37 近づいていく二人の距離
月明かりだけが差し込む暗闇の中、その深い真紅の飾り紐は見ようによっては黒にも見えた。けれどじっと目を凝らして見れば、やはりそれは、まごうことなき真紅色。
真紅に金糸。
その色は特別な意味がある。
それは、この国のアリシア王女直属の兵や側近にのみ許された色だから。
異国の、それもここよりずっと遠いレザンの暗殺者として生きてきたハルが何故という疑問が頭をもたげた。
私はまだ、ハルのほんの一部の真実に触れただけにしかすぎないのだわ。
しかし、サラの考えはそこで中断されてしまった。
頬に触れたハルの手にぴくりと肩を震わせ、ハルの剣から視線を上げる。
「まだ不安?」
おそらく自分がこの真紅の飾り紐に対して疑問を抱いていることをハルならば気づいているはず。けれど、そのことについて口にすることはなかった。
ハルの瞳が今はまだ語れないと言っているような気がしたから。
サラは違うの、と首を振った。
大切にする、守ってくれると言ってくれたハルを、私は信じてついていかなければならない。きっと、そのことについては時がきたらすべてを語ってくれるだろう。
「ハルにそんなふうに言ってもらえるなんて、私幸せすぎて死んでしまいそうだわ」
「死なれるのは困るよ」
「ずっと、一緒にいてくれる?」
「手放さない、逃がさないって言っただろう。他の誰にもあんたを渡したりはしない。それに俺、狙った獲物は一度も逃がしたことがない」
「獲物……」
今、すごくどきっとしたけど、狙った獲物って、それって過去のお仕事の話みたい……。
複雑な顔で唇を引き結ぶサラに、ハルはくすりと笑みを浮かべた。
「レザンのことも、言葉も教えてあげる」
「ほんとうに教えてくれるの? でも、物覚え悪いってハルに呆れられるかも」
「誰が教えると思ってるの?」
「そうね。ハルは教え方がとても上手だものね」
嬉しそうに瞳を輝かせるサラを見つめ、ハルの顔にどこか悲痛さを忍ばせるものがにじんだ。けれど、無邪気に嬉しそうに顔を綻ばすサラには、ハルのかすかな表情の変化に気づくことはなかった。
「(この先、奴らに捕らえられレザンに連れ去られるという最悪な局面に陥った場合のことを考えて、言葉がわからない通じないではあまりにも酷だ。けれど、それは万が一のため。そんなことは絶対に俺がさせない)」
「ん? 何かしら」
レザンの言葉で呟くハルに、サラは何? と無邪気に首を傾げる。
「少しずつ、ゆっくりと覚えていこうねって」
「うん」
ハルはサラの耳元に唇を近づけ、ゆっくりとレザンの言葉をささやいた。
「言ってごらん」
「でも、意味がわからないわ」
「言えばわかるよ」
サラは頬を赤く染め、ハルが今呟いた言葉をたどたどしく繰り返した。
初めて口にした異国の言葉。
意味はわからずとも、美しい響きはまるで歌をうたうようで胸が踊った。
ハルの唇がゆっくりと唇に落ちていく。それは、くすぐったいくらい羽が触れたような優しい口づけ。
大切にすると言ってくれたハルの、真実の思いが心に浸透していく。
たぶん意味がわかったわ。
わたしにキスをして──
まるで二人の秘密の言葉みたい。
痛いくらい胸がどきどきする。
ハルの声が再び耳元に落ちた。
「好きだよ、サラ」
「ハル……」
背筋が震えた。
震える手を口許にあて、サラはきゅっと目をつむる。
泣いてしまうわ。
それはレザンの言葉であったけれど、ずっと欲しかった言葉だと心の中で理解し、嬉しくて胸が張り裂けそうになった。
かたく閉じた目の縁に涙の粒が浮かび上がる。その涙が頬にこぼれ落ちる前に、ハルの唇がそっと拭ってくれた。
ハルが私に好きと言ってくれた。
私、あきらめないでよかった。ずっと、ハルのことを追い続けてよかった。
ハルがベゼレート先生の元から別れの言葉もなく去ってしまった時は、どれほど落ち込んだことか。もう会えないかもしれないと思った時のあの絶望した気持ちは今でも忘れない。それから、テオの協力で屋敷を抜け出すことに成功し、必死になってハルを探した。
ここまでくるのに本当にいろいろなことがあった。そして、ようやくハルの心を手に入れることができた。
誰よりもハルの側にいる。
こんなにも、近くにいる。
かすかに涙がにじむ目の縁、ハルの唇の感覚がいまだ熱をもったように残る。
私、ハルのためにいつも笑うと決めたのに、もう、泣かないって誓ったのに少し泣いてしまったわ。でも、嬉しい涙だもの許されるわよね。
赤くなった目を指先で拭い、サラはとびきりの笑顔をつくった。
それはまるで、花開くことを待ち続けていた小さなつぼみが、涙の露をはじき、一気に美しく柔らかな花弁を広げたような、そんな可憐な笑顔であった。そして、花開かせたのは、愛おしい人がそそいでくれた愛情。
「私も、ハルが好き」
はにかむように、けれど、相手の目を真っ直ぐに見つめてサラは自分の思いを伝える。
何度その言葉を口にしても、まだ足りない、伝えきれないという焦れたもどかしさに胸がざわつく。
ハルのしなやかな指先がサラの髪へと伸びた。
「レザンの言葉では?」
ハルにぴたりと身体を寄せ顔を近づける。先ほどハルが口にした言葉を思い出しながら、その耳元にサラはささやくようにゆっくりと繰り返す。
「好きよ、ハル」
ぱっとハルから身体を離したサラは、恥ずかしそうに視線を落とし頬を赤らめる。
「ねえ私、上手に言えてる? 私の思いハルの心に響いている?」
ふっと笑って、ハルの手が髪を梳いてくれた。愛おしげに何度も何度も。
意識がハルの手の流れに集中する。髪をなでるその手の優しさに心地よさと安心感を覚え、サラはうっとりとまぶたを落とした。
私世界一幸せ。
どうか、この幸せが永遠に続きますように。いいえ、一生続くと信じている。
「ねえ、裏街での約束がもうひとつあるわ」
「そうだね」
「私をハルのお嫁さんにしてくれるって約束よ」
「ずっと一緒と言ったのは、そういう意味ではなかったの?」
こともなげにそう答えるハルに、サラは驚きに目を見開いた。信じられない、と声を落とすサラのふわふわの髪を一房手にとり、ハルは口づけをした。
ほんとうに、私がハルのお嫁さんに……。
「私、お料理とかお裁縫とかきちんと覚えなければだわ。お掃除のしかたとか、あとは、えっと……花壇にたくさん花を植えたいの。だから、お花の育て方も知りたい。それから……」
「覚えることがたくさんありすぎるね」
「何かひっかかる言い方ね」
頬を膨らませ、サラはハルの胸をぺちりと叩く。
くすりと笑うハルであったが、不意に真顔に戻り表情を暗く翳らせた。
「もうひとつ言っておかなければならないことがある」
「え?」
真剣なハルの面持ちにサラは身を固くする。
一呼吸置いて、ハルはさらに言葉を継いだ。
「いろいろ話すことがありすぎて、だけど、ほんとうはこのことを一番先に言うべきだったのかもしれない」
ごめん、と静かに声を落とすハルに、サラの胸に黒い影が広がっていく。
ハルが謝るほどのこととは、よほど自分を驚かせる重要なことなのだろうか。
「とても驚くこと?」
不安な感情は出さないように気をつけたつもりだが、やはり声に表れてしまったのかもしれない。自分でも声が震えているのがわかった。
「たぶん」
ハルの瞳が悲しげに揺れ動く。
「レザンの暗殺者はみな短命なんだ」
短命って、長くは生きられないってこと……?
若くして死んでしまうって意味?
それはあまりにも衝撃的すぎる告白であった。
たった一晩でハルの秘密をたくさん知ることができた。しかし、最後の最後に思いもよらない事実を聞かされサラは愕然とする。
たとえ何があっても、ずっと、いつまでも一緒にいようと誓い、ハルに好きと言ってもらえて、舞い上がっていた気持ちが挫かれ、一気に地に叩きつけられたような。
「俺たちは幼い頃から毒に耐性をつけるため、さまざまな毒をとり続けてきた。そのせいで……」
身体に蓄積されてきた毒物が長い年月をかけ、やがて身体を蝕み死に至らしめる──
毒に侵され倒れていった組織の者たちを数え切れないほど見てきた。その最期はあまりにも壮絶だった……。
自分にも、いつかその日がやってくるのだと、ハルは静かに語った。
「悪魔の花……?」
ぽつりと呟くサラの声に、ハルは無言でうなずく。
初めて出会った時、ハルの身体から甘い花の香りが漂い、その匂いを吸い込んだ途端、意識が遠のいて気を失ってしまった。それは何故と昨夜ハルに尋ねたら、さあね、の一言ではぐらかされてしまったが。
「あんたが言っていた甘い香りはその悪魔の花の香りだ。その花の花粉は人に幻惑を見せ。蜜は人の思考を鈍らせ。茎からでる汁は人の身体の自由を縛り。根は人の生命を奪い取る。それが悪魔の花と呼ばれる所以だ。けれど、子どもの頃から悪魔の花の毒を身体に少量づつ取り入れ耐性がついている俺たちにとっては、ちょっとした薬にもなる時もある。薬といってもあまりいい意味ではないが。あの時、カーナの森で……」
ハルはその時のことを思い出すような表情を浮かべ、視線をわずかに落とした。
「俺は傷ついたうさぎを腕に抱きしめながら泣いている小さな男の子を偶然見かけた。うさぎの怪我はたいしたことはなく、たんなる擦り傷だった。傷によく効く薬草を見つけ、男の子を安心させつつ手当をしてやった。そして、その子を森の出口まで送っていこうと。だがその時、突然、賊が現れ矢を放ってきた。とっさに、放たれた矢から男の子をかばったが、俺自身、肩に矢を受けてしまった。すぐにわかったよ。鏃にかなりの猛毒が仕込まれていたことに。たかが賊相手に油断していた。毒の耐性はあるからそれで命を落とすことはない。が、毒の種類によってはまったく無事でいられるというわけではない」
そこで、ハルは自嘲めいた薄い笑いを浮かべた。
「あの頃なら油断なんて絶対にあり得ないし、決して許されないことだったのにね……」
ハルが言うあの頃とは暗殺者として組織で動いていた時のことだ。けれど、たかが賊だとハルは簡単に言うが、相手は二十人以上もいたのだ。それら多数の賊を相手にひとりで立ち向かうことじたい普通では考えれないことなのに。
「瞬く間に大勢の賊に囲まれてしまい、俺はその子どもを助けるため奴らと戦った。だが、あの子どもがいる前では本気で剣を振るうことができなかった。あの子を怯えさせるわけにはいかないと思ったから。毒のせいで朦朧としていく意識と傷の痛みで俺は悪魔の花の薬を飲んだ。刺激剤だ。一度体内に入れるとしばらく花の匂いが身体に染みついて消えない。それが、あんたが言っていた甘い香りだ。そして、子どもの姿が見えなくなった後、俺は賊たちを……」
殺した──
「そうだったのね……あの時カーナの森で出会った時も、そしてその後、ベゼレート先生の診療所に行った後も、しばらく私のことを殺しかねないくらい殺気だったような気を放っていたのは、その薬のせいだったのね」
ようやく、あの時のハルの状況を納得することができたわ。
「あのね、ハルが助けたあの男の子、大きくなったらハルみたいに強い男になるって言ってたわ。騎士になって、弱い人を守ったり困った人を助けたりするって。あの子にとって、ハルはきっと忘れられない命の恩人ね」
「そうか。あの子が無事で俺も安心した」
「うん、うさぎも無事よ」
どこか照れたように、くすぐったそうにハルは笑った。
「少し話がずれてしまったね」
「ううん……話してくれて、ありがとう」
「俺はあまり長くは生きられない。あんたをひとり残して先にいってしまうことになる」
「長くはって、どのくらいなの……」
「個人にもよる。が、組織の中に年のいった者ほとんどいない。ごくまれに、何ごともなく生き延びている者もいるが、おそらく三十歳前後……中には早くて二十歳を過ぎて倒れてしまう者も」
「二十歳って……だって、ハルは今……」
いくつ? と言いかけて、サラは言葉を飲み込んだ。
見た目は十七、八歳くらいだろう。けれど、ハルは親の顔も知らない、自分の本当の名前も知らないと言っていた。それはつまり、自分の年齢も定かではないということではないかと今さらながらに気づく。
そして、サラが懸念していた通り。
「さあ、俺は名前と同様、生まれた日も、はっきりとした年齢もわからないから。これまで数え切れないほどの人たちを殺してきた。そんな自分がまっとうに人生を終わらせることができるとは思っていない。どんな結末が自分に訪れようと覚悟はしている。大切な人を持つつもりもなかった。なのに……これからはもう俺ひとりではないのだと思うと、残していくあんたのことを考えると、それが……」
そこで言葉を切り、ハルは小刻みに肩を震わせた。
ずっと、いつ死ぬかもしれないと怯えながら、ひとりでその恐怖を胸に抱えてきたのね。
不安だったでしょう?
怖かったでしょう?
だけど、もうひとりではないのよ。
「それでも……ずっと、側にいる。それに、先のことなんてわからないわ。もしかしたら、ハルは大丈夫かもしれない。中には何でもない人もいるって言っていたわよね。ハルもその中のひとりかもしれない。いいえ、きっとそうなるわ!」
「そうだね。そうやって前向きに考えてみるのも悪くはないかもしれないね」
ハルの首に両腕を回し、サラはぎゅっとしがみついた。
「ハルは生まれた日もわからないって言ってたわね。ねえ、ハルと私が結婚式をあげたその日がハルの誕生日っていうのはどう? 私、盛大にお祝いしてあげる」
サラはふふ、と笑った。
「それは楽しみだ。俺、祝ってもらったことなんて今まで一度もないから」
「なら私、ハルのために頑張って美味しい料理を作るわ」
「……」
「たくさん、たくさん思い出をつくっていこう。もうひとりじゃないの。私が側にいるから。楽しいことも苦しいこともこれからは一緒にわかち合っていこう。ね?」
ハルは抱きついてきたサラの背を、愛おしそうに抱きしめた。
「俺、あんたと出会えてよかった」
「うん、私を選んでくれたこと、好きになってくれたこと、絶対に後悔させないから」




