36 レザンの暗殺者
ハルの語ってくれた組織の恐ろしがどれほどのものか知らないサラにとって、それはあまりにも現実味のないものであった。
「今でも悪夢をみるよ。辺り一面を赤黒く染め上げる血の海にたたずむ己の姿。手に握られているのは一振りの血塗られた剣。その刀身は禍々しい夜の闇をまとった漆黒の色。足下に横たわる無数の屍は自分がこの手で殺め続けてきた罪なき人たち。それらを平然と見下ろし、漂う血の臭気に眉ひとつさえ動かさず、薄く笑っている自分の顔……」
何故、笑っている。
どうして、罪の意識を感じない。
何度、夢の中の自分に問いかけただろうか。
違う……本当は気が狂いそうで、泣き叫びたかった。だが、あまりにも流しすぎた血はもはや己の感覚をも狂わせた。
罪の意識に心を痛めながらも、いつしか甘美な血の匂いに溺れ陶酔し、心の至るところまで浸食され、その痛みがすでに何であったかすら思い出すこともできなくなってしまうことも。
組織から抜けたからといって、都合良く忘れてしまおうなどとは虫のいい話だ。
記憶の片隅に封印した忌まわしい過去。
いまだ悪夢となってよみがえり、己を打ちのめすまでに苦しめ苛む記憶。
胸のうちを静かにあかすハルの言葉を、サラは微動だにせず聞いていた。
「こんな俺でもいいのか? あんたは恐ろしくないのか?」
「何度も言わせないで。どうしてそんなことを聞くの? それに……」
サラはハルの手をとり、自分の頬にあてた。
「ハルの瞳はとても澄んでいてきれいな瞳よ。それに、ハルはとても優しい人。ほんとうは汚れのない心を持った人だと私は思ってる」
ずっと、苦しんできたのね。
そんなに心を痛めないで。これからは私がハルの側についていてあげる。
悪夢にうなされたら私がハルの手を握りしめてあげる。
何だか初めて出会った時のことを思い出すわ。怪我の痛みで苦しんでいるハルの手を、こうして握ってあげたことを。
「組織に捕らえられた瞬間からずっと、俺はいつかここから抜け出し自由になってみせると心に誓った。そのためにはと、子どもの頃から俺の面倒をみてくれた人に何度も言い聞かされた」
「さっき言っていたハルのお師匠様ね。ハルが組織から逃げ出すためにいろいろしてくれた人」
「そう、外の世界を望むのなら、何よりもまず、誰をも凌ぐ力を身につけなさい。全力で追ってくる追跡者を、自力で退けるだけの強さを手に入れなさい。そして、人としての心を失ってはいけないと……こうして俺がここにいられるのも、その人のおかげだ」
「その人はとてもハルのことを大切に思っていたのね。ねえ、その人の名前は何て言うの?」
「レイ……」
おそらく、そのレイという人のことを思いだしているのだろう。ハルはどこか懐かしむような目を夜の虚空にさまよわせた。
「ハル……」
ハルは組織の人間たちには感情がないと言っていた。ただ人を殺すだけの道具だと。けれど、ハルは違う。
「ねえ、逃げよう。組織の人たちが追ってこない、どこか人目のないところに。私も一緒に行く」
しかし、ハルは首を振った。
「意味がない」
「どうして!」
「どこへ逃げても意味がない。これまで追っ手がなかったのは、組織を抜ける時にレイがいろいろ根回ししてくれた。俺はレイに殺されたと、組織のやつらは思い込んでいるはず。だけど、そのことをいつまでも隠し通せるほど組織は甘くはない。きっと、いつかばれてしまう。そうだ……」
と、声を落としてハルはシャツのボタンに手をかけ、ゆっくりとひとつひとつ外していった。
すべてのシャツのボタンを外したハルは、左の片袖だけを腕から抜いた。するりとシャツの片袖が肩をすべり床に落ちる。
突然のハルの行動にサラは反応に困ってうろたえる。
目のやり場にとても困るのだけれど。
でも……。
ハルは顔もきれいだけど、身体も同じくらいすごくきれいで見とれてしまうわ。
そういえば出会ってまだ間もない頃、ベゼレート先生の診療所で裸のハルに組み敷かれたことが……。
そんなことを考えた途端、急速に頬が熱くなった。
恥ずかしさに、視線をそらしたいのに、相手の体温が伝わってくるほどの間近の距離では視線を逃す場所すらない。否、ハルの身体から目をそらすことができなかった。
鍛えられた筋肉質な身体はごつごつした男くさい逞しさや堅さはなく、しなやかな美しさ。おまけに肌は繊細で女性のように滑らかだ。
窓から差し込む月華がハルの素肌を舐めるように艶めかしく照らしだす。
ふと、サラはハルの左上腕部に視線をとめ、わずかに目を開く。
「腕、どうしたの? まだ怪我が治っていないの?」
そこには黒い布が巻きつけられていた。
「痛むの?」
心配げな、気遣うような目でじっとハルの左腕を見つめるサラに、ハルは怪我ではないと静かに声を落として首を振る。
怪我ではないのなら、この布は何のために巻いているのか。
サラはおそるおそるハルの左腕に巻かれている布の結び目に指をかけ、見てもいいの? と目顔で問いかける。
答えるかわりに、ハルはかすかに眉間を寄せ静かに視線を伏せた。
結び目はそれほどきつくはなく、すぐに解けた。
解けた布が腕からはらりと滑り落ちていく。そこに現れたのは、花の模様の入れ墨であった。
「これは……?」
サラはそっとハルの腕の入れ墨に手を触れた。
「レザンの、銀雪山の頂上にしか咲かない悪魔の花」
「悪魔の花……」
「レザンの暗殺者は身体のどこかにこれと同じ入れ墨をいれている。酔狂なことに、中にはわざと目立つ場所にいれている者も。これが何を意味するかなど知る者はほとんどいない、だから隠す必要もない。もし、知っている者がいたとすれば、その相手を殺すだけ」
「つまり、もし、ハルと同じこのお花の入れ墨をしている人を見かけたら、その人はレザンの組織の人ということね」
「そう、よく覚えておいて。万が一見かけたとしても表情には出すな。そいつと決して目を合わせるな。わずかな動揺でも相手にすぐ見抜かれる。そうなったら、間違いなく殺される。絶対に逃げられない」
サラはごくりと唾を飲みうなずいた。
「あんたすぐ顔にでるから心配だな」
「私、じゅうぶん気をつけるわ。ハルの言いつけはきちんと守る。そうしないと、ハルに迷惑をかけてしまうもの」
「いい子だね」
まるで子どもに言い聞かせるように、静かに優しく声を落とすハルの手に頬を挟み込まれる。
「ねえ」
「な、何?」
「入れ墨をいれる風習はこの国にはないし、もっと、驚かれると思ったけど、そうでもなかったね。どうして?」
サラは胸をどきりとさせた。
「……そんなことないわ。すごく驚いてるもの」
「そう? もしかして誰かの何かを見た?」
「何それ。何のことか、言ってる意味がさっぱりわからない」
「俺に嘘をつくの? 俺は何もかも隠さず、こうしてすべてを話しているのに」
ひどいな、と悲しげに瞳を揺らすハルに見つめられ、サラはうう……と声をもらした。
ああ……この表情にだまされてはいけないってわかってはいるけど、隠すこともできないわ。後でばれてしまった時の方が怖いし。
「……シンの背中にもすごいのがあって……それを見てしまったから」
案の定、ハルの瞳に剣呑な光がちらりと過ぎる。
「どうしてあいつの背中の入れ墨を知っているの?」
「それは……」
ハルが疑問に思うのも無理はない。
服を脱がなければ、シンの背中のそれを目にすることはできない。
「シンが服を脱いでいて」
ハルはさらに目を細める。
「ち、違うの、違うのよ! あの人勝手に服を脱いでいて、それで見てしまったというか……それにシンってば何も着ないで裸で寝るし……私、すごく驚いて」
あれ……何かだんだん深みにはまっていくような。それもあまりよくない雰囲気に……。
「あいつが裸で寝るって、そんなことまで知っているんだ」
「違っ! 本当にシンとは何もないのよ。ねえ、ここにきてまさか私のこと疑ったりしないわよね」
「疑ってなんかいないよ。でも……」
「でも?」
「もし、あんたとあいつとの間に何かあったというなら」
ハルは悪戯げに目を細めたまま、薄い嗤いを口許に浮かべる。
「二度とあんたに触れられないように、今すぐあいつの両腕を斬り落としにいってやる」
サラは顔を引きつらせた。
たぶん冗談で言ってるのだと思うけど。
こういうことを平然と言っちゃうところはやっぱり怖いかも。
「あのね、冗談でも」
「冗談で言ったつもりはない。本気だ」
「ハル……」
どうしてそんなことを言うの?
サラは困ったように眉を寄せた。
「俺を追ってあんたが裏街にやってきた時、あいつに、あんたに対して変な気を起こすなと、言ってやった……あいつがあんたに心を傾けるだろうことは最初から予想はついた。そして、その通りになった」
それが気に入らない、と語気を弱めて、ふいっと、横を向いてしまったハルの顔を見てサラは目を丸くする。
たった今、シンの腕を斬り落とすなど恐ろしいことを言っていたのに。
ハルの態度がまるで拗ねてしまった子どものようだったから。
うそ! ハルがそんな顔をするなんて。妬いてくれているの?
どうしよう、胸がきゅんとしてしまったわ。
何か、か、か……。
「かわ……」
「何?」
かわいいと言いかけハルに睨まれ慌てて口をつぐむ。
「えっと……かわらないから。私の気持ちは一生かわらない」
少し前まで、私にすごく冷たかったのに。それどころか、私のことを好きかどうかもわからないって言っていたのに。
「シンにはいろいろよくしてもらったし、お友達として好きよ。誤解しないでね、お友達としてだからね。それ以上の感情はないわ。ほんとよ」
ね、わかってくれる? と目で訴えるサラの真意を確かめるようにじっとハルは見つめてくる。
「俺、嫉妬深いし、独占欲が強い」
「知ってる。私も同じ」
「俺の思いがあんたとを縛りつけてしまう」
「私はハルだけのものよ。もし、私のことを疑うなら、今ここでハルの好きにしてもいい」
「いやだ」
「いやなの?」
「大切にしたい」
ハルの思いに泣きたくなった。
本当は人を斬るとか、ましてや殺すなんて言って欲しくないし、ハルにそんなことなどしてほしくない。できるならそんな世界からハルを遠ざけたい。けれど、もし、ハルのいた組織の人が現れたら、ハルは戦わなければならない。
たぶん、きっと殺し合いになるのかもしれない。そうしなければ、ハルが殺されてしまうのだから。
この入れ墨だって消すことはできない。
一生、ハルの腕に残り続ける。
サラは切ない表情で、解いた布を腕に再び結び直すと、こつんとハルの肩に頭を寄り添えた。
「私、ハルに謝らなければいけないわ。ハルがレザンに戻れないってことも知らないで、故郷に一緒に行きたいなんて言ってしまって……ごめんなさい」
「気にしてないよ。いや……嬉しかった」
頭の上で、ふっと、ハルが笑ってくれたような気がしてサラは顔を上げた。そこには穏やかな微笑みを浮かべるハルの顔。
本当はこういうふうに笑える人。
「あの時の約束だ」
「約束?」
「裏街で約束しただろう? 俺を本気にさせることができたら、これ以上はないってほど愛してやるって」
「うん、覚えてる……」
サラは顔を赤くしてうつむいてしまった。
愛してくれると言ってくれたハルの言葉に胸が熱くなる。ふわふわして今にも倒れてしまいそうな感覚。
「あんたは俺を本気にさせた。なら俺も誓う。この先、俺のすべてをあんたに捧げる。あんただけを見つめ、何者からも全力であんたを守る。あんたを傷つける者が現れたら、俺は容赦なくそいつに地獄の苦しみを味わわせてやる。ただし、もし俺を裏切るようなことがあれば……」
サラは息を止め、ハルの言葉の続きを待った。
「俺はあんたに何をしてしまうかわからない。俺から逃げ出したくなっても、許さない。逃さない。手放さない。誰にも渡さない」
その言葉にサラは胸をどきりとさせる。
「命がけで守る」
「ハル……」
命がけで……。
本当ならハルひとりでなら、この先何があってもどうにでも切り抜けられるはず。けれど、私の存在がハルの枷となってしまうかもしれない。
それが一番怖かった。
そんな自分の不安を読み取られてしまったのだろう。
俺の目をしっかり見ろといわんばかりに、ハルの指先があごにかけられた。
「そんな顔をするな」
目の前には何ものをも恐れない不敵な笑み。
自信に満ちた瞳の輝き。
いつものハルであった。
「レザンの暗殺者が追ってこようと、俺が恐れるのはその中のほんの一部の者。それ以外の奴など俺の相手ではない。だから、安心しろ」
ハルは側に置いてあった剣を握りしめ、サラの眼前にかざした。
「大切にする。そして、必ず守る」
うん、とうなずいてサラはその剣に視線を落とした。
目の前で揺れる剣の柄につけられた飾りの紐を見てわずかに目を見開く。
真紅に金糸の飾り紐?
真紅に金糸って、これって。
でも……そんなまさか。




