12 心を動かされたのは……
「ハル! おまえ何をするつもりだ」
咄嗟にシンの指先が腰の剣にかけられる。
場合によってはこの剣を抜くのもやむを得ないと。
へえ、と揶揄するようにハルは目をすがめシンを見る。
「俺とやりあうつもりか?」
厳しいその瞳に射すくめられ、シンはごくりと唾を飲み込んだ。
しらずしらず、手のひらが汗ばんでいることに気づく。
胸の鼓動が早鐘のように打ち、流れる血がかっと熱くなっていく。
勝てる相手ではないとわかっていながら、何故、俺は剣を抜こうとしている。
この子のために?
目の前の相手に完膚なきまでに打ちのめされ、生死の狭間をさまよったことを忘れたわけではないだろう?
たちこめる静寂に一陣の風が吹き、裏街のよどんだ空気を拡散する。
まるで時がとまってしまったかのように、微動だにせず、互いに相手の出方をうかがう二人の少年の間に危うい気配が張りつめた。
しかし、その重苦しいほどに緊迫した空気を先に解いたのはハルであった。
サラの首にかけていた手を離し、くつりと笑う。
「あまりにもうるさいから、黙らせてやっただけだ。まさか、本気で俺が何かすると思ったのか?」
途端、サラは足下を崩し、力が抜けたようにぺたりとその場に座り込んでしまった。
ずっと自分が息をつめていたことにようやく気づいたのか、大きく息を吐き出す。
シンもゆっくりと緊張を解き、剣の柄から手を離す。
「二度と来るな」
それでもサラはいや、と首を振る。
「なら、はっきり言う。俺はあんたのことなど何とも思っていないし、一方的に気持ちを押しつけられても迷惑だ」
ぽろりと涙をこぼすサラを一瞥し、今度はシンに視線を向ける。
「そいつに変な気を起こすなよ」
「関心もない女を気にかけるとは、おまえにしては珍しいな」
「いちおう、恩人だからな。それだけだ」
それ以上、語ることはないというように、ハルは二度とこちらを振り返ることもなく去って行ってしまった。
「待ってハル!」
なおも追いかけようとするサラの腕を、シンは咄嗟につかんで引き止める。
「もう、よせ」
「離して! ずっとハルのこと探したの。やっと会えたのに、このまま別れるなんていやよ!」
つかまれた腕を振り解こうと、激しく暴れるサラの身体をシンは背後から抱きしめた。 身動きができないほどに、強くきつく。
「何するの! 離して。離さないと、あなたのこと一生許さない!」
「それでもかまわない」
「あなたなんか嫌いよ……」
「どうしてわからない。あんたの純粋な気持ちはあいつには伝わらない。むしろ、遠ざけてしまうだけだ」
「お願い。離して……ハルが行ってしまう。ハル!」
振り返ることもなく遠ざかっていくその背に向かって、何度も名を叫ぶ。
サラの悲痛な叫びが胸に突き刺さる。
どんなに思いを伝えようとしたところで、相手に届かないことだってある。
恨み言を言われてもいい。
嫌われてもいい。
これ以上、泣き叫ぶ少女の声を聞くのが辛かった。
だから──
「ごめん……」
シンは悲痛な表情できつく奥歯を噛み、サラの口を背後から手を回してふさいでしまった。
「……っ!」
腕の中で身を震わせるサラの肩に、身をかがめシンはひたいを添えた。
もはや、愛する人の名を叫ぶことも、追いかけることもかなわず、サラはただ、去って行くハルの背中を必死で目で追いかける。
やがてその姿も、薄暗い裏街に落ちる影の向こうへと消えていってしまった。
きつくつむったサラの目から、涙がこぼれシンの手にぱたぱたと落ちる。
腕の中で小刻みに震える少女の華奢な身体を、シンはさらにきつく抱きしめた。
やがて、裏街特有のどろりとした、よどんだ静寂が戻り、傾きかけた陽の光が足下に陰影を落とす。
どのくらいそうしていたのだろうか。
ようやく、抱きしめていたサラの身体からそっと腕を解く。
虚脱したように両腕を垂らし呆然と立つサラの顔をのぞき込んで、シンは切なげに瞳を揺らした。
こぼれ落ちる涙が、サラの青ざめた頬を濡らす。
「頼むから泣かないで」
地に片膝をつき、目の縁にたまった涙を拭おうとシンは指先を伸ばした。けれど、その手が触れることを躊躇うように、虚空で止まってしまった。
胸がきゅっと痛んだ。
もしかして、心を動かされてしまったのは……。
◇・◇・◇・◇
いつまでも泣きやまないサラの手を引き、シンは町の大広場へと続く並木道を歩いた。
すれ違っていく人々が、何やら不審な目をこちらに投げかけすれ違っていく。
まいったな……。
やがてあきらめたように立ち止まり、シンは心底困ったと頭をかきながら、サラを木陰の下に並ぶベンチへ導き座らせた。
「なあ、もう泣くな」
腰を屈め、サラの涙に濡れた顔をのぞき込む。
首の後ろで無造作に束ねられたシンの長い髪が、はらりと肩から胸の前へと落ちた。
「これじゃ、まるで俺が女の子を泣かせた悪い男に見られるだろ。俺、女の子泣かせるのはベッドの上だけって……いてっ!」
振り上げられたサラの右手が、シンの頬をぺちりと打ったのだ。
「こうなったのも全部あなたのせいじゃない! あなたのせいでハルを追いかけることができなかった。せっかく会えたのに……やっと、会えたのに……ひどいわ」
「そうは言っても、ただ追いかけるばかりじゃ、あいつの気持ちはつかめないよ」
そろりと顔を上げ、涙に濡れた目でサラはシンを見上げる。
「それって、押してもだめなら引いてみるってこと? そうしたら、ハルは少しでも私のこと気にかけてくれる?」
「いや、引いたらあいつの場合、間違いなくそれで終わりだな。追いかけてくるような奴じゃない」
「だったら、なおさら引くわけにはいかないじゃない!」
シンはうーんと唸り、またしても泣き出してしまったサラの顔をもう一度のぞき込む。
「あのさ、あんな奴なんかやめて俺にしてみるってのはどう? 俺、優しいよ。あいつみたいに女の子を悲しませて泣かせるようなことはしないし、大切にするし、守ってあげるし、会いたいって言ったら、いつでも会ってあげる」
しかし、サラは頬を膨らませふいっと、顔をそむけてしまった。
「あなたなんか嫌いって言ったでしょう。口もききたくないわ。どこかに行ってちょうだい!」
「なあ……」
シンの指先が目の縁にたまったサラの涙をすくう。
「気が済むまであんたにつき合ってあげるから機嫌直してよ。何かして遊ぶ? それともどこかに行く? きれいな夕陽が見えるとこ知ってるから連れていってあげようか。それとも、もしかしてお腹空いた? 何か食べたい? おやつの方が好き? 甘いもの食べに行く? 何が好き? だから、もう泣かないで」
目を真っ赤にして唇を噛みしめるサラの頭に手を置きくしゃりとなでる。
が、次の瞬間。
「うわっ! いてててっ!」
突然、シンは悲鳴を上げ、右足のつま先を押さえて飛び跳ねた。
サラのかかとがシンの足の先を思いっきり踏みつけたのだ。さらに、頭の上に置いた手も邪険に払いのけられる。
「お、おまえ……」
「子どもあつかいしないで!」
「だって、子どもだろ?」
「子どもじゃないわ!」
「……ふーん」
半分まぶたを落とし、シンは腕を組んでサラを見下ろす。
その濃い紫の瞳に、得たいの知れない光が過ぎった。
やにわにシンは腰をかがめ、ベンチの背もたれにサラの身体を挟むように両手をついた。
何? とサラは驚いて身を引くが、ベンチの背にはばまれてしまう。さらに両脇に置かれたシンの手のせいで、逃げ場はない。
「そういえば俺、あんたの名前、聞いてなかった」
サラもあっ、と声を上げ口許に手をあてた。
「私、名乗ってなかった……」
「最初は聞く必要なんてない、興味もないと思ってたから、だから俺も尋ねなかったんだ。教えてくれる?」
「サラよ」
「そう、可愛い名前だね。サラ」
じっと、目を見つめられながら低い声で名前をささやかれ、サラは動揺したように視線を泳がせる。
真っ向から見つめてくる濃い紫の瞳から逃れようと視線を落とすが、サラの目に映ったのは、着崩したシャツからのぞく相手の引き締まった胸元。細い腰。
顔を赤くして慌てて視線を上げると、すぐ間近に真剣な目をしたシンの顔があった。
目をそらすことができなかった。
「本気で俺にしてみない? お試しでつき合ってみるだけでも」
どう? と、シンは声を落とす。
シンの前髪がはらりと垂れ、サラの頬にかかった。
「ふざけないでよ。この手をどけて」
「ふざけてなんかいないよ」
「いい加減にして!」
再び振り上げられたサラの手を、今度は難なくつかみとってしまう。
慌てて引っ込めようとする手を、そうはさせないと引き寄せ、シンは口許に持っていく。そして、サラを見つめたまま、白く滑らかなその手首の内側にそっと、口づけを落とした。
「……っ!」
小さな悲鳴を上げ、サラは肩をすぼめる。
頬が上気したように赤く、潤んだ瞳は戸惑いに揺れ、目の縁にあらたな涙が盛り上がる。
シンの瞳に愉悦的な色が広がった。
何やら含むような笑いを浮かべ、シンは悪戯気に目を細める。
まぶたを縁どるシンの長いまつげが震える。
そのまつげの奥、濃い紫の瞳の奥に揺れるのは妖しい影。
「このまま、あんたを追いつめて堕としちゃおうかな。今なら簡単にあんたの心を崩せそうだ」
「私は……」
「そう簡単には堕ちないって? どうかな。そんなのわからないよ。試してみる?」
「私にはハルがいるもの……」
「思う相手が他にいても、俺はかまわないよ」
もう一度、サラの手首に口づけをしながらシンは甘くささやく。
「俺の手に堕ちておいで、サラ。可愛がってあげる」
もはや声も出せず、サラは真っ赤な顔で口をあわあわとさせた。
しかし──
「ぶふっ!」
突然シンは吹き出し、さらに腹を抱え、声まで上げて笑い出した。
「子ども扱いするなって言うから、ちょっとからかっただけなのに、あんた、すっごい顔真っ赤だし慌ててるし……本気にされちゃったらどうしようって、俺の方がひやひやしたよ。あははは……」
サラはきゅっと唇を噛んだ。
「やっぱり、私のことからかってたのね!」
「どきどきした?」
「しないわよ! あなたなんか本当に大っ嫌いだわ。もう帰る!」
憤慨もあらわな声音でサラは勢いよく立ち上がり、上背のあるシンをきっと睨み返した。そして、ふいっと顔を背け歩き出す。
「それだけ元気があるなら、心配はいらないね」
サラの歩みが数歩先で止まり、肩越しにシンを振り返る。
「何してるの。あなたも来なさい」
「え? 俺?」
「他に誰がいるというの」
「俺のこと、大嫌いなんじゃなかったのか?」
「ええ、嫌いよ。大っ嫌いだわ。だけど、あなたとここで別れてしまったら、ハルとの繋がりが絶たれてしまうもの。あなたにはしばらく私と一緒にいてもらうから」
「いや、いてもらうからって勝手に決められても、俺これから飲みに行こうかな……とか思ってたりして」
「いいから、来なさい!」
「はい!」
思わずはいと返事をしたものの、シンは首を傾げた。
来なさいって……。
何で俺がこの子のいいなりに?
もはや、もうなるようになれである。




