23 望まない婚約者
二人は照らされる蒼い月明かりだけを頼りに、トランティア家の裏庭に造られた薔薇園の中の小道を走り続けた。
きらびやかな照明の明かりも、優雅で上品な楽曲も徐々に、背後へと遠のいていく。
「このまま、どこかに行ってしまいたい気分」
両手を大きくかざし、息を切らしてサラは嬉しそうな声を上げる。
「ねえ、シン」
走りながら、後方からついてくるシンを振り返った。
「おい、危ないから前を向けって……」
言っているそばからサラは何かに蹴躓き、前のめりに派手に転んでしまった。その拍子に片方の靴が脱げて飛ぶ。
「大丈夫か!」
慌てて駆け寄るシンにサラは平気、とにっこり微笑む。
身を起こして地面に座り込むサラの側にシンも片膝をつく。
「怪我はないか?」
様子を尋ねるシンの言葉に、サラはドレスの裾をたくし上げた。
「このくらいたいしたことないわ」
膝のあたりが擦りむけ、ほんの少し血がにじんでいる。
かすり傷程度だがそれでも痛々しかった。
シンは持っていた借り物のハンカチをサラの膝に撒いた。
「後で消毒するんだぞ。女の子なんだから、傷を残すな。それからほら、靴履いて」
サラの足首をつかみ、シンは脱げた靴を履かせる。
一瞬、シンの手の動きが止まった。
つかんだサラの足首は自分の指が回ってしまうほどに細かった。
力を入れてしまえば折れそうな程に。
「ありがとう」
無邪気に笑うサラに、シンは戸惑った顔をする。
「さっきの野郎……婚約者って言ってたけど」
突然、サラは表情を曇らせた。
あの男のことを思い出すだけでも憂鬱といった様子であった。
「うん、ファルク・フィル・ゼクス。私の婚約者……」
「そっか……」
驚いたような、そうでないような表情をシンは浮かべた。
いや、別に驚くことなど何もないのだ。
サラほどの家柄の娘なら将来を約束した相手がいてもおかしくはない。
改めて身分の違いを知る。
「お祖母様が勝手に決めたのよ。でも私あの人、大嫌いなの」
「何かわかるような気がする」
一目見て、シンも先ほどの男にいい印象を抱くことはできなかった。
「本当? 何となく嫌いじゃなくて、とにかく嫌いなの」
「俺もこいつはいけ好かねえ奴だと思った」
「シンもそう思ったの?」
「見るからに嫌な雰囲気がにじみでてた」
二人は顔を見合わせくすりと笑った。が、不意にシンは何かの気配を咄嗟に感じたのか、鋭い視線を後方へと放った。
「サラ、探しましたよ。突然会場を抜け出すとはどういうつもりなのですか?」
低い声音が静かな夜を震わせた。
どこか尊大とも言える声とともに、薔薇の茂みから先ほどの男が姿を現した。
サラの意にそぐわぬ婚約者、ファルクである。
サラの唇から悲鳴にも似た声がもれる。
居丈高に腕を組み、ファルクは己の婚約者のかたわらにいるシンを下目遣いに見下ろし、明らかに侮蔑のこもった嘲笑をこぼす。
自分と比べるべくもない小者と判断したのであろう。
傲然たる態度を崩さず、今度は射るような眼差しをサラに放つ。それは弱者を見下す強者のそれであった。
サラは唇を引き結び、座り込んだまま強くシンの腕をつかんだ。
「こちらへ来なさい。そんな得体の知れない男など、あなたには相応しくないですよ。あなたは由緒正しきトランティア家の跡継ぎなのですから」
ファルクは一歩足を踏み出す。
サラの身体がさらに、怯えるように震えだす。
目に涙さえ浮かべて。
「さあ、戻りますよ。戻って、私と一曲躍っていただかないことには私の、婚約者としての体面が潰れてしまう」
「いやよ」
シンの腕をつかんでいたサラの手が、さらにぎゅっと握りしめる。
「サラ、あまりわがままを言うようならば、少しお仕置きをしなければいけなくなりますよ」
ファルクは唇の端を持ち上げた。それは、将来を約束した婚約者に向ける笑みではなかった。
どこか残忍で、嗜虐的なそれである。
哀れなくらいサラは萎縮し怯えてしまっている。
それほどまでに、この男が怖いのか。
シンはまなじりを細めた。
それに、この男はお仕置きと言った。つまり、以前にもサラに何かをしたということ。
どういうことだ? とシンは震えるサラの手を強く握り返し目で問いかけた。
「私、ぶたれたの。その時は勉強のできない頭の悪い女は自分には相応しくないって。でも、顔はまずいからって、背中とか……」
その時のことを思い出したのか、サラは痙攣するように肩を震わせ、目に涙を浮かべる。よほど、酷い目にあわされたらしい。
しかし、ファルクは心外だとばかりに肩をすくめた。
「私ほどの男の花嫁になるからには、見た目はもちろんのこと、頭の方もせめて、まあ、最高とは言わないまでも人並み以上でなければ困るのですよ。恥をかくのは私なのだから」
「何よ、トランティアの家名だけが目あてのくせに!」
勇気を振り絞ったサラのなじる言葉に、ファルクは険しく眉根を寄せた。
今の言葉がお気に召さなかったらしい。
「私を怒らせるとどうなるか、一度じっくりとあなたに教え込まなければなりませんね」
シンはまなじりを細めてゆっくりと立ち上がる。
「その言葉をそっくりそのまま、てめえに返してやるよ」
そう吐き捨て、シンはサラを背中にかばい、濃い紫の瞳に怒りをにじませ相手を見据えた。
濃い紫の瞳に峻烈なまでの強い光が過ぎり、相手を容赦なく貫く。
ファルクは、ふっと可笑しそうに鼻で嘲笑った。まるで、餓鬼が戯れ言をとでもいうように。
「それはどういう意味かな?」
「俺を怒らせて無事でいた奴はいないってことだよ」
ただし、ハルの奴は例外だが、と心の中でつけ加える。
背後ではサラが背中にすがりつき、やめてと小声で呟いていた。
俺の心配をしてくれているのか?
そんなサラが愛おしいと思った。
自分の全てをかけても彼女を守ってやりたいと思った。だから、なおさらこの男が許せなかった。
ファルクは大仰な仕草で肩をすくめた。
「今のは聞かなかったことにしておきましょう。なにしろ、私は寛大ですからね。だいいち、おまえのような若造の出る幕などないのですよ。彼女は私の婚約者、私が彼女をどう扱おうと、おまえには関係のないこと。わかったら、彼女をこちらへと渡していただきましょうか」
否、と即座にシンは切り返す。
「女に手をあげるような奴にサラは渡せない。それに、サラはあんたといたくないって。あんたといるよりも、得体の知れない俺といるほうが楽しいってさ。あんた、そうとう嫌われてるな。婚約者としての面子丸つぶれだ」
ファルクはまなじりを細め、にっと唇の端を持ち上げて嗤った。
それでも、自分の方が間違いなく有利であるいう自信と驕傲な態度は崩さなかった。余程、自信があるのか、シンが豪語するのも、ただうるさい犬が吠えている、くらいにしか感じていないようだ。
「君も強情だね。女の前だからといって格好をつけたがる気持ちもわかるが、私を誰だと思っている? 怪我をしたくないだろう?」
「確かに、痛い思いをするのは嫌だな」
「ならば、さっさと退くがいい」
「だけど、そうもいかない」
「賢くない人間だね。本当に痛い目をみなければ、わからないってことか。それに、貴様何者だ。貴族ではないな。どうやってここへまぎれ込んだ」
「どうやって……って」
シンは言葉をつまらせ、参ったな、というようにこめかみのあたりを指でかく。
どうやっても何も、半ば無理矢理サラにここへ連れられてきたのだから。
「捕らえて役人に突き出してやろう」
ファルクは腰の剣に手をかけようとする。が、すかさずシンは手で制した。
「やめておけ。さっき、言っただろ? 俺を怒らせて無事でいた奴はいないって」
「ふん、こざかしい!」
一笑して、ファルクは剣を抜き放つ。
シンは大きなため息をこぼし、どうなっても知らねえぞと呟いて、腰にさげていた剣を握りしめる。
「シン! お願いやめて。私あいつの言うこときくから……嫌だけど、あいつと踊ればいいだけ。だから、絶対に戦っちゃだめ!」
「サラ……」
「シン、つき合ってくれてありがとう。今まで、我がままばかり言ってごめんね」
声を震わせるサラをシンは肩越しに振り返る。
「私、シンと一緒にいられて楽しかった。すごくいっぱい笑った気がする」
サラを見つめるシンの瞳はことさら優しさに満ちていた。
「あんな奴の言いなりになる必要なんてない。それに、サラの我がままは全然、我がままのうちには入らない。可愛いものさ」
何を思ったかこの緊迫感漂う状況で、シンはファルクに背中を見せサラに向き直った。
これにはファルクも眉間にしわを寄せた。
「でも、やっぱり私は我がままだと思う。自分でもわかってるつもり。シンにもたくさん迷惑をかけてしまったわ。ごめんなさい……」
うつむくサラのあごに指先をかけ、元気のない茶色の瞳を真っ向からのぞき込む。
「それでも魅力的な女には男が寄りつくし、離れていかないものさ。サラもそういう女になってみな」
「よくわからない……」
「あいつの心をつかむんだろう? どこにでもいる普通の女じゃ、奴の心なんて少しだって動かせやしない。ましてや、繋ぎ止めるなんてもってのほかだ。必死に追いかけるばかりじゃなく、反対に振り回してやるくらいの余裕をみせつけてやれ」
せつない思いが込み上げてくる。
シンは苦い嗤いを浮かべた。
俺、何言ってんだろう。
サラを奪うつもりでいたんだけどな……。




