16 あなたの瞳に私をうつして
陽の光が届かない建物の壁際に、ひとりの人影があった。
投じられた黒い陰で、その人物の顔ははっきりとはわからない。けれど、そのどこか突き放したような口調と声は、まぎれもなくハルのものであった。
「その手を離しなよ」
ハル……。
私のこと、助けにきてくれたの?
唇を震わせるサラの目に涙が盛り上がる。
けれど、ハルの名を呼びたくても喉元に押しあてられた短剣のせいで、声を出すことができなかった。
六人の裏街の男を前にしても恐れる素振りも見せず、ハルがゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「何だ、おま……え」
男のひとりが息を飲んだ。
裏街の、高い壁からわずかに差し込む陽の光がハルの白く端整な顔を照らす。
男にしては華奢な身体つき。何より印象的なのはその藍色の瞳。そこはかとなく揺らぐ色香を漂わせ、人を引きつけてやまない深く鮮やかな色。
裏街の男たちはハルの容貌に目を奪われたという様子だ。
数歩手前まで近づいてきたハルを、上から下まで舐めるように視線を這わせ、ごくりと唾さえ飲み込んでいる。
「ず、ずいぶんときれいな顔の兄ちゃんじゃねえか。この国の奴じゃねえな。異国人か? 言葉喋れんのか?」
男の言葉にハルはばかか? と言わんばかりに肩をすくめる。
たった今、何をしているのか、その手を離しなと、この国の言葉で喋ったばかりだということを、男たちはすっかりと忘れているようだ。
「それにしても、こっちの女よりも色っぽい顔だちしてねえか」
「たしかに……」
男たちはへへへ、と下卑た嗤いを浮かべる。
そんな彼らの視線などものともせず、ハルは再び男たちに言葉を投げかける。
「聞こえなかった? その手を離しなと言ったんだけど」
男たちはすっかりハルの見た目に騙されているようだ。
「へへ、この女を助けたければ、俺たちを倒すことだな」
「ま、おまえには無理だろうがな」
「そう。じゃあ仕方がないね」
ハルは右手の指を軽く動かし、ぱきりと鳴らした。
「おまえらを、殺せばいいんだね」
まるで何でもないことだというように軽く言うハルの態度に、男たちは気色ばむ。
「殺すだと? は! てめえ、誰に向かって口きいてんだ。いいかよく聞け、俺はなあ、この手で数え切れないほどの人間を殺ってきたんだ。てめえごときを捻り潰すなんざあ、わけもねえんだよ」
男のひとりが自分の黒い経歴をことさら自慢げに話し、ぺろりと分厚い唇を舐めた。
回りに従う男たちの目にも、ぎらついたものが浮かんでいる。
ハルはわずかに視線を落とし、緩やかに息を落とす。
それは投げ遣りなため息であった。だが、次の瞬間、再び視線を上げたその藍色の瞳に、峻烈な光が走る。
「な、何だ、その目はよ!」
ひとりの男が短剣を振り上げながらハルに向かっていった。その攻撃をハルは余裕でかわし、相手の背後に回って男の右腕をつかみ捻りあげる。
「い、痛っ……離せ……」
苦痛混じりに離せと言う声も、どこか弱々しい。
「その前に、彼女の手を離すのが先だよ」
ハルはサラを捕らえている男に視線を据える。
「さもないと」
くつりと嗤って、ハルはつかんでいた男の腕をさらにぎりぎりと締め上げた。徐々に加わってくるその力に、男は顔を歪めて呻き声を上げる。
「こ、こいつ……」
先ほどまでの戯けた作り笑いがあとかたもなく消え、男たちの目に凄みが増した。
その目は人を傷つけることを何とも思わない、残忍な目であった。
「いい度胸じゃねえか。俺らに逆らうとどうなるか」
サラを押さえつけていた男はにやりと口許を歪めた。
喉元にあてていた短剣を徐々に下げ、サラの服の胸元を一気に切り裂いた。
「いやっ!」
「うわーっ!」
サラの悲鳴と、ハルに腕をねじられていた男の悲鳴が重なった。
だらりと垂らした右腕を、もう片方の手で押さえ込みながら、男がその場に膝をついて崩れ落ちる。
「う、腕……腕がっ! 折れたよ。いてーよ……」
「くそっ! この野郎!」
ハルは男の手から落ちた短剣を拾うと、腕を押さえ地面でうずくまっているその男の髪をつかんで上向かせた。
仰け反った男の頸筋に短剣の刃を押しあてる。
「ひっ!」
薄い皮膚に鈍色の短剣の刃が食い込む。
凶器を持つ手を横に引けば、たちどころに男に死が訪れるだろう。
「まずは、おまえからだね」
ハルは男の耳元でささやいた。
その声は人を殺すという行為に陶酔した、蕩けるような甘美な響きであった。
じっと、男の目をのぞき込むハルの深く鮮やかな藍色の瞳の奥に揺れるのは、まぎれもない狂気。相手の魂ごと絡めとり支配する危険な色。
「な、何なんだよ……こいつ」
「薄気味わりい……」
男たちは、自分たちがとんでもない者に刃向かっていったことにようやく気づいたのか、怯えた声をもらす。
「ま、待ってくれ……頼む。俺が悪かった。だから、命だけは……たす……たすけて」
「どうしようかな」
冗談とも本気ともつかない口調で言い、怯える相手の様子を愉しむように、薄い笑いを口の端にのせる。
男の顔が青ざめるのを通り越し、白くなっていた。
「だめ! 殺さないで……殺してはだめ!」
サラの叫び声にハルの手が緩む。
男はだらしなく口を開け、力が抜けたように再びその場にへたり込んだ。
「じ、冗談じゃねえ!」
残りの男たちは、情けない悲鳴を上げ、すぐさま身をひるがえし、その場から逃げ去ってしまった。
「ひ、ひーっ! 待ってくれ……俺を置いていくな!」
地面にへたりこんでいた男も、這いつくばるようにして仲間の後を追っていく。
ハルは手にしていた短剣を投げ捨て、ゆっくりと、腰が抜けたように座り込むサラを冷ややかな目で見下ろした。
「ハル……」
ハルの冷たい視線に見つめられ、素直に会いたかったと喜ぶことができなかった。
怖くて動くことができなかった。
「助けにきてくれて、ありがとう……」
それだけを言うのが精一杯であった。
しかし、ハルから言葉をかけられることはなかった。引き裂かれた衣服の前をかきあわせ、いたたまれない気持ちでサラはごめんなさいと呟いてうつむく。
長い沈黙に、不安で胸が押しつぶされてしまいそうだった。
しばらくして、頭の上で重いため息をひとつ聞くと同時に、目の前に上着が投げつけられた。
ハルが自分の上着を脱いで渡してくれたのだ。落ちた上着を手にとって羽織り、両手で自分の肩を抱きしめる。
「謝るなら、何故ここへ来た」
視線と同じ冷たいハルの声に身体が震えた。その震えを押さえ込むように、肩を抱きしめている手に力を込める。
「シンに、ここへは来るなと言われなかったか?」
「それは……」
「言われたはずだな」
答えられなかった。
「なのに、あんたはあいつを裏切った」
裏切った……。
その言葉が胸に重くのしかかる。
そう、私はシンとの約束を破ってしまった。
いいえ……。
サラは違うと心の中で否定する。
ハルに会うためにここへ来るつもりだった。なのに、もうここへは来ないと、シンに嘘をついた。
「あいつを怒らせたらどうなるか、わかっていないようだね」
まあいい、とハルは背を向けて歩き出そうとする。
「待って!」
「礼を言うなら俺ではなく、シンとあいつに言え」
あいつと言って、ハルはちらりと視線を横に傾ける。
いつの間に集まってきたのか、ハルの視線の先にシンの仲間と思われる、裏街の男たちがこちらの様子をうかがうようにずらりと並んでいた。
騒ぎを聞きつけて、駆けつけてきてくれたのだろうか。
その中のひとり、自分と同じ年くらいの少年が、おろおろと落ち着かない様子でこちらを見つめ立っている。
「俺がここに来たのは偶然ではない。あんたがこの裏街に踏み込んだときのことを考え、万が一何かあった場合はあんたを助けるようにと、シンが仲間に伝えていた。その仲間のひとりが、たまたま俺を見かけて、あんたの危機を知らせてくれた」
ハルに自分のことを知らせたという人物が、心配そうにこちらを見ているあの少年なのだろう。
「ごめんなさい……」
「あんたはどれだけの人間を巻き込んで、迷惑をかければ気がすむ」
ハルの言葉にうなだれる。
返す言葉が見あたらなかった。
ハルは間違ったことを言ってない。
わかっている。
これは謝ってすむ問題ではない。自分のわがままのせいで、たくさんの人に迷惑をかけてしまった。
それに……。
私のせいで、ハルに人を殺させてしまうところだった。あの時、私が止めなければ、ハルはあの男たちを殺していたかもしれない。
そう思うと、恐ろしさに身がすくんだ。
そんなこと望んでいないのに。
私、本当に何も考えていなかった。
もうここには来ない。
でも、私の思いだけは伝えなければ。
今、伝えなければ、きっとハルには二度と会えない気がする。
「ただ、ハルに会いたかっただけなの。どんなに拒絶されてもハルのこと、あきらめたくないと思ったから。私……ハルの側にいることを許されたい。ハルにとっての特別な存在になりたい。ハルの気持ちが手に入るのなら、他には何もいらない。何も望まない」
一気に言って、サラは息をつく。
どうすれば、彼の心を動かせるのだろうか。
どうすれば、私の存在を認めてくれるのだろうか。
「私胸が苦しいくらい誰かを好きになったのは初めて。本気なの。本気でハルのことが好きなの!」
先ほどまでの勢いも失せ、首をうなだれてぽつりとサラは呟く。
もっと、この気持ちをうまく伝えることができればいいのに。
ひどくもどかしいと思った。
手を強く握りしめ、こぼれ落ちそうになる涙をこらえながら、サラは真っ直ぐハルを見上げた。
「あなたの瞳に私をうつして」
落ちた沈黙が二人の間に流れる。
お願い何か言って。
これで突き放されてしまったら、私の気持ちを拒絶されてしまったら、私はもうどうしたらいいのかわからない。
あきらめないと誓った心が、くじけそうになったその時。
「あんたには負けたよ」
思いもよらなかったハルの言葉に、一瞬、自分の耳を疑った。
「じゃあ!」
サラはぱっと表情を輝かせた。が、すぐに戸惑いに瞳を揺らす。
怖いくらいに真剣なハルの表情に、サラはぞくりと背筋を震わせた。
「俺の心に踏み込んでくる覚悟が、本当にあるのか?」
ハルの言葉をサラは心の中でゆっくりと繰り返す。
もちろん、覚悟はできている。
立ち上がって、サラはこくりとうなずいた。
「あるわ」
「なら、俺が命をかけてもいいと思えるほどの女になってみな」
「そうしたら、私のことを好きになってくれるのね?」
茶色の瞳を揺らして、サラはハルの顔を真剣に見つめ返す。
ハルがゆっくりと近寄ってくる。
伸ばされた指先がサラの頬に触れた。
顔を傾け、ハルの唇が耳元へと近づく。
「これ以上はないってほど、愛してやる。ただし、この俺を本気にさせることがあんたにできればね」
ささやくハルの唇がかすかに耳に触れ、サラは息を止め身を強ばらせる。
目眩にも似た感覚を覚え、膝が震え立っているのもやっとであった。
「今の言葉、絶対に忘れないで。もう、私をさけたりしないで。約束よ、ハルの心を手に入れたら、私をずっとハルの側にいさせて……お嫁さんにして!」
「ああ、いいよ」
サラは一瞬、呆気にとられた表情を浮かべる。
勢いに任せて、お嫁さんにしてなどと、とんでもないことを言ってしまったと後悔したのに、返ってきた答えはあまりにもあっさりとしている。
もしかして、またからかわれているのでは? と疑ってしまう。
「一生大切にしてやる」
胸がどきりと鳴った。
よもや、ハルの口からそんな言葉が出るとは思いもしなかったから。
「ほんとね? 嘘じゃないわね?」
「嘘はつかないよ」
サラは泣きそうな顔で唇を震わせた。
ようやく、ハルと向き合うことができた。
ほんの少しだけど、希望が持てた。
「もうここには来ないわ」
ううん、とサラは首を振る。
「私、お屋敷に戻らなければいけないの」
サラの手がハルの両腕をきゅっとつかむ。
「お願い、逃げないで。そのままじっとして」
ハルの胸に私の思いを刻みつけたい。
私のことを少しでも気にかけてくれるように。
「ハル、好き」
ん……とつま先立ちになって、ハルの唇に自分の唇をちゅっと重ねた。
それはあまりにも幼なく拙すぎる、触れるか触れないか程度の口づけ。
サラはそろりとハルを見上げる。
「へたくそ」
「へたっ! だって……」
「みんなが見ている前で大胆なことをするね」
「気にしないわ」
だって、とにかく今は必死だもの。
サラは頬を朱に染め、ハルの胸に手を添えた。
「もし、ハルの胸に少しでも私の思いが響いたなら。私に会いに来て」
「俺に会いに来いと?」
「そうよ」
サラはとびっきりの笑顔をハルに向ける。
「そうだわ。きちんと名前を名乗らなければいけないわね。私の名前はサラ・ファリカ……」
「知っている」
サラは驚きに目を見開いた。
「知っていたの? いつから?」
「あんたが乗っていた馬車の紋章」
「じゃあ、最初から、出会った時から私のことを知っていたのね。だったら、話が早いわ! 私のお屋敷に会いに来て。えっと、こっそりだけど」
「無茶を言うね」
「でも、ハルならそんなことわけないわよね」
ハルは肩をすくめ、サラに背を向け歩き出す。
裏街の男たちがいっせいに、緊張したように身がまえた。
「気が向いたらね」
「絶対よ! 絶対に来て! ハルが会いに来てくれるの、私、ずっとずっと待っているから」
ハルはサラの危機を知らせてくれた少年の肩に手をかけ、口許にかすかな笑みを浮かべた。そして次に、その少年の側で腕を組んでいる男に視線を向けた。
シンに裏街を頼まれたカイであった。
「あいつを何とかしてやれ」
ハルはちらりとサラを振り返る。
「おまえに命令される筋合いはない」
カイは鋭い目でハルを睨みつけた。
「いいのか? あの状態のままシンの元に帰してしまって」
サラは引き裂かれた服の胸元を隠すように、羽織っていたハルの上着をかきあわせこちらを見ている。
「あいつのあんな姿を見たらシンが逆上するぞ。この裏街を血の海にするつもりか」
ふっと笑い、ハルは裏街の男たちの間を抜け立ち去っていく。
カイはちっと舌打ちをした。
そこへ。
「カイさん、裏街の入り口でエレナさんが待ってますが……」
「エレナが? 何故エレナがここに」
「それが……あいつに」
あいつと言って、男は振り返ることもなく去っていくハルの背中を見やる。
「エレナさんを呼んでこいと頼まれて」
「あいつ……そのためにエレナを……」
カイは眉をしかめ、何ともいえない苦い笑いを浮かべた。




