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あなたの瞳におちて -愛した人は、元暗殺者-  作者: 島崎紗都子


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30 甘いひとときを過ごすはずだったのに

 突然、肩をふるわせて笑い出したハルにサラは首を傾げる。

 一体、何がそんなにおかしいのかとはハルの視線をたどると、そこにはやりかけていた宿題の山があった。


「これ? 明日までの宿題なの。私だってちゃんと勉強はしているのよ。いちおう……」


 少しでもいいところをみせようというつもりなのであろう、サラは得意げな顔をする。

 サラを片腕で抱いたまま、ハルはそのやりかけの宿題の一部に手を伸ばし、眉間にしわを寄せた。


「ひどいな」


「でしょう? こんな難しい問題をだすなんて先生もひどいんだから」


「勘違いするな。全問見事に不正解でひどいって言ったんだ。どうすれば、こんなでたらめな答えがでてくるのか不思議でたまらない」


 すぐさま返ってきたハルの言葉にサラは呆然と口を開けた。


「全部間違ってるって……そんなことないわよ。ちゃんと、先生の教わった通りに……ううん! だいたい、ハルにこんな難しい問題がわかるというの?」


 ハルは別の宿題を取り上げざっと目を通すと、呆れたようにため息をもらした。


「こっちも全然だめ。話にならないね」


 手の甲でぱしんと宿題の用紙をはじき、ハルは横目でサラを見据えた。


「あんた」


 サラはなに? と首を傾げる。


「頭も悪いんだね」


「ちょっと待って。頭もって、その〝も〟っていうのはどういう意味?」


 遠慮のないハルの言葉にサラは頬を膨らませた。

 ひどく馬鹿にされているような気がした。いや、気がしたではなく、本当に馬鹿にされているのだ。


「そのままの意味だよ。取り柄のひとつもないのか?」


「失礼ね。私にだって、取り柄くらい、取り柄……?」


 そこでサラはうーん、と考え込む。

 ハルは肩をすくめた。


「それでよく俺に会いに来いと言えたものだよ」


 サラはうっ、と声をつまらせた。


「馬鹿なあんたにつき合わされている教師も気の毒だね。これじゃあ、教えがいもないだろうに」


「私だって真剣に頑張って努力して……」


「努力の成果がこれか? 無駄な努力だな」


 と、ハルはサラの眼前に宿題の用紙を突きつける。


「それなりに一応、答えを全部うめたわ」


「だから、全部間違ってるんだよ。それに、字も汚い」


 とどめに字が汚いと言われ、サラは口をあんぐりと開けた。


「ハルって、いちいち細かいことに文句をつけるのね」


「何か言ったか?」


 何でもないと、首を振るサラの腕をハルはつかんだ。


「な、何?」


「明日までにやらなければならないんだろう? さっさと片づけなよ。これ」


「そう簡単に言うけど。私にはもう手に負えないのよ……それに」


 勉強なんて嫌い、と悲痛な声を上げてサラは両手で頭を抱え込む。


「教えてやる」


 半泣き状態の顔でサラはそろりとハルを見上げた。


「教えてやるって……ハルが?」


「他に誰がいる」


「そうだけど。ハルはお勉強できるの?」


「だから教えるんだろう」


「ハルは頭がいいの?」


「あんたよりはね」


「どこでお勉強習ったの?」


 質問攻めのサラに、ハルはぴくりと眉を動かした。


「どこだっていいだろう。宿題が終わるまで、机の前から一歩たりとも動くな」


「いやよ……せっかくハルが会いに来てくれたのに、勉強しなければならないなんて」


「そう。なら、さっきの続きをするか?」


 ハルはにっと笑うと突然、サラの身体を軽々と抱き上げた。

 細いわりには力のある腕。

 サラは驚いたように目を見張らせる。

 わずかにまぶたを落として首を傾け、部屋の隅にあるベッドにハルは視線を向ける。


「有無を言わせず、このまま無理矢理ベッドに連れて行くけど」


 サラは泣きそうな顔でいや、と声を落とすと、ハルの首に両腕を回してぎゅっとしがみついた。


「いやなら、さっさと宿題を片付けろ」


 そう言って、ハルは抱き上げていたサラを文机の前の椅子に座らせた。

 またしてもサラはうう……と言葉をつまらせた。

 確かに宿題も大切だが、ハルと過ごせるこの短い一時も貴重なのに、と恨めしそうな表情をする。

 一体どうしてこういう展開になってしまったのか。

 ハルとたくさんお喋りをして、楽しい時間を過ごすはずだったのに。


「ねえ、ひとつ問題ができるごとにハルがキスをしてくれるっていうのはどう? そうしたら私、嫌いなお勉強も頑張れるかも。あ、キスっていっても、頬とかおでこに軽くよ。ちゅっと軽く」


「いいよ」


「ほんとう!」


「それで、間違えたらどうする? あんたは俺に何をしてくれる?」


 目を細めて意味ありげに笑うハルから慌てて視線をそらし、サラは宿題に向き合う。

 ハルのことだから、何かとんでもないこと要求してきそうで怖いかも。


「今のはなかったことに……」


「よけいなこと考えずにさっさとやれ。いいか、できるまで寝かせないからな」


 言いながら、手近にあった椅子を引き寄せるハルに、サラは目を細めてふふ、と笑う。


「あら、そこまで言うならしっかり最後まで面倒みてね。でないと、今夜は帰してあげないから」



 ◇



「お、終わったわ!」


 手汗にまみれ、よれよれになった宿題の用紙を目の高さまでかかげ、サラは感激の声を上げた。

 答えを間違えれば容赦なく物覚えが悪いだの何だのと憎たらしいことを口にするハルであったが、勉強の教え方は家庭教師とは比べようもないほどわかりやすかった。

 今までどう考えても理解できなかった問題が、ハルの説明によって解けていくのだ。


「ねえ、できた!」


 サラは自信たっぷりにハルをかえりみるが、相手は窓枠に背をあずけ、片膝を立てた格好で床に座り込んでいる。

 薄く唇を開き、まぶたを伏せている表情は穏やかであった。

 わずかばかりあごを持ち上げ、頭を壁に寄り添えたハルの仰け反った滑らかな首筋と胸元に、月の雫が降りそそぐ。

 蒼く淡い燐光がその身を優しく包み、近寄ることをためらわせる雰囲気を漂わせていた。

 サラは椅子から立ち上がり、そっと足音を忍ばせハルに近寄る。

 しばしの間ハルの姿に見惚れていたサラであったが、ふと、小首を傾げた。

 もしかして、眠ってしまったのだろうか。


「……ハル?」


 遠慮がちに声をかけてみるが返事はない。

 向かい合うようにしてハルの側に膝をつき、食い入るようにじっと見つめる。


 ほんとうに、きれいな顔だちだわ。

 髪もさらさらで柔らかそう。


 ハルの髪に触れようと手を伸ばそうとしたその時──


「いつまで待たせる。さっさと答えを読みあげなよ」


 まぶたを閉ざしたままハルは素っ気なく言い放った。

 サラは驚いてひっ、と悲鳴を上げる。


「お、起きてたのなら返事くらいしてよ」


 びっくりしたじゃない。


 サラは唇を尖らせた。

 どうやら相手は眠り込んでいたわけではなかったようだ。

 確かに、そう簡単に他人に気を許すような態度をとるわけがないとは思っていたが、それにしても人が悪いと思いつつも言われた通り、仕上げた宿題を一問目から順番に答えだけを読みあげていく。

 その間も耳に入っているのか入っていないのか、反応すらみせないハルにサラは何度も宿題の用紙とハルの顔に視線を交互させた。

 答えは完璧だと思っていた最初の自信も徐々に薄れ、声の響きも次第に小さくなっていく。

 最後の答えを読み上げたサラは、うかがうようにハルを見つめた。


「合ってる、かしら?」


 ようやく目を開いたハルの視線がサラへと転ずる。

 その瞳には意地の悪い光が揺れ、口許には皮肉めいた嘲笑が刻まれていた。


「集中力が続かないんだね。最後の二問が違う。あれだけ注意しても、まだつまらない間違いをするのか?」


「え? ちょっと待って! どうして答えだけ聞いて、合ってるのか間違ってるかがわかるの」


「問題なんて一度目を通せば覚えるだろ。違うのか?」


 サラの憤りには意に帰さず、ハルはこともなげに言ってのけた。

 そのくらい当たり前ではないのか、と言わんばかりの口調だ。

 唖然としてサラは口を開け次に、まさかと手にしていた宿題に視線を落とす。


「問題覚えてしまったの? この用紙丸ごと? それで、頭の中でこんな複雑な計算式ができてしまうわけ? ハルの頭の中身って……」


 どうなってるの? 信じられないと、サラは緩く首を振った。

 ここまでくると、もはや根本的に頭の出来が違うのだとサラは改めて認識する。

 世の中何でも完璧にこなしてしまう人間が実際にいるのだと。


「こんな簡単なことも理解できないあんたの方が、俺には信じられないけどね」


「で、でもね。私だって少しはましになったと思うのよ。何か自分がもの凄く賢くなった気分だもの」


「気分だけね」


 間髪いれずにハルが憎らしい言葉で切り返す。一瞬、サラは怒ったように頬を膨らませるが、すぐに気を取り直す。棘だらけの相手の言動にいちいち腹をたてて突っかかっていったら、こちらの精神がもたない。

 そもそもハルはこういう人なのだ。

 しかし、サラはにこりと笑った。


 でも、こうして会いに来てくれたし、お勉強もみてくれる。

 物覚えの悪い私に、文句を言いながらも何度も説明してくれた。

 本当はとても優しい人。

 やっぱり、私ハルのことが好きだわ。

 もっと、ハルのことを知りたいな。


「ハルって頭がいいのね。それに何でもできるし、ほんとうにすごいわ。やっぱり私のハルだわ!」


「誰の何だって?」


「私のハルって言ったのよ」


「いつからあんたの俺になったんだよ」


「初めて出会った時からよ!」


 ハルはやれやれと肩をすくめる。

 サラは膝をついたままつつっとハルとの距離を縮める。


「ねえ、さっきの笛とても素敵だったわ。もう一回聞きたいな」


「今度ね」


「今、聞きたいな」


「今やるべきことは何だ? 明日までに仕上げなければならないんだろ。だったら早くそれを終わらせろ」


 それと言って、ハルはサラの手にした宿題を一瞥する。

 サラはしょんぼりとうなだれたが、すぐにぱっと顔を上げた。


「私思ったの。もしかしてハルはレザン・パリューのどこかの国の王子様で、幼い頃から英才教育を受けていて、それで今は見聞を広めるという名目で庶民に身を扮して各国を放浪しているとか? それともどこかの諜報員で、このアルガリタに潜入して何かとてつもない情報を得ようとしているとか?」


「とてつもないのは、あんたの想像力だ」


 ハルは肩をすくめ鼻白む。


「だって、異国の言葉を流暢に喋ることじたい、私には信じられないもの。ほんと謎ばかり」


 謎ね……と、つぶやきハルは視線を斜めにそらした。

 まぶたを落とした端整な顔に、苦いものがゆるゆると浮かび上がる。


「そうだな……確かにある意味、一種の英才教育だったかもしれないな……」


 ぽつりと呟くハルの言葉にサラは目を見開いた。

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