上
ヨル、とそう呼ばれていた。私の名前。私を表す言葉。それは遠い遠い異国の言葉で、世界が闇に包まれる刻を指す言葉なのだそうだ。「夜」のような漆黒を身に宿した私を珍しがって組織に招き入れたのは、当時のマスターだ。
黒い髪と黒い瞳。まるで闇の精だな、とシニカルに微笑って見せたマスターを不思議な思いで見上げた。肩に付くかつかないかの長さの髪は痩せっぽちな体と同じようにかさかさと軋んでいて、お世辞にも綺麗とはいえない様だったし、真っ黒な瞳は気味悪がられることばかりの代物で、珍しいとはつまり、きっと私の最期のときに嫌悪とともに唾棄されるような意味合いなのだと幼い私は理解していた。
その認識が間違ったものであったと知ったのは、マスターと呼んだ男の人が全身を真っ赤に染めて冷たくなっていく瞬間のことで、それはどうにも遅すぎたのだ。
鼻の曲がりそうな異臭とともに何色とも言えぬ淀んだ下水路の脇で、私は冷たい地面に膝をついていた。こんなところには一瞬だって居たくはないけれど、膝の上にはともすれば命の灯火が消えかかったその人の頭が乗せられていた。
衣服と呼べぬほどに赤く染まったそれに、浅く早い呼吸を繰り返しながらぐったりと目を閉ざしたまま動かない彼に私はその人の最期の時を見た。
「なぁ、ヨル」
「なに、マスター」
かすれた甘い声。いつもと変わらず皮肉げに口角はつり上がっているのに、その顔色は紙のように蒼白だ。けれど分かっていた。自分に何の力がないことも、ここに救いがないことも、そして時間がないことも。
「俺はお前に、世界を見せてやれたか?少しでも、小汚ぇもん以外を教えてやれたか?」
「…………?」
浅く呟かれた言葉の意味もわからず、わたしは首を傾げた。
世界。汚くない、世界。それはなんのことだろう。
私の感じた疑問は何故か目を閉じたままのその人に伝わったようで、彼は小さく小さく、こぼすような笑い声を漏らした。
「路地の裏、トチ狂った女に殴られて動かなくなってたお前に声掛けたろ。あれ、死んでると思ってたんだぜ」
あぁ、そう。でも多分実際、マスターが私を拾わなければ死んでいただろう。母は私の容姿を酷く憎んでいたようで、なくなればいい、きえればいい、そう呪詛のように繰り返された言葉は間違いなく私を死の淵へと追いやるものだった。
「マスターは、物好き。ゴミを拾おうなんて、普通は思わない」
ゴミはゴミ捨て場へ。拾って育てるなんて、この人のほうこそきっと、トチ狂っていたんだ。
「あぁ、だって気まぐれだもんな。お前が黒くなかったら、きっと俺だって通り過ぎたよ。なんだ、いつもの あれ じゃねえかって。……でも、そうしなくてよかった」
「なんで?」
「だって、お前可愛いもん。もう、手放せねぇよ。旨いもん食わせたら必死になって、でけえもん見せたら目を見開いて、綺麗なもん見せたら笑ったろ?そんなの、もう手放せねぇって」
「マスター」
どうしてか、胸の奥がギュウギュウと苦しくなった。そして同じぐらいに真っ白な空白が広がっていって、それがとんでもなく気持ち悪くて掻きむしりたいぐらいに、抑えこんでうずくまりたいぐらいに痛かった。不思議と、短くはない彼と過ごした時間がいくつも思い浮かんでは消えていった。
「だから、俺はあの時決めたんだぜ?こいつを守ろう、って。色んなもん見せてやって、笑って、過ごせるように、して……」
「マスター」
じわり、じわり。地面に赤が広がっていく。じわり、じわり。この人の命が消えていく。そう思ったら縋るような声だけが口から零れた。
「ヨル、俺のヨル。俺は、お前に幸せを教えてやれたか……?」
「……ぅぁ…………」
「お前の世界を、広げて、やれたか」
「いや、いや、いやだぁ……! 」
視界が、滲む。この人の、顔がよく見えない。きっと笑っているのに。いつもの様に笑っているのに。そしてそれはきっともう、見れなくなってしまうのに。ボロボロと溢れる雫が邪魔で、失われる熱が恋しくて、彼の肩に顔を埋めた。
「…………甘えため。」
「マスター、だめ。いなくなっちゃ、だめ。ヨルが悲しい。ヨルが痛い。だめ、だめだめだめ……!」
「ははっ」
浅い呼吸が耳元で聴こえる。喉元までヒュウヒュウと鳴り出した。わたしは知っている。これは死神の角笛だ。大きな手のひらが背中まで伸びた私の髪をそっと撫ぜた。
その動きが止まるほんのすこし前、彼は言った。
「生きろよ、ヨル」
その言葉がずっと、ずっとずっと私を生かしているのだ。