31 ハルの過去
確かにある意味、一種の英才教育だったかも知れないな……。
サラは目を見開いた。
何故なら、初めてハルが自分のことを口にしたからだ。
膝の上に置いていた手をぎゅっと握りしめる。ハルの言葉を些細なことも聞き逃すまいと、息さえ止めて。
「幼い頃からたくさんのことを教え込まれた。いや、叩き込まれたといったほうが正しいかもしれないな。俺はそれに答えようと必死だった。答えなければならなかった。そうしなければ、容赦なく切り捨てられたから」
教え込まれた?
切り捨てられた?
「なぜ……?」
「知りたい?」
なぜ? と問いかけるサラの疑問に、ハルはまなじりを細めて問いかける。
知ってしまえば後悔するよ、という表情であった。
それでもサラは大きくうなずいた。
ハルのことなら、どんな些細なことでも知りたいと思うのは当然だ。
「ハル……?」
緊迫した空気に息をつめる。
ハルの身にまとう雰囲気、放たれる威圧感。
身を切り裂かれ心までちりぢりにされてしまいそうな程の恐怖。時々感じてしまうハルと自分との隔たり。これ以上踏み込むのは危険だと、かかわってはいけないと、心のどこかで警鐘が鳴っている。
それでも、私はハルのことが好き。
ハルのことが知りたい。
後悔なんてしない。
たとえ、ハルの過去に何があったとしても、私の気持ちは少しも揺らいだりはしない。
その自信はあった。
真っ直ぐに見つめてくる藍色の瞳を、決してそらすまいと受け止める。しかし、次の瞬間、右腕をとられ強く引き寄せられた。
不自然な体勢でそのままハルの胸に倒れ込む。
ひたいに頬に、ハルの唇が落ちる。
そして──
声をあげる間もなく唇に口づけをされ、サラは驚きに目を見開く。
唇を離したハルはふっ、と悪戯な笑みを口許に浮かべた。
「何故、驚いた顔をする?」
「だって、突然……」
「問題が解けたらキスして欲しいって言っただろう? ひたいと頬に」
「言ったけど……」
「唇にしたのは二問、間違えた罰。いやだった?」
サラは頬を熱くさせ小さく首を振った。
「……いやじゃない」
ハルの手が頬に添えられた。またキスをされるのではと思わず身がまえたが、そのまま抱き寄せられ、ハルの腕が背中に回された。
優しく髪をなでるハルの手にうっとりとまぶたを閉じる。自然と肩の力が抜けていき、サラは相手の胸にゆっくりと全身をあずけた。
衣服越しに伝わってくるハルの体温。
とくとくと、心臓の鼓動まで伝わってくる。
「あんたには決して想像のつかない世界にいたよ。賢くなければ、強くなければ生き残れない……騙しあい奪いあい、自分にとって邪魔な存在は消していく。そうしなければ、自分が消されてしまうから。ハルという名も本当の名前ではない。俺は自分の本当の名前すら知らない」
サラはえ? と小さな声をもらす。
「俺を拾ったやつが、名前がなければ呼びにくいと言って適当に思いついた名前をつけた」
ハルは独り言のように、さらに続けた。
「……俺には親がいなかった。顔も知らない。自分の境遇を嘆き親を恨んでも、その親の顔すら知らないのだから仕方がない。そんなことよりも、今日を生き抜くのに精一杯だった。俺と同じ、身よりのない子どもは回りにもたくさんいた。けれど、たいがいの子どもたちは食べるものもなく、レザン・パリューの厳しい冬を乗り越えることができずに命を落としていった。物心ついた頃から、あちこちの村に踏み入っては食料を盗み、川の水で喉の渇きを癒した。盗みが悪いことだと知っても、生きていくために仕方がなかった。時には村人に見つかり血を流すまで殴られたこともあった。村の警戒もいっそう強まり、やがて、食料を手に入れることはおろか、寒さをしのぐためにどこかの納屋に潜り込むことさえままならなくなり、ある日の冬、病に倒れた。いよいよだめかもしれないと死を覚悟したその時、俺は拾われた。いや……捕らえられた。だけど、その時死んでいれば……」
背中に回されたハルの腕に力が込められた。息苦しいほどにきつく抱きしめられ、サラは小さく喘ぐ。ハルの手がかすかに震えていることに気づく。
「そうすれば、その後の本当の地獄を知ることもなかった」
まるで、胸を抉られるような声の響きだった。
心が悲鳴を上げ叫び、泣いているような。
ハルがどんな表情をしているのか、抱きしめられたままではわからない。
ああ……だからこうして私を抱きしめたのね。
つらい表情を私に見られたくなかったから。
ハル……。
サラはぎゅっとハルを抱きしめ返した。
「……そこで暮らした数年間は、ただつらくて苦しいばかりだった。それでも、大切にしたいと思う女性の存在もあった。けれど……」
ハルは小刻みに肩をふるわせ、サラはその先の言葉を聞くことを恐れるように、ハルの胸にしがみついた。
「目の前で殺された。俺は何もすることができず、泣くことも許されず、手を差し伸べることもできず、ただ呆然と彼女たちが息絶えていくのを見ているしかなかった。回りのやつらと同じように人としての感情を捨てていれば、あんな悲しい思いをすることもなかった。それ以来、もう二度と特別な存在となる者は作らないと決めた。だから、あんたの気持ちを受け入れるつもりはなかった」
ハルはそれっきり口をつぐんでしまった。
何も言えなかった。
かける言葉が見当たらなかった。
ハルのいた世界とはどんな世界だったのかと、尋ねることすらできなかった。
ただ……。
とても、心が不安定なのだわ。
過去の辛い出来事を解き放つことができなくて、今もどうしたらいいのかわからずに迷っている。
ねえ、ハル。
ずっと、そんな思いを抱えてきたの?
ひとりでずっと……。
海を隔てた遥か遠い北の大陸。
地図の上だけしか知らない異国の地。
その地にハルの幸せはなかったというの。
目の奥が熱くなり、涙をこらえるよう唇をきつく噛みしめたその時、突然、目の前がぐらりと揺らいだ。不意に、足下が沈み落ちていく感覚を覚えたからだ。まるでどろりとした深い闇に足を絡まれ捕らわれていくような。
俺の心に踏み込んでくる覚悟が、本当にあるのか?
以前、ハルに言われた言葉が脳裏を過ぎった。
ハルの抱える心の闇に引きずられていく。
サラは心の中でいいえ、と強く否定した。
私までその闇に捕らわれ落ちてしまってどうするの。おそらく、ハルが今私に語ってくれたことは、ほんの一部でしかないはず。
ハルはもっと凄絶な何かを抱えている。けれど、それを知ってしまった瞬間から、自分はその何かから逃れられないとも感じた。
私、もっと強くならなければ。
しっかりしなければ。
闇の底でもがき苦しむハルをそこから引き上げるために、私が彼の光とならなければ。
サラは大きく手を伸ばしハルの頭を抱え髪をなでた。そして、身体を離し間近でハルの深い藍色の瞳を見つめる。
私がハルにしてあげられること。
それはいつだって、あなたのために笑っていること。
あなたの心に少しでも光を差してあげられる存在になること。
「ねえ、もっといっぱい、たくさんいろんなことお話しよう。あの時、初めてお互いが出会った瞬間までの、それ以前の空白の時間をゆっくりと埋めていこう」
「人に話せるような思い出など何ひとつないよ」
「いいの、話せることだけで。ハルのことなら何でも知りたいと思うのが本音だけど……少しずつ、知ることができたらいいなと思うけれど。それに、楽しい思い出がないっていうのなら、私がハルに作ってあげる。これからたくさん。だから、私のことを好きになって。ね?」
ハルに昔好きな女性がいたということも、いまだにその女性のことを忘れられないでいることも正直、胸が痛んだ。その女性に嫉妬してしまう気持ちもある。
でも……。
「あのね、その女性のことを思ったままでもかまわないの。だって、その女性はハルにとって大切な人だったのでしょう? それは、とても大切な思い出だわ」
言って、あまりにも切なくて泣きそうになった。そして、似たようなことを夜会の時にシンに言われたことをふと思い出す。
シンも同じ気持ちだったの?
あなたもこんなにつらくて切ない思いをしたの?
「私は絶対ハルの前から消えたりしない。だって、ハルが守ってくれるでしょう? でもね、私も守られるばかりじゃないないわ。私もハルの支えになるから」
「頼りない」
「ええ……! この雰囲気で普通そんなこと口にするかしら。でも、あんたに何ができる、余計なお世話だって言い返されなかっただけでもましだと思わなければだわ。私、ハルに頼りにしてもらえるように頑張るから」
ハルの目元がふと和んだのは気のせいだろうか。
かすかだけど笑った気がしたのも。
「意外だったよ。俺の境遇に同情して大泣きするかと思った」
サラはにこりと微笑んだ。
だって、もう泣かないって決めたもの。
「ねえ、キスしてもいい?」
ハルの目を見つめながら、サラは膝立ちになる。
ほんの少しだけハルを見下ろす格好となった。自然と背中に回っていたハルの手が腰に落ちる。そこだけが熱をもったように熱い。
胸がどきどきする。
「あんたから?」
「そうよ」
「へたくそだから、いやだ」
「いやだって……子どもみたいなことを言うのね」
小首を傾げてくすりと笑い、サラはハルの胸に手を添えた。
「ねえ、恥ずかしいから目を閉じてね。それから、へたなのは許して」
思えば、ハルにキスをするのはこれが初めではない。
裏街で、ごろつきどもに絡まれたときにハルに助けてもらい、思いを伝えたくて、いきなり自分からキスをしてしまった。
それも、大勢の人が見ている前で。
あの時は、とにかくハルに気持ちを伝えるのに必死だったし、キスと呼べるほどのものでもなかったかもしれないが。
目を閉じ、サラは顔を傾けハルの唇にそっと自分の唇を重ねた。ちろりと舌を出してハルの唇を舐める。おそるおそるさっき、ハルがしてくれたキスを思い出しながら真似をしてみる。
腰に回っていたハルの手に力が入り、さらに身体が密着する。
反対に攻められるかと思ったが、ハルはあくまで受け身に徹していた。
心臓が破裂しそう。
もうこれ以上は恥ずかしくて無理とばかりにサラは唇を離した。
拙い自分の口づけを相手がどう思っているのか表情を確かめるのも怖くて、そのまま、ハルの首に両腕を回して抱きつく。
「大好きハル。世界で誰よりも一番、好きよ」
と、ハルの耳元に唇を寄せ、吐息混じりの声でささやく。
いつもハルが耳元でささやいてくれるように。そして、ハルの柔らかい耳朶にちゅっとキスをした。
次の瞬間、くつりと笑うハルの声が落ちた。
「俺に火をつけてどうするの?」
火? と、聞き返す間もなく、身体が仰け反り床に押し倒されていた。
髪が白い夜着の裾が、ふわりと大きく虚空に舞い上がりゆっくりと床に広がった。
窓から差し込む蒼白い月明かりが筋となって床に落ちる。その光の上に、両手を広げて寝そべったサラの格好はまるで、月の光に磔にされたかのようであった。
ハルの両手が顔の脇につく。
広がった夜着の裾にハルの膝がかかり、身動きがとれない。
熱を帯びたその藍色の瞳に、サラはどきりと胸を鳴らし息を飲む。
重なるようにしてハルの身体が覆い被さってくる。
唇が近づいていくごとに、ハルのまぶたが落ちていく。
サラはどこかぼうっとした眼差しで唇が重なるその刹那まで、月影に照らされたハルの端整な顔を見つめていた。
唇が重なった瞬間、サラは床に落としていた両腕をハルの背に回し抱きしめた。
熱く交わる吐息、絡まる互いの柔らかい舌。
優しく時には情熱的に……サラも拙いながらもそれに応えた。
気持ちいい……身体の力が抜けてしまいそう。
手の力が抜けそうになり、思わずきつくハルのシャツをつかむ。
ようやく長い口づけから唇が離れた途端、サラの濡れた唇からせつないため息がこぼれる。
じっとしていることが辛くて、眉根を寄せながらじりっと身をよじらせる。
どうしよう、どうしよう。
胸がきゅっとして、すごくせつない。
身体が落ち着かない。
私、ハルにもっと愛されてみたいと思ってる。
こんな気持ち今まで感じたこともない。
私、どうしたらいいの。
サラは先ほどのハルの言葉を思い出し胸を突かれた。
『相手を欲して身体がせつない悲鳴を上げ震え泣き叫ぶのを……』
間近でハルが含むような笑いを浮かべている。
まるで心の中を見透かすような。
もう一度、サラは吐息をこぼす。
震える唇をなぞるようにハルの指先が這う。
「そんな表情をされたら、俺のほうがおかしくなる」
「おかしくなるって?」
「何でもない。ねえ、あんたが今思っていること、言いあててあげようか」
「え……?」
「表情を見ればわかるよ。この状態じゃもう、もどかしくてつらい。怖いけど、その先を知りたい。俺に身を委ねてみたいって。あんた、あと一押しで間違いなく堕ちるけど、どうする?」
思っていることを指摘され、サラは頬を赤らめハルから視線をそらした。それどころか、どうする、とその先の判断を委ねられ戸惑いに瞳を揺らす。
「さっきのあんたからの可愛いキスに免じて、この先どうしたいか、あんた自身に決めさせてあげる」
「決めさせてあげる……って」
「いやだと言ったら、何もしない」
サラは泣きそうに眉を寄せた。
いつも強引だったくせに、こんな状態にさせておいてその先の判断を私に決めさせるなんて。
私からハルに……だ、抱かれたいなんて恥ずかしくて口がさけても絶対に言えない。
ハルの意地悪!
嫌い!
でも、いつものように強引に迫られたら、今度こそ私拒否できない。
やっぱり怖い……。
いろいろな思いがぐるぐると頭の中を回り、サラはきつく目を閉じた。すると、ハルの手がふわりと頭におかれ優しくなでてくれる。
そっと目を開けると目の前で、微笑みを浮かべているハルの顔があった。
「ハル……」
「なら、そろそろ夜も明けるし続きをする? 俺、手加減しないけどいい?」




