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あなたの瞳におちて -愛した人は、元暗殺者-  作者: 島崎紗都子


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28 私はハルだけのもの

 ベッドに突っぷし、サラは枕に顔を押しつけ肩を震わせた。

 私に触れていいのは、ハルだけなんだから。

 なのに、あんなやつなんかに……。


 あまりの悔しさに心が千切れてしまいそうであった。

 どうにもおさまらない怒りに、サラは血が滲むほど唇を強く噛む。

 結局、自分ひとりの力ではどうにもならないことを、あらためて思い知らされた。

 どんなに抗っても、家というしがらみから逃れることはできないのだと。

 恋愛くらいは自由にという望みすら許されない。ならばいっそうのこと、何もかも捨てて逃げてしまうという選択もあるが、何不自由ない環境で育ってきた自分が世間に飛び出して何ができようか。

 どうやって生きていけよう。

 つまり、そんな勇気も度胸も本当はないのだ。

 祖母もそれを見透かしていた。

 テオの家に逃げ込んでいたのも、たわいない抵抗と鼻で笑っていたのかもしれない。

 そんなことも気づかずに、いい気になっていた自分が恥ずかしくさえ思う。

 それが悔しくてたまらない。

 落ちてしまいそうになる涙をサラは懸命にこらえる。

 泣かないってシンと約束したから。


「ハル……」


 会いたい。

 ハルに会いたい。


 はたしてサラの切実な願いが天に届いたのか。それとも、ただ幸せな夢をみているだけなのか。

 緩やかな風が部屋の中へと流れ、頬をそっとなでる。

 そろりと顔を上げ、サラは身体を起こした。

 ゆっくりと、バルコニーへと視線を移していく。

 窓は閉めておいたはず。なのにカーテンのひだが静かに波打って揺れ、そこから射し込む月明かりが磨かれた床に蒼い光を落とす。

 カーテンの向こう、暗がりの中、月の光を受けてたたずむ人影にサラは息を飲む。

 その人物の顔までははっきりとわからなかった。

 だが、その人影は……。

 サラは目を見開き、口許に手をあてた。ベッドから飛び降りバルコニーへと走る。

 折り重なったカーテンをもどかしいとばかりに一気に開く。

 そこに立っていたのは──

 闇を照らす皓々と輝く月を背に立つしなやかな姿。


「ハル!」


 顔をほころばせ、その名を呼ぶと同時に勢いよく相手の胸に飛び込んだ。

 もう離さないとばかりにその背に両手を回し、きつくしがみつく。


「会いにきてくれたのね! ハル!」


 けれど、喜びにうち震えるサラの両腕にハルの指が強く食い込んだ。容赦なく締めつけてくるその痛みに眉をしかめ、サラはハルを見上げる。見下ろしてくる瞳の峻烈さに、怒りと苛立ちを感じるのは気のせいか。


「ハル? 腕、痛い……ねえ、どうしたの? そんな怖い顔をして」


 けれど、つかまれた腕の力は少しも緩むことはなく、それどころかいっそう手加減なしに締めつけてくる。身動ぐことすら許されず、サラは何故? と不安に瞳を揺らす。


「おまえは優しくしてくれる男なら誰でもいいというのか」


 低く押し殺した声が静かな夜を震わせた。

 厳しい口調にサラは身をすくませる。

 何かハルを怒らせるようなことをしてしまったのかと考えるが、心当たりはなかった。


「何のことかわからない」


「おまえはシンに」


 サラはあっと声を上げた。


「そうなの! あのね、シンがハルに会わせてくれるって」


「あいつと会う約束をしたって」


「そんな約束してない」


「あいつのために菓子を作るって」


「お菓子? ハルは私の料理、食べたことあるじゃない。まずくて食べられないって言った。具合が悪くなるって」


「あいつを好きだって」


「好きとは言ったけど、それは……」


「俺よりも、優しいあいつがいいと」


「違うわ。シンの好きはハルの好きとは違うって」


「あいつとキスをした」


 一拍の間を置いて、サラはわずかに視線を斜めにそらし小声で答える。


「……してない」


「へえ」


 ハルの指先があごにかかり、正面を向けさせられる。


「俺に嘘をつくのか」


「頬に少しだけ……軽く。ねえ、どうして怒っているの? 私に会いに来てくれたんじゃないの?」


 ハルは何を勘違いしているのだろうか。シンのことが好きだと、どこからそんな誤解が生じたというのか。

 激しく怒りの炎を揺らすハルの瞳を真っ向からのぞき込み、サラはつかまれている腕の痛みにこらえた。

 とにかく早く誤解を解かなければならない。

 でも、どうしたらいいの。

 ハルは厳しい眼差しでサラを見下ろした。


「おまえがシンを好きだというなら」


 サラは短い悲鳴を上げた。

 腕をきつくつかまれたまま、バルコニーの手すりに背中を押しつけられたからだ。さらに加えられたハルの力によって足が浮き上がる。

 上半身が仰け反り、手すりから大きく乗り出した。

 サラはちらりとバルコニーの下を見る。

 もし、ここでハルが手を離したら、真っ逆さまにここから転落してしまう。


「ねえ、私の目を見て。嘘をついているように見える? 私が好きなのはハルだけ。ずっと、ハルのことだけを考えていたのよ。こうしてハルが会いに来てくれて嬉しいのに。どうして?」


 腕をしめつけていた指の力がゆっくりと解け引き戻される。

 サラはほっと息をもらした。そして、あれ? と首を傾げた。


「もしかして、妬いてくれてるの?」


 ハルの真意を確かめるように、今度は悪戯っぽく相手の目をのぞき込む。

 もしそうだとしたら、この両腕に残された痛みすら、痺れるような甘い疼きとなる。


「俺以外の男に目を向けるのは許さない」


「じゃあ、ハルは私のこと好き?」


 しばしの沈黙の後、わからないと答えるハルに、サラは唖然として頬を膨らませる。


「何それ……でも、それでもいいの。ハルが会いに来てくれただけでも嬉しいから。シンのおかげだわ」


「俺の前であいつの名前をだすな」


 サラは慌てて両手で自分の口許を押さえた。

 どうやら、シンの名前を出すとハルの機嫌が悪くなると察したからだ。


「でも、何だかすごく意外だわ。ハルって嫉妬深いのね」


「嫉妬では……」


「でも、そういうところも全部ひっくるめて、私はハルのことが大好きよ」


 しかし、サラはまだこの時気づいていない。もし、これが単なる嫉妬にしても苛烈すぎはしないかと。まるで鎮まることをしらない、触れるもの全てを焼きつくしてしまう炎のようだと。

 いつか、ハルの心を手に入れたとき、果たして彼の心を制御できるのか。

 相手の激情に焼きつくされはしないか。


「私はハルだけのものよ。だから、私のことも好きになって。私ももっとたくさんハルのことを知りたい」


 ハルの背に腕を回し、その胸に顔を埋めようとしたその時であった。

 部屋の扉を叩く音にサラは肩を跳ねた。


「サラ様? どうかされたのですか?」


 侍女の呼びかける声にうろたえる。


「な、何でもないの!」


 扉に向かってサラは答え、離れていこうとするハルに待って、とすがりつく。


「また会いに来てくれる。明日もまた」


 けれど、しがみついた腕を無言で解かれ、サラは切ない表情を浮かべる。

 バルコニーの手すりに手をかけたハルは、一度だけ肩越しに振り返りふっと笑う。そして、軽々と手すりを飛び越え、足音をたてることもなく夜の闇に消えてしまった。


「待って! ここ二階……」


 慌てて手すりから身を乗り出して眼下を見下ろすが、ハルの姿はとうに闇にまぎれて見あたらない。と、同時に部屋の扉が開かれた。

 現れた侍女が燭台を手に、眠たそうに目をこすって部屋に入ってくる。


「話し声が聞こえたようですけど」


「ひ、独り言よ」


「でも、男性の声が」


「気のせいよ。こんな夜更けにあり得ないでしょう? それも男の人の声だなんて。ね?」


 サラはにこりと笑ってみせる。

 侍女は首を傾げ部屋の中をぐるりと見渡した。けれど、誰の姿もないことを確認すると再びサラに視線を戻す。


「早くお休みになってくださいね。それとあまり夜風にあたってはお風邪を召しますわ」


「そうね。ちょっと、寝つけなくて……でも、もう眠るわ。気にかけてくれてありがとう」


 侍女は頭を下げ部屋を退出した。

 サラはふうと息を吐きだす。

 危なかったわ。

 緊張したせいで変な汗をかいてしまった。

 もう一度ハルの姿を見つけ出そうとバルコニーの下に視線をさまよわせたが、やはり見つけ出すことはできなかった。


 シン、ありがとう。

 ハルが会いに来てくれたよ。

 突然来て、言いたいこと言って、すぐ帰ってしまったけれど。

 でも、ハルが私に会いに来てくれた。

 また明日も来てくれるかな。

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