を向け歩き出した。




