38 しるし
言葉もなく抱き合った。
互いの鼓動が重なる。
気持ちは通じ合えた。
昨日までのように、もしかしたらハルは来てはくれないかもしれないという不安に怯えることもない。心がきゅっと締めつけられるようで痛くて切ない。ハルの温もりが気持ちよくて、このままずっと抱きしめていたい、強く抱きしめて欲しい。このまま離れたくないと切実に願った。
「そろそろ、帰るよ。また夜が明けてしまったね」
ハルの声にようやくサラは顔を上げ、首を傾けゆっくりと窓の外に視線をあてる。
「ほんとだわ」
いつの間にか、東の空がぼんやりと白み始めていたことに気づく。
やがて、一日の始まりを告げる暁の鐘が鳴り響き、世界を夜明け色に染めるだろう。それはきっと、サラにとってはいつもと違う新しい夜明け。
「そういえば、私ずっとハルの膝に乗っかったままだったわ。重くなかった?」
膝というか腰のあたりなのだけれど……。
「重くはないよ。ただ」
「ただ?」
「何でもない」
「何でもないって気になるわ。言ってよ、何?」
「言わせるな」
「変なの」
「だけど、そろそろ我慢の限界」
あんた、おもいっきり抱きついてくるし、とハルはぽつりと声を落とす。
腰のあたりに手を添えられ、膝から降ろされそうになる。けれど、サラはいや、と首を小さく振りハルの腕をつかんだ。
「このまま連れていってくれるのかと思ってた」
「そうしたい気持ちはあるけど、今すぐ無理なのはわかっているだろう?」
なら、いつ? と言いかけてサラは口をつぐんだ。
確かに、ここで突然自分がいなくなってしまっては、お父様やお母様が驚いてしまう。
でもねハル、私にはあまり時間がないの。
もうすぐ結婚させられてしまうから。
あの男と。
勝手に決められた婚約者の顔を思い浮かべた途端、サラの顔に嫌悪なものが過ぎった。
婚約者がいることを、どうしてもハルには言えなかった。けれど、もしかしたらハルは知っているのかもしれない。おそらく、シンから聞かされて。
「明日も来るよ」
「うん」
「心配するな。あんたを誰にも渡さないと言っただろう?」
だから、そんな顔をするなとハルの手が優しく頭をなでてくれる。
「ハル、あのね、明日は私授業もないし自由な時間がたくさんあるの。お昼頃、お庭で待ってる」
「庭? あんたの庭広すぎて迷う」
「お屋敷の東側。薔薇園で待ってる」
来てくれる? と首を傾げて問いかけるサラに、ハルはわかったと答えるかわりに微笑んだ。それでも、離れるのがいやというように、サラはハルの腕を離さない。
「まだ寂しいの?」
「うん……」
しがみついていた手を解かれ、両手首をつかみ取られる。薄い夜着から少しだけのぞく胸元にハルの唇が寄せられた。
突然のハルの行動に声も出せずにいた。
寄せられたハルの唇で胸元を軽く吸われ、驚いて反射的に身を引こうとする。が、きつく両手首をつかまれた状態では逃げることができなかった。
思いっきり振り切れば、ハルはすぐに手を離してくれるだろう。けれど、そうはしなかった。
嫌ではないから。
軽く唇を噛む。
ハルが求めてきたなら、逃げずに応えようと決心した。
だから、怖くなどない。けれど、身体の震えを押さえることができなかった。
唇を離したハルがちらりと上目遣いで顔を上げ、つかまれた両手首が静かに離された。支えを失った手が力が抜けたように、ぱたりと床に落ちる。
「泣きそうな顔。怖がらせてしまった?」
「平気……驚いただけ」
ハルの唇があった胸元に視線を落とすと、そこにかすかな赤い印がついていた。それはまるで小さな花びらのようだった。
熱を持ったそこに、ハルの指先があてられる。
「俺のことを思いながら眠るといいよ。起きたらまたすぐに会える」
だから寂しがらないで、と頬をなでられた。
「これ……」
「安心して、すぐに消える」
添えられたハルの手に、サラは自分の手を重ねた。
「何だか消えるのがもったいない」
「跡は残せないだろう」
「でも、私はハルのものって感じで嬉しい。ねえ、見えないところに欲しい」
ハルは一瞬だけ目を見開いた。そして、肩を軽く揺らして含み笑う。
「あんた今、ものすごいこと言ったの気づいてる? 俺のほうがどうしたらいいか困ってしまうよ」
「だって、嬉しかったから」
「それで、見えないところって、どこ?」
意地悪く問いかけられているとも気づかず、サラは眉を寄せ真剣に考え込んでいる。
「肩とか腕? だめだわ、着替えの時に見られてしまうし入浴の時も……ほんとうは着替えも入浴もひとりでできるのよ。だけど、なかなかそうさせてもらえないの」
またしてもサラはうーんと唸り、やっぱり無理ね、と声を落とすと、残念そうな顔で胸元の印に手を添えた。
「驚いたりしない?」
何が? と言いかけて言葉を飲む。
色香をたたえたハルの瞳に見つめられ胸がとくんとなった。
「たぶん……」
そう答えたと同時にハルに抱き上げられる。小さな悲鳴をもらして咄嗟にサラはハルの首に腕を回してしがみつく。ハルが歩むその先がベッドだということに気づき、サラは身を固くしてハルの胸に顔をうずめた。
ベッドまで連れていかれ、ころりと横たえられる。
顔の脇に片手が置かれハルの顔が近づく。
「ハル……」
「だから、そんな怯えた顔をしないで、大切にしたいとさっき言っただろう。あんたが考えているようなことはしないよ」
考えているようなこと、などと言われ耳まで赤くなった。
「手」
「手?」
「口許にあてて」
「こう?」
どうして? と思ったものの、言われるまま素直にサラは両手を口許に持っていく。その瞬間、ハルの唇にゆるやかに妖しい笑みが浮かんだことに気づく。
片脚にハルの手がかかり持ち上げられた。
夜着の裾がするりと腰のあたりに滑り落ちる。
「ま……」
口許にあてた手がそうさせてしまったのか、待って、と声を上げようとして反射的に言葉を飲み込んでしまう。
ハルが声を出さないでというように、薄く笑みながら唇に人差し指をたてる仕草をする。
腿の内側をなぞるようにハルの唇が這う。そくりとした感覚が身体中を走りぴくりと背筋が震えた。反応してしまったという羞恥心に顔を赤くする。
ハルの唇が腿の内側一点でとまり、ちゅっと口づけをされる。その部分から急速に熱を感じ、瞬く間に全身に広がっていく。
「少し痛いよ。いい?」
サラは両手を口許にあてたまま、わけもわからずうなずいた。頭の中が真っ白で、何も考えることができなかった。ただうなずくことしかできなかった。
軽く噛まれた刹那、サラは一瞬だけ目を瞠らせ、きつくまぶたを閉じた。
「……っ!」
いたい……。
胸元の時よりもきつく吸われ、ちくんとした痛みが肌に走り思わず身をよじる。こらえきれずもれてしまった声は、押さえた手の中で飲み込まれていく。
痛くて。
熱くて。
せつない。
「痛かった?」
その声にようやくサラは我に返った。
いまだ口許をおおっていた手をハルによって解かれ、こめかみのあたりに口づけをされる。
「跡、そうかんたんには消えないよ。誰にも見られないように気をつけて」
「おやすみサラ。また明日」
ハルの足音が遠のいていく。
見送りたいと思ったのにすっかり力が抜けてしまい、ベッドから身を起こすことができなかった。
窓が開いた瞬間、ひやりとした夜気が部屋に流れ込む。
ハルの気配が部屋から消えた。
「は……ぁ……」
肌に残された甘く疼くような痛みにサラは震える吐息をもらす。
まだハルの唇の感触が残っているようで……。
胸に手をあて、サラはまぶたを閉じた。
私、眠れそうにない。
いいえ……。
ハルが残していってくれた感触をすべて拾い、消えてしまうまで感じていたかった。




