29 月夜の蜜会
文机に頬杖をつき、サラは口許を緩ませた。
窓の向こうに広がる夜空を大きく見上げる。
翳りのない深い藍に彩られた夜空は、澄んだハルの瞳を思わせた。
そっと細いため息をつき眼差しを落とす。
ハルのことを考えその姿を思い浮かべるだけで、頬が熱くなり、胸が苦しく締めつけられるように痛んだ。
生まれて初めて恋というものを知ったサラにとって、この上もない至福の瞬間。と同時に、幸せに満たされた心によぎる不安の翳り。
サラは頬杖をついたまま、もう一度ため息をつく。
幸福と不安が交錯する小さな胸はまさに張り裂けんばかり。
愛する男性の一つ一つの動作に、何気ない一言に一喜一憂してしまう。
それほどまでに、サラの胸のうちにはハルの存在が大きくしめていた。
だが、果たして相手にとって自分はどういう存在であるのか。
今の自分がハルにとって、大きな存在であるとは到底思えないということは理解しているつもりであった。けれど、いつかそうなれる日がくればいいと願わずにはいられない。
きまぐれで会いに来てくれるのではなく、ハルの方から自分に会いたいと思わせなければいけない。
わかっているけど、やっぱり無理よ。
だって、私のほうがハルに夢中だもの。
はあ、とまたしても深いため息をつく。
とにかく、朝からこんな調子ゆえ、目の前に広げられた明日までに片づけなければならない宿題がまだ半分も残されていたが、気もそぞろでどうにも手をつける気がおきない。
きっとまた家庭教師に小言を言われてしまうだろう。
すでに時刻は夜更け。
机の上に置かれた燭台の蜜蠟の淡い炎に視線を落とす。
今夜も来てくれるのかな。
よくよく考えてみれば、素直に約束を守るような人ではなさそうだし。
などと、半ばあきらめにも似た思いを抱き始めたサラの耳に、夜の静寂をぬって響くかすかな笛の音を聞いた。
笛?
まさか……!
咄嗟に顔を上げ、椅子から勢いよく立ち上がると、バルコニーへと向かって駆け出し大きく窓を開け放つ。
清涼な夜の空気が一気に部屋へと流れ込む。
涼とした風がサラのほんのりと薔薇色に染まる頬をなで、波打つ柔らかい茶色の髪を揺らした。
瞳を輝かせサラは吐息をこぼす。
熱のこもったその視線は目の前の相手に釘づけになったまま離れない。
露台の手すりに長い足を組んで腰をかけるハルの姿。
淡い月の光がハルを照らす。
まぶたを閉ざし、うつむき加減で首を傾け横笛を吹くその姿は、夜の闇にぼんやりと浮かんで、まるでそこだけが現実と切り離された幻想的な空間を満たしていた。
いや、それとも彼自身が幻想の世界から地上にさまよい降りたとも言うべきか。
闇をまとい夜の孤独に愛され、濡れた漆黒の翼を大きく広げる堕天使のよう。その堕天使が、魔力をもって人間の少女を魅了していく。
まるでお伽話のようと、うっとりとサラは両手を胸にあてた。
どこか悲哀さを漂わせる笛の旋律が、静かなる夜の虚空へと溶けていく。
笛から唇を離したハルは閉ざしていたまぶたを上げた。
藍色の瞳がサラを静かに見つめる。
しばしの沈黙が二人を包み込む。
声を出すことも身動きをとることもできず、サラはその真っ直ぐな視線に射すくめられ立ちつくしていた。
やがて、ハルの形のいい唇に微笑が刻まれる。
軽やかな動作でハルは手すりから飛び降りた。
足音すら立てない身軽さであった。
先ほどまでの不安もどこかへ、サラは満面の笑みでハルに抱きついた。
「ハル! ずっと待っていたの。もしかしたら来てくれないかもと思って不安だった。でも、今夜も私に会いに来てくれた」
ハルの細い身体に両腕を回して抱きつき、サラはその胸に顔をうずめた。そして、ハルの手を引いて部屋の中へと招き入れる。
ふと、ハルの視線が文机の上、一輪挿しの赤い薔薇に向けられた。その薔薇が誰からの贈り物かハルは知っている。
何故なら、贈った当の本人が酒場で嬉しそうに語っていたから。
赤い薔薇には強い意味がある。ましてや、一本だけならなおさらのこと。
そして、サラはしおれかけたその薔薇をいつまでも大切に机に飾っている。たとえ、彼女に深い意図はないとしても。
ハルの瞳に、一瞬だけ不機嫌な感情がちらついたことに、サラは気づかない。
「それほどまでに、俺のことを待ちわびていたと」
仰ぐようにハルを見上げ、サラは頬を紅潮させ大きくうなずいた。
ふっと口許に微笑みを浮かべるハルの指先が、サラの柔らかい鳶色の髪の一房を指先に絡めとる。
「可愛いね」
揺れる毛先が首筋をくすぐりサラは首をすくめた。
サラのあごをとらえ、ハルはゆっくりと身を屈める。わずかにまぶたを落とし、顔を傾けながら薄く唇を開いてサラの唇に重ねていこうと近づけていく。
目を閉じかけ、サラははっと我に返る。
相手の雰囲気に引きずられ、流されかけるところだった。
「待って……」
慌ててサラはハルの唇を手で押さえた。しかしハルは、唇にあてがわれたその手をとって握り、そのまま指を絡ませ手の自由を奪ってしまう。
サラの瞳が不安げに揺れた。遠慮なく見つめてくる視線から逃れるように目を逸らすが、ハルのしなやかな指先にあごをとらえられ正面を向けさせられてしまう。
「何故?」
藍色の瞳が、微かに震えるサラを責めるようにのぞき込み問いかける。
「俺を誘って何故拒む?」
「誘うだなんて。私……そんなつもりは」
「こんな夜更けに俺を部屋に招き入れたということは、つまり誘っているということ」
「それは……」
「拒んだら、もう会いに来てあげないよ。いいの? それでも」
「そん……っ」
サラは目を見開いた。
言葉ごと奪うように、ハルの唇で唇をふさがれてしまったからだ。
唇をついばまれるような口づけに、強ばっていたサラの身体の力が少しずつ抜けていく。
いったん唇が離れ、吐息がかかるほどの距離で目をのぞき込まれる。
「ハル……」
「抵抗しないんだね」
「もう会いに来ないだなんて言わないで……どこにも行かないで。ハルがいなくなったら寂しい」
「可愛い」
口許に薄い笑いを刻み、ハルの唇がもう一度サラの唇に重ねられる。
閉じたハルのまぶたにつられ、サラも静かに目を閉じた。
あごにかけられたハルの指にほんの少し力が入る。軽く開かされた唇にハルの舌が割り柔らかく絡んだ。
最初に出会った頃、半ば無理矢理唇を奪われた時の強引さも荒々しさもない。まるで何も知らない自分に、ひとつひとつ丁寧に教え込んでいくかのような優しく甘い口づけであった。
どうしたらいいのかわからない。
逆らえない。
私がハルを振り回してどうこうしようなんて、無理に決まっているのよ。
ハルにかなうわけがない。
どうしよう……身体に力が入らない。
膝が震えて立っていられない。
かくりと膝を崩しかけたところで、ハルの手によって支えられた。と、同時にようやく唇が離れる。
ため息をこぼしサラは頬を上気させ潤んだ瞳でハルを見上げた。
伏し目がちのまぶた、長いまつげの奥からのぞく藍色の瞳が緩やかに揺らぐ炎の如き加減で妖しく光る。
開け放たれた窓から柔らかな風が流れ、ハルのひたいに軽くかかった前髪を揺らし、白く整った顔貌が射し込む月に蒼白く照らされる。
ハルは薄く唇に笑みをはいて、サラの頬に手を添え柔らかな耳朶を軽く噛んだ。
サラは肩をすぼめ身をよじらせた。
だめ……このままでは流されてしまう。
この先はまだいや。怖い……。
ハルの胸に手をあて絡みついた腕から逃れようと抵抗を試みる。しかし、弱々しいサラの抵抗に従う気配はないようだ。それどころか、腰に回された腕に力が込められ引き寄せられる。強引さはない。けれど、ここで止めるつもりもないという強固な意志をハルから感じ取り、サラの表情に焦りが生じた。
「お願い。待って……」
サラはいやいやをするように首を振り、ハルから視線をそらした。
「俺の目を見て」
再びハルの手があごにかけられたが、サラはさらに深くうつむきその手から逃れる。決してハルの目を見ようとはしなかった。
だめよ。
あの瞳に見つめられたら、抗えなくなる。
捕らえられてしまう。
「あんたは俺だけのものなんだろう? 俺のことをもっと知りたいと言った。俺もあんたのことを知りたい」
噛まれた耳元に吐息まじりの低い声が落ちる。
紡がれる言葉は限りなく甘く、声の響きさえ、蕩けるほどに甘美なものであった。
腰が砕けそうになった。
ハルの手に支えられていなかったら、ぺたりとその場に足を崩してしまっていただろう。
声まで……この人は声まで人を惑わす魔力を持っている。
でも、ハルは私に嘘をついている。
だって……。
「ハルは私に本気ではないのでしょう?」
やっとの思いでサラは声を発した。
「だったら、俺を本気にさせてみなと前にも言ったはず。この俺をあんたの足元に跪かせるくらい夢中にさせてみせてよ」
熱い吐息混じりのささやきとともに、ハルの唇がサラの白く細い首筋を這う。
「あ……」
思わず自分でも聞いたことがない声が唇からもれてしまい、サラは慌てて口許を手で押さえ込んだ。
信じられない。
こんな声だすなんて、恥ずかしい。
頭の上でくすりと笑う声が聞こえ、口許を押さえていた手を解かれる。
「可愛い声。もっと聞かせて」
「いや」
「いや? そう。なら無理矢理、鳴かせてみようかな」
ハルの指先が滑るように胸元に落ちて──
だ、だめ……!
慌ててサラはハルの手に自分の手を重ね強く押さえ込む。
「怖がらなくてもひどいことはしないよ。すぐに、俺のことを欲しいと言わせてあげる」
「私、そういうの、よくわからない!」
サラは必死になって首を横に振る。
「教えてあげるよ。相手を欲して身体がせつない悲鳴をあげ泣き叫ぶのを。それに、気になる相手を抱きたい、好きな人に抱かれたいと思うのは当然だろう」
抱きたいとあからさまに言われてサラは赤面する。が、突如、目を大きく開き瞳を輝かせた。
嬉しそうに頬を薔薇色に染め、ハルの腕をがしりと強くつかみ大きく揺さぶる。
「ねえ、今気になる相手って言ったわよね。それって、やっぱり私のことを少しは好きかもってことよね? そうよね?」
嬉しい! とサラはハルの首筋に飛びつきしがみつく。
意表をつかれた行動に、調子が狂うとハルは眉を上げ苦笑する。
手に入りそうで入らない。
あと少しで堕ちると思った瞬間、かわされる。
やれやれとため息をこぼしたハルは、抱きしめたサラの肩越し文机の上に乱雑に広げられた教科書に視線を落とし眉根を寄せた。
ハルの様子が急変したのはその時。
初めはこらえるように両肩を震わせていたが、しまいにはひたいに手をあて声を上げて笑い出した。
「え、何? ハルが笑ってくれた! でも、何がそんなにおかしいの? ねえ?」




