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あなたの瞳におちて -愛した人は、元暗殺者-  作者: 島崎紗都子


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33 遠い地、レザン・パリュー

 サラの家庭教師マイネラー氏は、アルガリタの学問所を卒業した、将来は数学者を志す人物であった。

 彼は週に何度かトランティア家へと訪れてはサラに勉強を教え、それ以外の時間は常に学問所の研究室で数学の魔力に憑りつかれたように研究に没頭する毎日を送っていた。

 年齢的には二十歳後半。ひょろりとした背格好に、どこか病的さを感じさせる蒼白い顔。その顔はいつも気難しそうに眉間にしわを寄せていた。黒縁の眼鏡をかけ、それでも眼鏡の度が合わないのかしょっちゅう目を細めていた。

 だが、今日ばかりはそんな彼の難しい顔に、あきらかな動揺が浮かんでいた。


「本当に宿題をやってきたというのですか?」


 信じられないという口調で家庭教師はサラを見つめ、そして今度は窓の外遠い空を見上げた。

 雨が降るとでも言いたいのだろうか。けれど、彼がそう思ってしまうのも無理はない。

 かつてサラがまともに宿題をやってきたことは一度たりともなかったのだから。たとえ、宿題をやってきたとしても答えはほとんど間違いだらけ。あるいは、全問不正解ということも珍しくはない。

 教師はそれでもやはり信じられないという面持ちで、宿題の用紙に目を通し始める。

 そんなマイネラー氏の目が徐々に大きく見開かれていく。


「それも、全問正解……そんな」


 馬鹿な、あり得ない、何かの間違いだ、と言いかけてはっと我に返り、マイネラー氏は慌てて首を振り、ああ……いや……その…と、言葉をにごした。


「解き方を教えてもらったの」


 サラは得意げな顔で、にっこりと笑いマイネラー先生を見上げた。


 これもみんなハルのおかげだわ。


 上機嫌の笑みを浮かべたまま、サラは文机に頬杖をつき、昨夜のことを思い出す。

 昨夜は思いもかけずまたハルがまた会いに来てくれ、お勉強を教えてくれたのだ。けれど結局、最後は睡魔に抗うことができず途中で眠ってしまったのだが、朝になって目を覚まして飛び起きると、当然のことながらハルの姿はなく、その代わり彼が宿題の用紙の余白に問題の解き方の解説を、もちろん、アルガリタ語で残していってくれたのだ。


 やっぱり、ハルは優しいわ。

 それに、とても面倒見のいい人。


 胸をきゅんとさせ、用紙の余白に書き込まれたハルのきれいな文字をサラはうっとりとした目で眺めていた。


「おお! この余白に書き込まれた見事なまでにわかりやすい解説!」


 突然教師が声をあげるものだから、サラは驚いて肩を跳ね上げた。そんなサラなど気にもとめず、マイネラー先生は続けて言う。


「サラ様、いったいどなたにこれを? 学問所の方ですか?」


 用紙を手にしていたマイネラー先生の手がかすかに震えていた。


「えっと、知り合いにちょっとお勉強ができる人がいて……学問所とはぜんぜん関係ないと思います……」


「サラ様!」


「な、何!」


 いきなり、マイネラー先生は襲いかからんばかりの勢いでサラの肩をわしりとつかみ、大きく揺さぶった。

 サラの首が前後に激しく揺れる。


「その方をわたくしに会わせては頂けませんか? どんなお方か、ぜひお会いしてみたい!」


「先生、痛いです……」


 サラの訴えに家庭教師は我に返り、ずり落ちかけた眼鏡を人差し指で持ち上げ、こほんと咳払いひとつして冷静さを取り戻す。


「し、失礼……取り乱してしまいました……」


 真摯かつ切実な目でマイネラー氏はサラの顔をのぞき込む。

 余程興奮しているのか、蒼白い顔を上気させて。

 サラは困ったように教師から視線を逸らした。


「先生……それは無理なお願いだわ」


「何故ですっ! あ……いえ……」


 ほんとのことをいえば、私の恋人なの、と自慢して見せつけたいところだが、実際は無理だろう事は承知している。

 ハルがそんなことを承諾するはずもないし、たとえ、マイネラー先生に会ってくれたとしてもハルのことだから、棘だらけの憎たらしい口調で、何をこいつに教えてる? とか、あんた、教えるのへたくそ、とか、しまいには教師、向いてないんじゃない? とか言って、家庭教師の矜持をずたずたに切り裂いてしまいそうな気がしたから。


 ああ……でも、物覚えの悪いこいつにつき合わされて、あんたも気の毒だねって反対に同情する可能性もあるわ。

 昨夜、そんなようなこと言っていたし……。


「あ、あのですね。その人とっても、人見知りをするから……きっと知らない人とは会いたがらないと思うの」


 と、苦しまぎれの嘘をつく。


「そこをなんとか」


 けれど、先生のしつこさも人一倍で、そう簡単に引き下がろうとはしない。


「絶対に無理だわ」


「何とか、一度だけでも」


 な、何?

 私にお勉強教える時よりも熱心だわ!


「とにかく、だめったらだめなの!」


 と、大声を上げて立ち上がり、サラは口を開けて唖然とする教師を睨みすえた。



 ◇



「それでね、私もつい大声だしちゃったの。だって、先生ハルに会いたいって、しつこいんだもの」


「ふーん。で、俺が人見知りをするって」


「他にいいわけが思いつかなかったから。っていうか、どうして今日もお勉強なの?」


 サラは頬を膨らませた。


「宿題終わったって、子どもみたいな嘘ついたのは誰だ?」


「だって、ハルと過ごす時間を宿題で終わらせるなんて」


「文句言ってる暇があったら早くやりなよ。ああ、そうだ。後十分で問題解けなかったら俺、帰る」


「ああ! 待ってお願いだから意地悪言わないで。私、頑張るから」


 と、文机の横に並んで座っているハルに宿題を教わりながら、サラは必死に問題を解いていた。


「でも、先生とハルを会わせるなんて考えるだけでも恐ろしいわ。だって絶対、ハルのことだから先生に教えるのへたくそ、とかって言い出しそうだもの」


「俺ならこう言ってやるな。五、六歳程度から教え直した方がいいんじゃないのかってね」


「五、六歳って……いくらなんでもあんまりだわ。言い過ぎよ。私そこまでばかではないもの。うーん、できた」


 文机に頬杖をついたまま、見せてと手を差し出してきたハルに、サラは宿題の用紙を手渡した。受け取った用紙をハルはさっと眺めサラに返す。


「正解。間違えずに解けるようになったね。時間かかるけど」


「これもハルのおかげ。少しはお勉強も楽しくなってきたかなって感じ」


「よく言う」


「ほんとうよ。それに、ハルって先生みたい」


 サラはペンを置き、うーんと背伸びをする。


「俺はあんたの家庭教師じゃないんだけど」


「うう……そうよね。ほんうとにごめんなさい。せっかく会いに来てくれているのに、どうしてこんな展開になってしまったのかしら」


「それは、こっちが聞きたいね」


「ごめんなさい……」


「別にいいけど」


 肩をすくめてハルは椅子から立ち上がり、月明かりの落ちるバルコニーへと歩み寄ると、そこに片膝をたてて腰をおろした。

 そんなハルの姿をサラは見つめた。


「……あのね、アルガリタの学問所はね、入学試験はとっても難しいらしいけれど、アルガリタ人ではなくても、誰でも合格すれば入学できるの」


 ゆっくりとハルがこちらを振り返る。


「もしかしてハルは学問所に行ったことある……?」


「何故、そんなことを聞く?」


「えっと……ハルは頭がいいから、もしかしたらと思っただけで、別に特に深い意味はないの」


 サラも椅子から立ち上がり、ハルの側に向かい合うようにして座り込む。

 触れ合うには遠すぎて、かといってわざと距離を置いたわけでもなく、もっと、近づいてもいいのか、それとも、このままの距離を保つべきか、そんな、曖昧な間隔であった。

 部屋の中は文机に灯された蝋燭一本だけ。それでも月が明るいから、互いにどんな表情をしているかくらいは確かめることはできた。

 サラは胸一杯に大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。そして、側に座っているハルの姿に視線を向けにこりと微笑む。

 ずっと、焦がれていた相手がすぐ側にいる。

 思い描き夢見た光景に、願いの一つが本当に叶ったのだとあらためて幸せを噛みしめる。

 じっと見つめてくるサラの視線に気づきハルは顔を傾けた。


「何?」


「夢みたい」


「夢?」


「こうしてハルと一緒にいられるなんて、夢みたい」


 ハルは笑ってサラの前に手を伸ばした。


「おいで」


「……うん」


 ハルのしなやかな指先に自分の手を重ね、サラは相手の側へと近寄り座り直した。

 肩を抱かれ引き寄せられる。

 サラはこつりとハルの肩に頭を寄り添えた。


「これでも夢?」


 ささやくハルの声が耳元に落ちる。そして、ハルの手が髪へと触れた。

 髪をなで指先に絡めその行為を何度も繰り返す。時々、髪をなでるハルの指が耳や首筋に触れ、サラは思わずくすぐったそうにぴくりと身体を震わせた。

 頬をほんのりと朱色に染め、サラはゆっくりと視線を上げる。

 相変わらずのハルの綺麗な顔立ちに見惚れてしまう。

 深い藍色の瞳は広がる夜空のように澄んでいて、その輝きは瞬く星たちにも劣らない。

 優しい瞳で私を見つめてくれる。


「夢じゃない」


 でも……ハルが私のことをどう思っているのか、私にはわからない。


「ねえハル……あのね、その、ハルは最近私以外の女の人と会ったりとかしている? 会って、その……」


「会って、何?」


 歯切れの悪い口調のサラに、ハルは意地悪く目をすがめて聞き返す。


 私の言いたいことわかっているくせに、そうやって意地悪言うのだから。少しは慣れたけど。


「会って、だから……」


 以前、シンに連れられて裏街に行った時のことを思い出す。あの時、ハルは他の女の人と抱き合って、何かすごいことをしてた。


 ぼっとサラは顔を赤らめた。


「もし、あんた以外の女と会っていると言ったら?」


「べ、別にいいもの!」


 一瞬、泣きそうな顔をしたものの、サラは頬を膨らませ、ふいっとそっぽを向いてしまった。

 ご機嫌を損ねてしまったサラを見つめ、ハルは肩を揺らして笑う。


「いいの?」


「いいわ!」


「そう」


「やっぱりいや。私以外の女の人となんていや!」


 あの時は、ハルならおつき合いしている女性が複数いてもおかしくはないと思っていた。だけど、今はハルが自分以外の人と一緒にいることを考えるだけで、胸が締めつけられるように痛む。

 私以外の人に触れて欲しくない。

 私だけを見て欲しい。

 誰にもハルを渡したくない。


「誰かさんが毎日会いに来てと言うから」


「じゃあ、今は誰ともおつき合いをしていないのね? ほんとうに?」


「疑うの?」


 ううん、と首を振り、サラはきゅっとハルの腕にしがみついた。


「ハル、私ね、ハルの生まれた故郷にとても興味があるの。ハルがどんなところで育ったのか少しでも知りたいと思って」


 もちろん、それは真実だ。

 けれど。

 サラは様子をうかがうように、おそるおそるハルを見上げた。

 家庭教師が語ったことが、どうしてもサラの心に引っかかったのだ。



 ◇



 ハルに会いたい、会わせないのやりとりを家庭教師とした後のことだ。


「ところで先生はレザンのことに詳しいかしら?」


 突然のサラの問いかけに、マイネラー先生はきょとんと目を丸くした。

 何故、そんなことを聞くのだろうか? という顔であった。


「レザンというと、北の大陸のことですか? 誰でも知っている一般的なことしか私には存じ上げませんが」


「それでもいいの。私は何も知らないから、先生教えて?」


 いつになく熱心な教え子の眼差しに訝しみながらも、マイネラー先生は眼鏡をついっと人差し指で持ち上げ、とつとつと語り始めた。


「レザン・パリューは大陸のほぼ半分を人の手が加わっていない森と山と湖がしめていて、強大三代国家テンペランツ国、フィナルローエン国、フィクスレクス国がレザンを支配しています」


「覚えにくい国名だわ」


「いまだ他の大陸との交流をあまり持ちたがらない閉鎖的な地ですね。かといって、余所者を受け容れないということは決してありませんが、どちらにしても歓迎されることはまずないでしょう」


「治安が悪いとか貧富の差が激しいとか? ものすごく国が荒れているとか?」


 乏しい知識で思いついたことを口にしてみる。


 ああ……私って本当に何も知らないのだわ。自分の国のことだってちゃんとわかってないもの。

 恥ずかしいかも。でも、ハルには親がいないと言っていた。そして、そういった子どもたちが回りにたくさんいたと。


「さあ、詳しいことは私にはわかりませんが、そうですね、一年の大半が雪に閉ざされた土地と聞いて寂しいところと連想させますが、どの国の王宮もとても立派で、町並みもそれはとても見事で美しいと聞いたことはありますよ。治安はどうでしょう、この国だって決して良いとは言いきれないですし、もっとも、実際に私がこの目で見たわけではないので何とも言えませんが」


 サラは手元の紙に、今聞いたばかりのレザンの国名を書き記していく。


「そうだわ。先生はレザンの言葉を知っている」


「残念ながら」


「そう……」


「サラ様? おそらく、レザンの言葉を理解し話せる者はアルガリタの学問所でも数少ないでしょう。けれど、その者たちはおそらく、自分がレザンの言葉を理解できるとは決して口にしないはずです」


「え? 何故?」


「レザンにかかわりを持つことを恐れているからです」


 突然表情を険しくさせたマイネラー先生に、サラは首を傾げる。


「今から三年ほど前でしょうか……」


 真剣な顔で語り始めた家庭教師の言葉に、サラはじっと耳を傾けた。


「当時、レザンのある秘密を調べようと数十名の学者が学問所に集まりました。が、研究に携わった者すべてが殺害され、レザンに関する資料がひとつ残らず燃やされてしまいました。たった一晩で、ものの見事に何もかも消されたのです」


「殺害、燃やされた? 誰に?」


 思わず身を乗り出したサラに、マイネラー氏はさあそこまでは、と首を振る。


「その事件のあった年、レザンの人間が二人、学問所の試験を受けたのです。ひとりはまだ十四、五歳ほどの少年と、もうひとりは二十歳前後の青年。アルガリタの学問所はご存じの通り、人種も身分も性別も関係なく、試験に合格できたものはその門をくぐることができ学問を習うことができます。その二人は異国の者でありながらも見事試験に合格し、学問所の生徒となりました。けれど……」


 家庭教師は眉間に深いしわを寄せた。


「二人が入学した約一ヶ月後にその事件が起き、そして、二人は忽然と学問所から消えてしまったのです。驚いたことに、彼らの身元も何もかもすべて偽りだった。結局、彼らが何者であったのかさえ突き止めることができず。それ以来、レザンのことを調べるのは学問所では禁忌となりました」


「だって生徒としてそこにいたなら、たくさんの人がその二人とかかわったはず……なのに何故?」


「だから、それが不思議なのですよ。確かに彼らと顔を合わせ、会話をした者も大勢いた。けれど、誰ひとりとして彼らのことをよく知らないと口を揃えて言うのです。存在はしていたけど、それはまるで空気のようで、あたかも己の存在を殺していたかのように……」


「先生は会ったことあるの?」


 マイネラー先生は苦い嗤いを浮かべただけであった。


「もし……」


 サラはごくりと喉を鳴らした。


「もし、先生の前にその二人が現れたら先生はすぐにわかる?」


「正直、自信がないですね」


「そう……それで、学問所でレザンの何を調べていたの? 秘密って?」


「これはあくまで噂ですが」


 先生は声をひそめ、部屋には二人きりだというのに何故か用心深く辺りを見渡した。


「レザンにはとてつもない強大で危険な組織があるとか。そして、もうひとつ調べていたのは、ルカシス殿下の暗殺に使用された毒の調査です……とはいえ、調査にかかわった者すべてが殺されてしまったので、これはあくまで噂ですが」


「組織、毒……」


 この国の王になるはずだったルカシス殿下が二十年前、毒殺されたことはサラも知っている。


「先生、組織って何の組織?」


 サラの問いかけに家庭教師は渋面顔をつくる。


「もしもですよ、レザンのその組織が、遠い、海を隔てたこのアルゼシア大陸のアルガリタの国で、自分たちの秘密を暴こうとしているものの存在を知り、それを抹消しようとして組織の人間を差し向けた。それも難関といわれている学問所の試験を、身分を詐称してまでわざわざ受けて学問所内部に潜り込ませ、そして、何ひとつ残さず秘密をきれいに消し去ってしまったとしたら。それだけでも……」


 どれだけの規模の組織か想像がつくでしょう……とマイネラー先生は最後につけ加えた。そして、自分も少し喋り過ぎたと気づいたのだろう、彼は緩く首を振った。


「私もこの程度のことしか知りません。ですが、サラ様何故、急にレザンに興味をお持ちに?」


「えっと、知り合いにちょっと……その人の住んでいたところがどんなところか知りたいな、言葉とか話せたらいいなって思って」


「もしかして、この宿題を教えてくれた方ですか?」


「それは……」


 言いよどむサラを見つめ、マイネラー先生はずり落ちた眼鏡を持ち上げ目を細めた。


「サラ様、これは忠告です。あまりレザンに関心を持つのはおやめになったほうがよろしいかと思われます」

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