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プロローグ

 サラはそっと天蓋つきの寝台に歩み、天井から垂れる薄い絹の幕を開けた。

 そこに眠るのは、安らかな寝息をたてる愛しい男性の姿。

 頬を柔らかな枕に埋め、その枕を抱きかかえるようにうつぶせになって眠るハルの寝顔は穏やかであった。

 サラはベッドの端に腰をおろしハルの肩に手をあてた。


「起きて、朝よ」


 まぶたを震わせ、ハルはゆっくりと目を開く。

 ひたいにかかる、たれた前髪の隙間から、鮮やかな藍色の瞳が揺れる。

 ささやく、サラの声にハルは口許に緩やかな笑みを浮かべた。

 サラもにこりと微笑む。

 おもむろに、ハルは腕を支えて起きあがり、顔を傾けサラの唇に唇を重ねた。

 優しく柔らかい口づけ。


 今でも思い出すわ。

 あなたと初めて出会った時のことを。

 私は一目で、あなたの瞳に恋をしてしまったのだもの。

 あなたを振り向かせるのに、どれほど苦労したことかしら。

 あの頃の私はあなたの心が欲しくて必死だった。

 たとえ、この先何があろうとも、あなたのことを愛し続けるわ。


 ずっと、あなただけを──



◇・◇・◇・◇



 王都アルガリタへと向かう途中に広がる森林地カーナの森。

 鬱蒼たる森の中を一台の馬車が塵とほこりをまき上げ、走り抜けていく。

 馬車は小さめながらも立派なもので、車体は艶やかな漆黒色に塗られ、金の蔦模様と花の図柄が描きこまれていた。

 あきらかに、身分ある者を乗せている馬車であろうことは確か。

 その馬車の中、サラは窓枠に頬杖をつき流れ行く外の景色をぼんやりと眺めていた。

 足下には脱ぎ散らかした靴。

 アルガリタの名門貴族、トランティア家の令嬢にしてはいささか不行儀ともいえる態度であったが、馬車の中はひとりきりさだったため、誰も彼女を叱る者はいない。

 開け放たれた窓から流れ込む風が少女の緩やかに波打つ鳶色の髪を揺らし、白い肌をなでていく。

 年の頃は十四、五歳。透き通るような肌に、頬はほんのりと薄紅色。唇もまた同じ。まつげからのぞく瞳は髪と同じ色。

 可憐という言葉がぴたりとあてはまる少女であった。

 サラは深いため息を落とす。


 私には自由のひとつもない。

 本当は今日だってメイルの都で開かれるお祭りを見に行くつもりだったのに。


 もちろん、反対されるのはわかりきっていたから、こっそりと屋敷から抜け出してきた。だが、メイルの都に辿り着く直前、追いかけてきた護衛たちに見つかってしまい、こうして屋敷へと連れ戻されているところであった。

 彼女の脱出癖は今日に限ったことではなく、その度に連れ戻され今度こそ逃げ出さないようにと、部屋を移動させられたり監視の人数を増やされた。


 これでは、次こそは檻つきの部屋かもね。


 そんなことを考え、再び重いため息をつく。

 延々と続くかに思われる鬱蒼たる森の、変わり映えのない風景がサラの虚ろな瞳に消えることなく映しだされていく。

 ふと、サラは目を瞬かせた。

 茂る森の緑に混じって一瞬、他の何かが視界に入り過ぎっていったからである。

 はじかれたように顔を上げ、窓から半身を乗り出し後方を振り返る。

 馬車の後には馬に騎乗しつき従う護衛たちが、サラの奇妙な行動に訝しむ表情を浮かべていた。

 さっきの一瞬の何かが気になって仕方がない。

 とてつもない胸騒ぎに心が揺り動かされる。

 まるで、何か大きな予感を感じとるように。

 窓から乗り出していた身体を今度は前方へと向け、サラは胸いっぱいに大きく息を吸い込んだ。


「止めてっ!」


 砂利を噛む車輪の音と大地を蹴る馬蹄の音に負けじと、サラは御者台に向かって声を張り上げた。

 その叫び声に、御者は操っていた馬の手綱を引き絞る。

 勢いのついた馬車が徐々に速度を緩め、やがて停止する。

 馬の嘶きが静寂たる森の空気を震わせた。

 木々の合間で羽を休めていた小鳥たちが、枝葉を揺らし、いっせいに大空へと飛び立ち、木の葉が虚空を舞って地面に落ちる。

 護衛の男たちが互いに顔を見合わせ、不審な表情で馬を寄せようとしたと同時に、サラは勢いよく馬車の扉を開け放った。

 転がるように馬車から飛び出し、サラは今来た道を戻るため駆けていく。

 少女の行動に虚をつかれ、護衛たちは唖然としていたが、すぐに我に返りサラを呼び止める。


「どうされたのです? サラ様!」


「お待ち下さい!」


 引き止める声を無視し、サラは振り返ることなく走った。

 まとわりつく衣装の裾をうっとうしいとばかりに両手でたくしあげる。

 靴を履くのを忘れたのか、あるいは履く時間さえ惜しいと思ったのか、足元は裸足であった。

 やがて、サラは目的の場所に近づいた。

 あの時、一瞬だけ瞳に映ったもの。それは人の姿であった。

 大木の根本に背中を預け立てた片膝を一本の剣とともに片手で抱え、そこにひたいを乗せてうなだれているひとりの少年の姿。

 しかし、どうも様子がおかしい。

 サラの足が少年の数歩手前で止まった。

 口許に両手をあて小さな悲鳴を上げ、信じられないとばかりに首を横に振る。


 ひどい……。


 それはあまりにも無惨な姿であった。

 少年の右肩を貫く一本の矢。その肩が真っ赤な血で染まっている。

 時折、少年の細い肩がぴくりと震えているのはまだ息がある証拠。

 賊に襲われたのであろうか。

 もしもそうであるなら、命があることじたい奇跡に近い。


 早くこの人を助けてあげなければ。

 なのに足が動かない。

 怖い……何だか怖い……。


 この少年とかかわってしまうことに、サラは何故かためらいを覚えた。

そのためらいの正体が何であるかはわからない。

 心にかかる不安を振りきり、サラは首を振る。

 相手は怪我人なのだ。


「あなた……」


 サラは声を震わせ、傷ついた少年に近づこうと再び歩を進めた。

 華奢な身体つきの少年であった。

 肩も腕も男の子にしては頼りないといっていいくらい細く、見るからに弱々しい印象である。

 遠慮がちに近寄ってくるサラの足音に気づいたのか、少年はゆっくりと顔を上げた。

 思わずサラは息を飲む。

 閉ざしていた少年のまぶたが震えながら緩やかに開かれる。


 それが、二人の出会いであった。

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