35 それでも、あなたが好き
「どこまで知ってしまったの?」
ハルの口調がまた変わった。
問いかける声も、頬をなでてくれる手も優しく、口許には微笑みさえ浮かべているのに、なのに、自分を見据えるその藍色の瞳だけは冷たく凍えるようで戦慄を覚えた。
頬に触れているハルの手が、いつ首にかかるのではないかと怯えた。
「私……」
何も答えられない。
もはや知らない、何も聞いてないと言ったところでハルには通用しないだろう。それでもサラは知らないと、ただ首を振るだけであった。
「そして、あんたはその時の事件にかかわっていたのが、俺だと思っている」
「それは……っ」
突如、ハルが片膝を立てた。
サラの身体がすとんとハルの腰の位置に滑り落ち、二人の距離がいっそう近くなる。
サラは動揺してうつむき視線をハルの胸元のあたりに落とした。
身体の震えを押さえつけようと、膝に置いた両手をきつく握りしめ唇をきつく噛みしめる。けれど、こんな体勢で、それも心臓の音まで聞こえてしまうのではというほどの間近の距離で、相手に自分が怯えていることを悟られないようにするのは無理なことであった。
「どうして、そんなに震えるの? 俺が何かすると恐れている?」
頬にあてられたハルの手、薬指が軽く添えられるようにあごにかかり、顔を上げさせられた。
「怖い?」
ハルの静かな藍色の瞳にのぞき込まれ、絡めとられる。
目をそらすことができない。
「唇……」
ハルの親指が唇に触れた。
「そんなにきつく噛んだら切れてしまうよ」
そこでようやくサラは引き結んでいた唇を開け、つめていた息をもらした。
「こんなに青ざめた顔をして震えて。怖がらせるつもりはなかった。もう、これ以上は何も聞かない。だけど、これだけは約束してくれるね。家庭教師に聞かされたことは絶対に他の誰にも言ってはいけないよ。いいね」
優しく諭すようなハルの言葉にサラは静かにうなずいた。が、すぐにはっとなり口許を手で押さえる。
何も知らない、何も聞いてないと言ったのに、うっかりうなずいてしまった。
「私……本当にただハルの故郷のことが知りたい、レザンの言葉を覚えたいと思っただけ……本当にそれだけなの。ハルのことを知りたいという気持ちはあるけど、だけどこっそり探ろうとかそんなつもりはなかった」
「わかってるよ。あんたはこそこそ俺のことを調べるようなことはしない。聞きたいことがあるなら、いずれはっきり俺に聞いてくるはず。三年前のことにしても、まさかそんなことを聞かされるとは想像もしていなかったから、あんたは戸惑っている」
「先生は……詳しいことは知らないって言ってた……先生はどうなるの?」
サラはおそるおそる問いかける。
殺されてしまうの?
ハルに人殺しなどさせたくないのに。
私のせいだわ……。
「どうもならないよ」
わずかに眉間にしわを寄せ、静かにまぶたを落とすハルの端整な顔に苦悶の色がにじむ。
「詳しいことを知っている者はあの学問所にはもういない。本当に知られて困ることはすべて消した。秘密を知った者も全員、この手で」
始末した、と呟くように答えるハルの言葉に心臓が止まってしまうのではないかと思った。
それって……。
「まさか、こんなに早く知られてしまうと思いもしなかった」
「三年前に学問所で起きたこと。ハルは……その時の少年なのね?」
もはや確かめる必要もないだろう。
だけど、聞かずにはいられなかった。
次のハルの返答次第で覚悟を決めなければならないと思った。そして、自分がハルにとってどういう存在となるか。
ハルは自分にすべてを語ってくれるだろうか。
長い沈黙の後、ようやくハルは口を開いた。
「俺もこれを聞くのは最後にするよ。考える隙は与えない。もし、あんたに少しでも迷いが見られたら、俺はもうあんたとは二度と会わない」
「私のことを試そうとするのね! いいわ、いくらでもハルが納得するまで試せばいい。それでもハルを好きだという私の気持ちは変わらない!」
「違うんだ。最悪のことを考えて……」
「ハルの好きだった女性と私を重ねてしまったのね。私が殺されるかもしれないと思って。でも、私は死んだりしない! ハルの側から離れたりしない! 私にとって最悪なのは、ハルが私の前からいなくなってしまうことだもの」
「サラ……」
名前を呼ばれて胸がどきりと鳴る。
「本当に、俺のすべてを知る覚悟がある? 俺の抱えているものも、俺の背後にあったものもすべて。知ってしまったら、もう後には引き返せない」
ハルの目を見つめたまま、サラは笑った。
ねえ、気づいている?
震えているのはハルも同じだわ。
ハルも恐れているのね。
サラは頬にあてられたハルの手に自分の手を重ねた。
「どうして、いまさらそんなことを聞いてくるのかわからない。ハルが私を好きになってくれるのなら、何もいらないって前にも言ったわ。忘れたの? ハルの過去に何があったのか、私はまだよく知らない。もし、聞いてしまったら驚くかもしれないけど、それでも、全部受け止めるつもり。それよりも、覚悟するのはハルの方だわ。私は絶対にハルを逃がさないんだから」
「俺を逃がさないか……」
まるで降参だというように肩をすくめ、ハルは緩く首を振った。
「あんたにはかなわないよ……本当に負けたよ」
「勝ち負けってよくわからないけど。ハルが負けだというのなら、そうね、ハルの負けよ。いいえ、もう本当はとっくに私の勝ちだった。ハルはとうに私のことを好きになっていた」
ハルの腰のあたりにちょんと乗ったまま、サラはそうでしょう? と小首を傾げて問いかける。
「あんたみたいにしつこい女も初めてだよ」
「私、絶対にあきらめないって言ったわ」
「正直、裏街にまで俺を追いかけてきたのは驚いた。それも二度も」
「……私、裏街のことよく知らなかったし、あの時はとにかくハルに会いたいっていう思いで必死だったから」
「どうして俺みたいなのがいいのかわからない。そもそも身分が、住む世界が違いすぎる。」
「私、初めて出会った時からハルのことが好きだった。だから、今でもこうしてハルと向き合えるなんて信じられない気持ちでいっぱい」
これはシンのおかげでもあるのだわ。
シン、ありがとう。
サラはそっと胸の中でシンに感謝の言葉をのべた。
「ねえ、私何を聞いても絶対にハルを恐れたりしないし、逃げたりしない。私を信じてハルのこと教えて。ううん、前にも言ったけど、話せることだけでいいから」
「いや……すべてを話さなければ意味がない」
ふっと息を吐き、ハルは力が抜けたように壁に背をあずけ寄りかかる。
窓の外に視線をあて、そして、静かな声で語り始めた。
「三年前……俺はアルガリタの学問所に入り込み、レザンのいや……俺たち組織のことを調べようとした者たちをすべて殺した。彼らに罪はなかった。中にはただ命じられてレザンの調査に参加しただけの者もいただろう。けれど、秘密を知られてしまった以上は生かしておくことはできなかった。それが俺の仕事だったから。それだけじゃない……俺はこれまでたくさんの自分とは無関係の人間を……殺してきた」
低く呟いて、ハルは苦しげに顔を歪めた。
握っていたハルの指先が痙攣するように震えているのに気づき、サラは握りしめ返す。
「もうひとり一緒にいた青年っていうのは誰なの?」
「そんなことも聞かされていたのか……」
一瞬、驚いたというように眉をあげ、ハルは困った顔をする。
「わかりやすく言うなら、俺の師みたいな人だよ。幼い頃、組織に連れられてからずっと、俺にいろいろと教えてくれた人だ。そして、俺を組織から抜けさせるために手をつくしてくれた」
「組織から抜けたということは、今は……」
「そう、今はその組織から追われている立場だ。やつらに見つかれば殺されるか、連れ戻されるかのどちらかとなる。そして、それはあんたも同じとなろうとしている」
「私も?」
「殺されるならまだいい。もし、組織に連れていかれたら……」
その後の言葉を飲み込み、ハルはサラの目をのぞきこむ。
ハルのその瞳にいまだためらいの影が揺れていた。それはサラを巻き込みたくないというハルの葛藤でもあった。
「俺と一緒になるということは最悪そういう状況に陥ることになるかもしれないということだ。どうする? 今なら、まだ引き返すことができる」
貴族の家に生まれて今まで何不自由なく暮らしてきた。
食べるものも着るものにも困ったことなどない。
それが当たり前の生活だった。
両親にも愛され、幸せだったと思う。それでも、毎日が退屈で、今いる世界から抜け出したいと願っていた。そしてハルと出会い、今、自分はまったく知らない世界に足を踏み入れようとしている。
怖くないといえば嘘になる。
不安もある。
けれど、一生ついて行きたいと思える人に出会えた。この人の手を離したら間違いなく後悔する。
いいえ、もとより離すつもりなどない。
だから……何度問われても答えは同じ。
決してこの気持ちに揺るぎはない。
サラは否と首を振り、ハルの深い藍色の瞳を見つめ返した。
「引き返すつもりなどないわ」
その瞬間、わずかだがハルの顔に痛切なものが過ぎったのをサラは見逃さなかった。
本当に優しいのね。
最後の最後まで、私の身を案じてくれている。
私、ハルと一緒なら何も怖くないわ。
「聞いてもいい? ハルのいた組織は……どういう組織なの?」
眉根を寄せ、ハルは静かに視線を斜めに落とした。
いつも強気で人を射るように、時には見る者を惑わす色香をたたえるその瞳が、いつになく揺れている気がした。
伏せたまぶたを縁取るまつげまで、震えているような。
こんな状況だというのに、それでもハルの顔がきれいだと息をするのも忘れて思わず見とれてしまう。
長い沈黙が落ちる。
恐ろしいまでの静けさがこの場を支配する。
夜空に浮かぶ月に雲がかかったのだろう、不意に室内に闇が落ちた。
相手の表情すらわからない暗闇に不安を覚え、ハルの存在を確かめるように握りしめていた手の指を絡める。
ハル?
愛しい人の名を呼ぼうとしたが、声にはならなかった。ただ、その名を唇が刻むだけ。
そして、ようやくハルは口を開いた。
「レザン・パリューの大陸は、約半分が人の手が施されていない大自然に覆われた大地。その大陸北部にある銀雪山のもっとも奥深くに〝姿なき者〟と呼ばれる者たちが住まう秘密の城塞がある。堅牢な高い石造りの壁に囲まれたその城は、外からの進入者を防ぐものではなく、内部から逃げだそうとする者を阻止するためのもの」
独り言にも似たハルの口調は、あくまで静かでそして、まるで他人事を語るかのように淡々としていた。
「そこでは身寄りのない子ども連れ去っては、剣術、格闘術、様々な国の言語、礼儀作法、薬学、性技、ありとあらゆる高度な教育を、さらに人を欺くための演技までも叩き込む。容姿も武器のひとつだ。けれど、そこで生き残ることができる子どもたちはほんのわずか。使えないと判断された者は容赦なく殺される。そして、最終的に組織のために働けるのはさらにごく少数」
伏せた時と同様、ハルはゆっくりと視線を上げた。と同時に、月にかかっていた雲が取りのぞかれ、再び皓々とした光を放ち地上を照らし出す。
すべてを語ると決意したハルの瞳に、先ほどの迷いは消えていた。深い海の底を思わせるその藍の瞳に宿るのは、いつもの如く相手を射すくめるほどの強烈な光。
「レザンの〝姿なき者〟……暗殺組織だ」
サラは目を見開いた。
低く呟くハルの言葉に耳を疑った。
一瞬、彼が何を言ったのか理解することができなかった。それほどまでにハルから聞かされた真実は驚愕であった。
「幼い頃より個人の性格をねじ曲げ、ただひたすら暗殺の道具として育てあげる。感情の欠落した闇に捕らわれたその心以外、すべてにおいて完璧な人間、存在自体が凶器。暗殺組織は各地に数多くあるが、レザンはこの世でもっとも最強だ。そして、何故彼らを〝姿なき者〟と呼ぶのか。レザンの暗殺者の正体を知った者は必ず始末する。だから、彼らの姿を知る者はいない。故に組織の存在すら世にあまり知られていない」
「あ、あ……あ……暗殺組織っ!」
しんとした部屋にサラの声が響く。
自分でも思っていた以上に大きな声を出してしまったと思い、サラは慌てて口許を両手で押さえ込んだ。
「そんなに驚かなくても、ある程度予想はしていただろう?」
口に手をあてたまま、サラはふるふると首を振る。そして、開けていた口を閉じ、喉のつかえを飲みくだす。
「じゃあ、ハルは……」
「そういうことだ」
そんな世界がこの世にあるなんて思いもしなかった。
そこにハルがいたなんて。
本当の地獄を知ることはなかったと、悲鳴を上げるように吐き出したハルの言葉を思い出す。
そこでハルがどういうふうに育ってきたのかなど、想像すらもできない。
ハルの抱えている闇。
ハルの背後にあったもの。
すべて知ってしまったら、もう後には引き返せない。
もし、ハルが組織に見つかり捕らえられたら私も同じ運命となる。
それがこの意味だった──




