20 サラのお願い
しばしの間、じっと見つめ合っていた二人であったが、不意にサラの右手がシンの左耳に伸びた。
「あなた、左の耳にだけ飾りをつけているのね。今気づいたわ。とてもきれいな紫水晶。あなたの瞳と同じね。でも、どうして片方だけなの?」
サラの問いかけに、シンは瞳を震わせ、ゆっくりと濃い紫の瞳を窓の外へと向けた。
窓から射し込んでくる陽の光が眩しくて目を細める。
明け方色の瞳に明るい日差しが重なり、シンの瞳に不思議な色を滲ませた。
「ひとつだけしか見つけることができなかった」
「ひとつだけ?」
サラは首を傾げた。
「母の形見なんだ」
落ちた静寂にシンの声が響く。
「あ、私……ごめんなさい……」
「いいんだ……もう遠い昔のことだから」
それっきり、シンは口を閉ざしてしまう。
サラも何かを察したのだろう、それ以上、あれこれと詮索してくることはなかった。そして、サラの手がシンの耳から離れる。
「シン……あのね、私明日には帰らなければいけないの」
「帰る? 家にか?」
「うん」
「それはまた、突然だな」
「もう、こうして自由に動き回ることもできないの」
サラはかすかな笑みを浮かべた。
「家に帰りたくないのか?」
悲しそうな目をする、サラのふわふわの頭をシンはそっとなでる。
「いつでも会いにいくよ。サラに寂しい思いはさせない」
「シンは本当に優しいのね」
「だから、俺は優しいって言っただろ?」
サラは泣きそうに顔を歪ませた。
「じゃあ、もうひとつだけ、シンに甘えちゃおうかな。お願いがあるの」
「お願い? 言ってみろ。俺にできることなら何でもする」
「ほんとう?」
シンはうなずいた。
「あのね、明晩私の家で行われる夜会に、シンも一緒に来てくれたら嬉しいなってと思ったの」
「へ?」
夜会? と、シンは繰り返して不可解な表情をする。
夜会といって思い浮かぶのは、貴族の邸宅で催される豪華絢爛で派手なあれだ。
庶民の人間には想像もつかない華やか衣装をまとい、目も眩むような宝石を身につけ、優雅な楽曲の中を躍ったり、飲んだり食べたりするあれ……だよな。
実際に目にしたことはないから勝手な想像だが。
「シンが一緒にいてくれたら私、きっと退屈しないと思うの」
夜会、夜会と繰り言のように呟くシンの耳に、サラの言葉は届いてないようだ。
そんなシンに追い打ちをかけるように、サラは続けて言う。
「私、楽しみにしてる」
そう言って、サラは手にしていたじゃがいもとナイフをテーブルに置くと、立ち上がって厨房から去っていってしまった。
「おい待て、夜会ってなんだよ!」
っていうか、逃げられた気もしなくもないが。
シンはよろめいて椅子に座り直した。
それにしても……。
確かにサラはそれなりに裕福な家に育ったという印象はある。が、それでも夜会などとは大袈裟だ。
シンは首を振り、そこで考え込むように腕を組んだ。
自分はサラに対して何か勘違いをしているのか。
シンはサラがどれほどの家柄の娘なのか知らない。
それもそうであろう。
よもや、由緒ある貴族のご令嬢がこんな街中を、供の者もつけずに歩き回り、庶民と気安く口を利くとは誰が想像できるだろうか。
片手をひたいにあて、考え込むシンの目に、またしてもテオの姿が映った。
「おまえ、何さぼってんだ。じゃがいもの皮むきは終わったのか? 玉ねぎは?」
「おまえこそほんとは暇なのかよ! さっきから、うろちょろしやがって!」
そこで、シンははっとなり。
「あの……お兄さん……」
シンはちょっとちょっと、と手を招いてテオをこちらに呼び寄せる。
露骨にテオは嫌な顔を作り、不機嫌そうな態度をとる。
「何だよ? 僕はまだ仕事中なんだぞ。おまえとは違って忙しいんだ」
返ってきたテオの辛辣な言葉にもかまわず、シンはサラが去って行った方向を指さす。
「彼女はいったい何者なのでしょうか?」
妙に改まった口調で問うシンに、テオは不思議そうに眉をしかめ、そしてなるほど、と口許に薄い嗤いを刻んだ。
「知らなかったのか?」
はあ……とシンはうなずく。
「サラはトランティア侯爵のご令嬢だよ」
今度は、はあ? と聞き返した。
ご令嬢と言うからには、それはそれは素晴らしい家柄のお嬢様なのであろう。けれど、そんな世界とは無関係の者に、いきなり貴族の家名を言われても耳に馴染みがないというのが事実だ。
テオは意地の悪い笑みを浮かべ、さらに、とどめとばかりに言い放つ。
「つまり、王家と縁のある貴族のお嬢様だ」
「お、お、お、王家……?」
シンは言葉をつまらせた。そして、口を開けたままテオを見つめ返す。
王家だって……?
王家に縁のある貴族のご令嬢?
「あれがか?」
シンは思わず、思っていたことをそのまま口にした。
「ま、まあ……小さい子はあのくらい元気なほうがいいんだ」
テオはうんうんとうなずく。
「いやいや、小さいっていうほどの年でもないだろ」
「ま、そういうことだ。もしも、王家の世継ぎが女子ではなく、男子であったなら、ゆくゆくは彼女は王妃という身分になるはずであったお方なんだよ」
現在、アルガリタ王家の世継ぎに男子はいない。
存在するのは、王女ただひとりのみ。
「おまえにとっては口も聞くのも恐れ多いお方。それがわかったなら、少しは彼女に敬った態度で接するんだな」
ははは、とテオは彼らしくない意地の悪い笑い声を上げて、冷ややかにシンを見下ろす。ところが、そんなテオの目に師であるベゼレートの姿が映ると、彼は突然ぱっと表情を輝かせ、にこやかな笑みを浮かべるのであった。
この豹変振りにはさすがに呆れてしまう。
「先生! お疲れでしょうが、次の患者さんがお待ちかねです」
目の前のシンになどもう興味がないとばかりに、テオは師を追いかけ軽快な足取りで去っていく。
何てことだと、シンは緩く首を振る。
その大貴族の夜会に、この俺を連れていくだって?
何考えてんだよ、あいつ!
「い、嫌だ! 俺は絶対に嫌だぞ!」
◇・◇・◇・◇
両手を腰にあて、サラは布団を頭まで引き寄せ、身体を丸めて眠るシンを見下ろした。
もうじき正午を告げる鐘の音が鳴ろうという時分なのに、いっこうに目覚める気配はない。
気持ちよさそうな寝息が布団の中から聞こえてくる。
もう、仕方がないわね。
サラは大きく息を吸い、シンの布団に手をかける。
「いつまで寝てるのかしら……っ!」
勢いよく布団をはぎ取った瞬間、サラは声にならない悲鳴を上げ、布団をシンの身体の上へと放り投げた。
「ど、ど、どうして!」
「……ん?」
「どうして裸で寝てるの!」
サラの顔が耳まで真っ赤に染まる。
半分まぶたのおちた寝ぼけた顔と、間の抜けた声を上げ、シンはのろりと半身を起こす。
どうやら、まだこの状況が理解できていないらしい。
時には優しく時には悪戯気に、そして、時にはぞくりとするような危険をはらむ濃い紫の瞳も今はどこかぼんやりとしている。
ほつれた長い髪が首筋、胸へと落ち、なんとも色っぽい姿だ。
これが裏街で恐れられている男だと、誰が思うだろうか。
早く服を着て、とサラに促され、シンはまだ眠そうな顔で脱いであった自分の服に手を伸ばす。その瞬間、腰のあたりに掛けてあった布団がはらりと床へ落ちた。
再びサラは悲鳴を上げた。
「ばかばかっ! 信じられない!」
手で顔を覆い、慌ててサラはシンに背を向ける。
一方、サラの大声ですっかり目覚めたシンは、不機嫌そうに頭をかいていた。
「まったく、朝から……」
「昼よ!」
そこで、シンはうっと声をつまらせた。
そろりと窓の外に視線をあてると、確かに太陽の位置が高い。
「と、とにかく、早く服を着て!」
シンに背中を向けたまま、サラは怒ったように声を上げ、いやいやと首を左右に振る。
そんなサラに、シンはふふんと目で笑い、何を思ったのか……。
「恥ずかしがって可愛い」
困った様子でうつむくサラの背後から、素肌のまま、ぎゅっと抱きついた。
「いやーっ!」
次の瞬間サラの容赦ないひじ鉄がシンのみぞおちを襲う。
「うぐ……っ」
シンは呻いて腹を押さえ、床にうずくまる。
起き抜けの空きっ腹に、今の一撃はかなり効いた。
「お昼過ぎには迎えの馬車が来てしまうわ。あなたを屋敷に連れて行くには、迎えが来る前に戻らなければいけないの。だから、早く支度をしてちょうだい!」
憤慨もあらわに大声を上げ、走り去るように部屋から出ていってしまった。
扉が凄まじい音をたてて乱暴に閉まる。
どうやら、その夜会とやらにシンを本気で連れていこうとしているらしい。
シンは長いため息を吐きだした。
いっそうのこと、本当に逃げ出してしまおうかな……と。




