27 それぞれの思い
明かりもついていない、ただ、月明かりだけが窓から差し込んでくるだけの部屋。
サラは鏡の前に座り、ぼんやりとした表情で髪を梳っていた。
その目はどこか虚ろであった。
女の子らしく身だしなみを整えているというわけでもない。ただ何度も何度も同じ箇所ばかりに櫛をあてていた。
ふと、かすかな物音に気づきサラは視線を上げた。
サラの顔が恐怖に歪む。
鏡に映るその人影に、サラは慌てて背後を振り返る。
そこに、亡霊の如く立っていたのは……。
「あなた!」
サラの婚約者、ファルク・フィル・ゼクスであった。
「どういうつもり! こんな夜更けに!」
驚愕した顔に憤慨を滲ませ、サラは立ち上がり婚約者を睨めつけた。
勝手に決められたとはいえ、確かに自分たちは結婚を約束した。だからといって、こんな夜更けに断りもなく女性の部屋に忍び込むなど許せることではない。だいいち、言葉もなく黙って背後に立っているなど薄気味が悪いではないか。
「愛しい、婚約者殿に会いにきただけではないですか」
ファルクは足を踏み出し、逃げようとするサラの腕をつかんで乱暴に引き寄せる。
サラは懸命に抗い身をよじらせた。
それでもかなわないと知ると、サラは助けを求めるため大声を上げようと口を開く。だが、ファルクの骨張った大きな手のひらがサラの口をふさいでしまった。
サラは大きく目を見開いた。
怯える目でファルクを見上げる。
「別に、今あなたをどうこうするつもりはありませんよ」
今はね、と呟きファルクはにやりと唇を歪めた。
「何故なら、もうすぐあなたは私のものになるのだから」
一端、言葉を切りファルクはサラの耳元で囁いた。
「愛しいあなたの心が他の誰にも傾いてしまわないうちに、私が式を早めて頂けるようお願いしたのですよ。あなたは私にとって大切な女性ですからね」
そう、私がのし上がるための大切な道具、とファルクは呟き、サラを突き飛ばすように離した。そして、床に転がるサラを冷ややかな目で見下ろすと、くるりと背を向け部屋を出て行ってしまった。
◇
歓楽街は夜にこそ、その真の姿をみせる。
闇を彩る無数の灯りが店先に飾られ、人々が行き交い喧噪が入り乱れる。
「ねえあなた、私と遊ばない」
不意に、呼び止められハルは眉根を険しくさせたまま振り返る。
どうやら、先ほどのシンとの飲み比べで負け、あまつさえ、醜態をさらしてしまったという苛立ちがまだおさまっていないらしい。
「彼にふられちゃって、退屈してるの」
ひとりの女が建物の壁に寄りかかりながら、じっとこちらを見つめていた。商売女というわけでもなさそうだ。
「退屈というよりも、なんか……むしゃくしゃしちゃって……」
たどたどしい、アルガリタ語であった。
声をかけてきた女もこの国の者ではなかった。
艶のある褐色の肌と、真っ直ぐな黒髪に黒い瞳。小柄な身体つき。
おそらく、東の大陸アイザカーンの者であろう。しかし、声をかけた女はハルの容貌に息を飲んだ。というよりも、相手があまりにもきれいな顔立ちすぎて、尻込みをしてしまったという様子であった。
さらに、声をかけた女がためらったもう一つの理由。それは、ハルがアルガリタの人間ではないとわかったからだ。
「異国の人……? な、なんでもないわ。冗談よ。気にしないで……」
言葉が通じないと思ったのか、女はやはり慣れないアルガリタ語で慌ててなんでもないの、というように手を振り立ち去ろうとする。しかし、去って行こうとする女の腕を咄嗟にハルはつかんで引き寄せるとそのまま、路地裏に女を引き込んだ。
「な……何……っ」
「俺と遊びたくて、声をかけてきたんでしょう?」
女の黒い瞳が驚きに見開かれる。何故なら、ハルの口から見事なアイザカーンの言葉が淀みなく流れたからであった。
「あなた……言葉、わかるの?」
「わかるよ。だからあんたも遠慮なく自国の言葉で喋ればいい」
女は一瞬、自分の国の言葉を耳にし安堵の表情を浮かべる。が、すぐにハルから視線をそらして身動いだ。
「手を離して……あなた、私よりもずいぶん年下みたいだし……まだ子どもだわ……」
しかし、女を逃がさないというように、ハルは建物の壁に片手をとんと手をつき、シャツの首元を指先で緩めた。
「俺が子どもかどうか、試してみれば? あんたが思っている以上に俺、うまいよ」
「自分でそんなこと言うなんて」
女は失笑する。
「本当のことだから。いい思いさせてあげる」
ハルは悪戯げに口許に笑みを刻みながら、女の耳元で低くささやいた。女はびくりと身体を震わせる。
「寂しいんでしょう? その心の隙間を埋めてあげる」
ハルの指先が女の身体を衣服の上からそっと指先でなぞる。慣れた手つきに女は思わず目を閉じ、声をもらして身を反らした。反らした女の首筋にハルは唇を這わす。逃げ気味の女の腰を強く引き寄せ、肉感的な女の両脚の間に自分の片脚を入れ、ゆっくりと脚を開かせた。
それまで目を閉じていた女のまぶたが開かれる。
「ち、ちょっと待って……ここで? ここではいやよ。人が……」
女の手がハルを遠ざけようと突っぱねる。けれど、その両手をハルはつかんで壁に押しつけ抵抗する女を封じた。
間近に迫るハルの瞳に射すくめられ、女は唇を震わせた。
ようやく、女は自分がとんでもない男に声をかけてしまったことを後悔する。
慣れている。
相手が決して素人ではないことを悟ったようだ。
女を壁に押しつけたハルは、相手の片脚に手をかけゆっくりと持ち上げた。
「でも俺、もう待ちきれない」
ハルはどこか意地悪げ笑って女の目をのぞき込む。
待ちきれないというわりにはハルの態度は余裕であった。ただ、動揺する女の様子を見て愉しんでいるのだ。
すぐ側の大通りではまだ、たくさんの人が行き交っている。誰かがこの路地裏に入り込んでしまったら、見られてしまう。しかし、ハルに容赦はなかった。
喉の奥で悲鳴をこらえ女は目を見開き首を反らした。
「いやなら、やめる?」
薄い笑いを口許に刻んでハルは女の耳元でささやく。途端、女は眉根をきつくよせ、ハルの腕の中で首を振り、さらに身体を密着させるように両手を首に絡ませてきた。
「いや……やめ……やめないで。このまま……」
女は途切れ途切れに哀願し、熱い吐息をもらした。
もはや、断る理由などなかった。
否、断れなかった。
ハルはそう、と静かに声を落として女の腰をさらに引き寄せた。
女を見つめるその藍の瞳に静かな炎が揺らぐ。
仰け反る女にかぶさるようにして、ハルは女の唇からもれる艶めいた喘ぎ声ごと唇をふさぐ。女はいやいやをするように首を振るが、やがて力が抜けたようにハルの肩に顔をうずめしがみついてきた。
「もう、立っていられない……」
「力を抜いていいよ。俺が支えるから。それと声、こらえてね」
空虚な心を偽りの欲望にすり替え、我も忘れて激しく乱れ狂う。
抱いた花を引き裂くほどに散らし、一時の快楽をただひたすら貪り続けた。
それでも、埋め尽くせない激情と鎮めることのできない心。
俺は何を苛立っている。
何をこんなに感情的になっている……。
◇
互いの息差しが夜の静寂に溶けていく。
乱れたシーツをきつく握りしめ、ベッドにうつぶせになったカナルの背に、窓から差し込む蒼白い月明かりが淡く照らされる。
カナルの唇から、もはや声にならない、せつなくかすれた息がもれるだけ。
シンのひたいから頬へ、そしてあごを伝って流れる汗のひとしずくがカナルの滑らかな背に落ちた。
「カナル……?」
腕の中の少女の名をささやき、シンは火照ったその背に口づけを落とす。
ぴくりとカナルの肩が震えた。
閉じていたカナルのまぶたが震えながら緩やかに開かれる。
目尻に薄く光っていた涙の一粒が頬へと伝い落ちる。
シンはベッドに片手をつき、カナルの目尻に唇を寄せた。
「ごめん……つらかったよね」
汗でひたいにはりついたカナルの前髪を指先で払い、頬をなでる。しかし、カナルは違うと首を振り、頬に添えられたシンの手に自身の手を重ねた。
「違う……違うの。謝らないで。罪悪感ももたなくていいの。泣いてしまったのは、シンに何度も愛してもらえて嬉しかったから。ほんとうよ。それに、これはあたしが望んだことだから……あたし……」
シンのことが好きだから。
しかし、最後のカナルの思いは、言葉として声にはならなかった。
瞳を揺らし、カナルが見つめてくる。何かを言いかけようと唇を薄く開き、けれど、あきらめたように口を閉ざして視線を落とすカナルの頬に、唇に、シンはそっと口づけをした。
嬉しそうに微笑んでカナルがぽろぽろと涙をこぼす。
「シン……」
カナルと身体を入れ替えシンはベッドに横たわる。そして、力の抜けたカナルを引き寄せ抱きしめた。片腕をカナルの頭の下に差し入れると、寄り添ってきた相手の髪を優しくなでる。
「少し眠る?」
しかし、カナルはいや、と小さく首を振りしがみついてきた。
「久しぶりにシンに会えたのに、今度いつ会えるかわからないもの。眠ってしまったらもったい……ない……」
そう呟きながらも、しだいにカナルは静かな寝息をたて、深い眠りに落ちていった。
こうしてカナルと身体を重ね合うことは初めてではない。それは互いに遊びと割り切って納得してのことだった。けれど、カナルの気持ちに気づかないシンではない。そして、カナルが自分の思いを口にした瞬間、この関係は終わるであろう。いや、終わりにしなければならない。
何やってんだよ俺。
「ごめん、カナル……」
やり切れない思いを払拭するために、カナルの思いを利用してしまった。
カナルの気持ちに応えることはできないというのに。
ごめん……。
再び謝罪の言葉を落とし、シンは窓の向こう、白み始めた空へと視線をさまよわせた。
◇
壁づたいに歩きながら、ハルは強く唇を噛んだ。
貪欲なまでに欲望はとどまることを知らず、何度も何度も自分を求めてくる女の要求に応えてやった。次第に女に対し嗜虐的な感情がわき上がり、高みに引き上がった女を休ませず、息をつく暇すらも与えず、さらに上へと容赦なく無理矢理、昇りつめさせた。そして、とうとう音を上げて女は泣き崩れ、そこで終わった。
胸にわだかまる苛立ちを吐き出した。
なのに……。
この苛立ちは一向におさまる気配はない。それどころか、罪悪感さえ覚え強まっていくばかり。
何故、こんな気持ちになる。
どうにかなってしまいそうだ。
立ち止まり、手を握りしめ側の壁を叩きつける。
手の痛みが、胸の痛みと重なった。
ひたいに手をあて、ハルは壁に背をついて空を見上げた。そのままずるりとそ
の場に座り込む。
立てた膝に顔をうずめ、震える肩を押さえつけるように己の肩を両手できつく抱きしめる。
虚しい笑いが唇からもれた。
閉じたまぶたの裏に浮かぶのは、満面の笑顔を自分に向ける少女のあどけない顔。
自分を好きだと言って、真っ正面からその思いをぶつけてくる少女。
惹かれつつも彼女の眩しさが、自分が抱えている闇をいっそう濃くした。
「もう……誰も失いたくないんだ……」
脳裏によぎる重く暗い過去。
大切な女性を二人も、それも目の前で失ってしまった。
殺されたのだ。
ひとりは淡い恋心と憧れを抱いた女性。
もうひとりはこんな自分に健気にも尽くしてくれた少女。
北の大陸、レザンの白い大地を血に染め、彼女たちはその生涯をあえなく散らしていった。
短すぎる花の命の如く。
そんな彼女たちを自分は救うこともできなかった。
無力で非力な自分を責め続けた。
自分に関わった女性たちがみな、いなくなってしまう。
そんなことはもう、耐えられない。
だから、二度と誰も愛したりはしないと心に誓った。
それなのに、何故、こんなにも心が掻き乱される。
ただ、ひとりの少女に……。
認めるか。
自分の気持ちを、素直に認めてしまうか。
けれどそれは、自分の持つ深い闇に、無垢な彼女を巻き込んでしまうことになる──




