第3話 弟子
「あー、疲れた」
アルフは肩をまわしながら孤児院を出ていく。子供たちは相変わらず元気が良い。良すぎるほどだった。中年が相手をするには厳しい相手だ。
冒険者であるためまだまだ普通のおっさんよりは行けるが、どうにもこのところ体力に衰えが見えているような気がする。
「それにしても、あいつらなんか企んでるな」
アルフは子供たちの中で特に酷い悪戯三人組を思い浮かべながら呟く。いつも突っかかってくるはずの三人組が比較的おとなしく、どういうわけか三人集まって何かの打ち合わせらしきことをしていたのだ。
おそらくは大規模ないたずらだろう。時折、三人組はやらかすのだ。正確に言えば三人組のうちの二人なのだが、ともかくやらかす。
教会の屋根の上に登ったりだとか、馬車に忍び込んで街の外に出ようとするだとか、色々と悪戯を引き起こす。
子供は元気なのが一番ではあるが、それでも付き合わされる方は堪ったものではないだろう。おそらくは次も大変な目にあうだろうシスターに内心で合掌しつつ、ギルド会館に向かう。
ちょうど依頼で帰ってきた者らが受付で討伐した魔物の提出部位をギルドカウンターにいる幼い少女にしか見えない受付嬢に提出している。
そう言った奴らの表情は朗らかであるものの、そうでない者たちもいた。討伐依頼で仲間を失った奴ら、あるいは身体のどこかを失った奴らだ。ぼろぼろで戻ってきて涙を流している
痛ましい光景である。ああなってしまうと冒険者を続けるのは難しい。そうやってやめていくか、自分で辞めていくかしか冒険者をやめることはできない。
いつかは自分もああなるのだろうか、アルフはそう思う。ならないにこしたことはないもののそれでもどうなるかわからないのが冒険者だ。
また、リーゼンベルクの地下水道の更に奥に存在する迷宮から帰った者たちが奥の鑑定室に物品を持って行っていたりした。
その鑑定室からは何やら女の奇声が聞こえてくるがいつもの事なのでアルフは無視して比較的すいている雑用用のカウンタ―にいるエリナへと三枚の半券を持っていく。
「おーう、エリナ、終わったぜ?」
「それくらい当然でしょ。いちいち言わなくてもわかるわ。さっさと出しなさい」
「おう」
半券三枚を渡す。
「はい、確認できたわ。報酬は現金で良いわよね?」
「ああ」
カウンターからエリナは十枚の銅貨をアルフに手渡す。リーゼンベルク銅貨だ。この十枚で寝るだけの宿ならば大体五泊分。
三食付の宿ならばギリギリ四泊。三食風呂付の宿ならば二日と少しだけ泊まることが出来るくらいの価値だ。一枚では、そのどれも不可能だ。公衆浴場代くらいにしかならない。
「確かに」
「ああ、そうそう。忘れてたわ。あなた冒険者証は?」
「え、あ、え、えーっとだな、エリナさん、きょ、今日は忘れたみたいで」
明らかに挙動不審なアルフ。相変わらず嘘が付けない男だ。
エリナはそっと嘆息する。この男が誰かをさん付けなどするときは大抵自分が何かやらかした時だ。何かやらかして、それについて追及されると妙に丁寧な口調になる。丸わかりだ。
「……はい、これ忘れものよ」
だが、エリナにそれを追求する気などさらさらなく。カウンターから取り出した冒険者証を彼に差し出す。
冒険者の盾をかたどり、その前面に柄杓が描かれたもの。裏にはアルフの名と街級という冒険者ランク、生まれた月、性別や身長、体重等の情報が示されている
端の方に間違って酒をこぼした痕や噛み跡があるからアルフのもので間違いない。彼がお金を工面するために質屋に売ったものだ。
「あ、え、いや」
「こんな大事なもの質屋に忘れるなんて、相変わらずね」
いや、それは忘れたのではなく、売ったはずのものなのだが。なぜそれがここにあるのだろうか。まあ、考えられることなど一つだろう。
エリナがわざわざ買い直してきたということだ。つまりは、また借りである。それもとんでもなく大きな。
やばい、どうしよう、とか必死に考えているアルフに呆れつつエリナは、
「私、これでも暇じゃないのよ。早く受け取ってくれないかしら。それとも、このまま処分してもいいのかしら?」
嘘だ。暇で仕方ないと言ったのは彼女だ。だが、彼女はさっさと受け取りなさいと更に冒険者証を差し出す。
埒が明かないので、アルフはとりあえず差し出された冒険者証を受け取って首にかけた。それから何を言おうかと迷っていると、
「えっと……」
「今度は忘れないようにね。そうね、今度見つけたら……ふふ」
そう言われた。
なんだ、その笑いは、こええ、と内心で呟く。
「まあ、なんだ。ありがとう、助かった」
「ん、どういたしまして。もし、これについて何か思うことがあるのなら、そうね。昼食か夕食でも奢りなさい。それでチャラにしてあげる。良い、これ以上何か言ったら、知らないわよ」
全てを凍らせてしまいそうな威圧感がエリナから放たれている。了承しないと削がれるだろう。どこがとは言わないが。
その威圧感にアルフは否応なく頷かされた。
「わかった」
「そう、じゃあ、また明日」
「おう」
そう言ってアルフはギルド会館を出た。
「さて、まずは宿屋だな」
まずは住む場所とばかりに引き払った宿屋に向かう。食事つきの宿屋に六枚のリーゼンベルク銅貨を支払って二日ほど泊まれるようにしてもらう。
宿屋の主人には呆れられていたが、仕方ないだろうと返してまた宿屋を出る。向かうのは酒場だった。もう三日も飲んでいないのである。我慢の限界だった。
だから、北第二区にある酒場に向かっていると、
「あー! アルフせんせー!」
「どわあああ――!?」
後ろからドドドドド! という音が聞こえたと思うとその直後には背中に衝撃。凄まじいまでの衝撃に息が止まりかける。
半ば誰が抱き着いてきたのかわかっていたが、首をまわして後ろを見た。まず、目についたのはその背に背負われた巨大な斧だった。肉厚、幅広。
それはおおよそ人が使うものとは思えないようなものであり、斧という形の鉄塊と言われた方がしっくりくる。
そして、それを背負うのは小柄で未だ幼い少女だ。そのアンバランスさに危うさを普通の人は感じるだろうが、首にかかった冒険者証を見ればそれも当然のことだろうと納得できる。
「み、ミリアか。お前、いきなり後ろから抱き着くな! 息が止まるかと思ったわ!」
彼女の名前はミリア。わずか一年の間で冒険者ランクが上から二番目の州級冒険者であり、アルフが指導役、つまりは師匠となって育てた弟子の一人だ。
化け物じみた力を持っているくせにそれをまったく誇ることなく、すっかりと追い抜かしたアルフをいまでもせんせいやら、せんせーと呼んで慕ってくれている。
とりあえずいきなり後ろから抱きついてきたことに文句を言うも、ミリアはまったく聞いてなかった。アルフの背中に顔をうずめて深く深く息を吸っている。
「クンクン、ああ、アルフせんせいの匂い、アルフせんせーだー、むふふー」
何やらご満悦のご様子。それがなんとも幸せそうであるからアルフは彼女を振りほどくにほどけないし――もとより振りほどけないのだが――強く言う事も出来ない。
しばらくそのままにしていたら、ミリアの方から離れる。堪能しましたとほくほく顔。可愛らしいものであるが、何とも言えないアルフであった。
「こんばんはアルフせんせー!」
離れたミリアはびしぃとごあいさつ。兎の耳のようにも見えるリボンで二つに括った赤茶色の髪がぶんっと振るわれる。
「おう、お前も今日は終わりか?」
「うん! ぼく頑張ったんだよ! あのね、あのね!」
「わかったわかった、聞いてやるからまずは酒場にでも行こうぜ」
「はーい」
楽しそうにニコニコと笑ながらミリアはアルフの横をついて来る。ぶんぶんと振るわれる犬の尻尾をアルフは幻視した。
「邪魔するぞ」
「じゃまするぞー!」
良くアルフが利用するミジュネスの酒場に入る。扉をあげた時に響いた鈴の音に客が反応してアルフらの方を見えるがすぐに視線は霧散して喧噪が戻ってきた。
それと共にやってくるのは看板娘。ジョッキを複数抱えて給仕服をはためかせながら、
「らっしゃーい!」
と元気な声を上げる女性。ローナ・アーシェリカ。このリーゼンベルクにおいて彼女を知らぬ者はいないというほど有名な女性である。
ギルドのランクの昇格試験の司会を務めているのが彼女なのだ。昇格試験は一種の祭であるため、リーゼンベルクに住む者ならば貴族以外が皆見に来る。
そのため知らない者はいないほどには有名なのだ。
「あー、アルフさんじゃーん! いらっしゃーい、ごぶさただねー! ミリアちゃんもらっしゃーい!」
「ローナさん、こんにちはー! アルフせんせいと飲みに来たー!」
「おうおう、お熱いねええ! よっしゃああ、マスター! エールサービスじゃあー!」
「お前の給料から引くな」
「えーーえええ! そりゃないぜー、あたしの可愛さにめんじてさ?」
ね、お願い、とマスターに頼むも。
「駄目だ」
「ぶー、けっち。やめてやるー!」
「皿」
「マスターサイコー! てなかわけで、ごめんねっ!」
「ああ、良いって。適当に飲む。いつものくれ」
「はいはい、一番安いやつね」
「ぼくもー!」
ミリアもアルフと同じものが良いと言うが、
「お前は葡萄酒にしとけ」
アルフがそう言う。
「アルフせんせいが言うならそうするー!」
「はいはい、仲いいねえー、うらやましいねえー」
「それより早く持ってきてくれよ」
「はいはいっとー!」
ローナが即座に持ってきて、ごゆっくりーと別のテーブルへ。
「んじゃ、乾杯」
「かんぱーい!」
こつん、と木製のジョッキを当てて酒を飲む。
「くぅ、やっぱこれだよなあ」
ぬるいエール。やはりこれだ。命の潤滑剤。これがなければ始まらないともアルフは思っている。飲むパンとも呼ばれるエールをアルフはぐびぐびと飲む。
本当ならばそれほど飲めるはずがないというのに呷り、喉を鳴らす。
「もう一杯くれ!」
「お金大丈夫ー?」
「大丈夫だって」
早々大丈夫ではないのだが、それでも酒には変えられない。明日の生活より今の酒の方が大事。届けられた酒をぐびぐびと飲んでいく。
対照的にミリアはちびちびと飲んでいる。それほど酒に慣れていない飲み方だ。それでもおいしそうに飲んでいるのはアルフがいるからだろうか。
ついでに頼んだ食事を食べつつ二人で飲んでいると、
「おいおい、席がねえってどういうことだよ!」
そんな怒声が入口の方から聞こえてくる。見れば、数人の冒険者たちがローナに絡んでいた。
「だっからー、相席ならあるよっていってるでしょ」
「俺らがなんで低レベルな奴らと相席なんてしなきゃならねんだよ」
どうやらお困りな連中のようである。冒険者証を見れんば剣に斧の凶悪そうな魔物の討伐を掲げる戦闘狂集団アイゼンヴィクトールのそれだ。冒険者ランクは上から三番目の地方級。アルフの一個上。
ぐるりと見渡してみればこの酒場にいる冒険者のランクは大体が街級か村級と言ったところ。確かに中堅の下位と初級だ。地方級からしたら低レベルと言われてもおかしくない。
現実で村と街の規模がそれほど隔絶していることから冒険者でもそこには大きな隔たりがある。そして、それは街と地方にも言えるのだ。
だからこそ、ここで彼らに敵う者はいない。地方級の一個上のランクである州級のミリアを除いて。ただ見た目が少女でしかないので、あの手の手合いに通用するとは思えないので前には出さないが。
などとアルフが思っていると騒いでいる男がミリアを見る。
「おいおい、なんでこんなところにガキがいるんだ? おい、ガキ、俺らがそこすわりてえんだそこの弱そうな冴えないオッサンとどっか余所いきな」
「そうそう、てかおっさんも冒険者かよ」
「しかも街級。ケケッ、さっさとやめりゃいいのにばっかじゃねえの?」
『きゃはははは』
「あ……」
そう言ったのは誰だろうか。ともかくまずい、というような声は騒いでいる男たちには聞こえていなかったがアルフに馴染のある酒場の連中とローナがヤベエ、という表情で後ずさって行く。
アルフもまたやべえと思いながら即座に撤退。そんな店内の様子に男たちはなんだ、なんだと思っていると、
「…………たな」
「あ? なんだって?」
ミリアが何か言っていることに気が付いた。しかし、聞こえない。
「おら、言いたいことがあるなら――」
男が近づいて聞こうとした瞬間、
「アルフせんせいを馬鹿にしたなー!!!」
ばがんっ! という凄まじい音が響き渡り、扉の両脇にいた冒険者が即座に開けた扉を何かが超速で飛び出していく。そして、城門に叩き付けられて前衛的なオブジェと化す。
それは先ほどの男であった。拳を振り切った姿のミリア。店員と馴染の客たちはあーあー、と言った表情。
「え、な、え?」
「お、おい、こいつ州級だぞ!?」
「う、ウソだろ、こんなガキが!?」
「お前たちアルフせんせーを馬鹿にした。許さない」
ゴゴゴゴゴ、という音が聞こえそうな程の怒気を放つミリア。即座に金をマスターに投げつけて逃げていく冒険者たち。皿などの割れ物を回収していく給仕たち。
喧嘩なんてものが日常茶飯事な冒険者の酒場である。皆、慣れたもの。安全圏に逃げた奴らは騒ぎを聞きつけて来たものたちと賭け事すら始める始末だ。
「び、ビビるこたあねえよ。どうせガキ。数で押せば」
「で、でも――」
迷っている間にまた一人酒場から消える。かなり距離があるはずの門まで吹き飛ばされてオブジェになる。
そうなって初めてやばい相手に喧嘩を吹っ掛けてしまったと気が付いた。しかし、もう遅い。既にミリアは動いている。
アルフですら怒ったミリアは止められないのだからどうしようもない。せめて一瞬でやられるだけが救いだろう。
などと思っているとそこに救いの神が舞い降りた。拳が放たれそれにまた誰かがやられようとしている時、
「んぎもぢいいいいぃいいいいぃぃぃぃぃ!!」
その拳を自らの頬で受けてぶっどばされて、身もだえして何やら気持ちよくなっている少年が現れたのだ。あまりに突然の登場に誰もが唖然としている。
あまりの事態にミリアも止まって目をパチクリ、きょとん。
「あれ、ランドルフー?」
「おー、なんかいい殴られ音がしてたから俺も殴られようと思って出てきたら、なんだか殴られたことがあるような感触で誰かと思ったらミリアちゃんじゃん。どうしたよー」
全力で殴ったのにあまりぶっ飛ばなかったその相手は見覚えのある相手だった。そして、ここにいる誰も彼もが知っている男だ。
「ら、ランドルフって、あ、あの!」
「け、剣聖じゃ、ねえか、な、なんでこんなところに!」
殴られながら無傷で朗らかにミリアと会話している少年。彼こそがここリーゼンベルクに現在九人しかいない最高位の王国級に分類される冒険者だった。
「で、でもが、ガキだぜ」
「噂では今年で26って話だ。どうみてもガキじゃねえか」
「い、いいや、でも特徴はあってるし、あのガキもランドルフっていったぞ」
束ねて三つ編みにされた青い血脈、つまりは貴族の血を引く者特有の金髪に翡翠の瞳。冒険者でこんな特徴を持つ者なんて数えるくらいしかいない。
美しい金髪と青と緑どちらかの色を持つ者など貴族とそれに連なるものだけだ。平民にそんな綺麗な色をした者はいない。
「そうそう俺がランドルフだぜ?」
本人が認めてしまえばもう男たちも認めなければならない。目だけで会話して、
「す、すみませんでしたああああああああああああああああ!!!」
脱兎のごとく逃げ出した。それはもう速い。一瞬で見えなくなったほどだ。そして、彼らが去ったあと、店を出ていた連中が何事もなかったかのように店に戻りまた飲み始めた。
楽しげな空気が戻る。賭けに勝った奴はほくほく顔だ。男たちが逃げるか全員倒されるかという賭け。多くの者は倒されるに賭けていた。
アルフなんかは途中からランドルフが来る気配がわかったので途中で逃げるに賭けて見事的中ほくほく顔だ。
「いやあ、ランドルフ助かったぜ! 稼げた稼げた」
「なら、褒めろぉう―!」
なぜか、頭を差し出すランドルフ。いくら少年な見た目だからって、中身は26の大人だ。それもアルフの最初の弟子。
今ではこのリーゼンベルク王国に九人しかいない王国級の冒険者。剣聖と呼ばれるほどの剣の腕前を持つ最強の剣士だ。
それが頭を差し出してくる。
「なんの真似だよ」
「いや、大人なのに大人に撫でられるという屈辱を味わおうかと」
「お前……」
「大丈夫だ、師匠! 見た目子供だから!」
「……お前、まだそんなこといってんのかよ。なぐんぞ」
「それもぜひ!」
ダメだこりゃ。
「お前なあ、その無駄に傷受けたりしようとすんのやめろよ」
「だが、断る! いくら師匠でも俺から快楽を奪わせはしない!」
「そんなんだから結婚できねえんだろ」
「なかなかいないんだよなー俺を痛めつけたりぃ、罵ってくれたりぃする年上のお姉さんって」
そうこいつ真正の変態なのである。傷つくことに快感を感じるのだ。これが王国に九人しかいない最高峰の冒険者の一人で、アルフの弟子なのだから頭を抱えたくなりそうになる。
そんな彼を適当にあしらってミリアの方を見ると、
「ぶー」
彼女は頬を目一杯膨らませていた。一時は、ランドルフの登場で吹っ飛んだ怒りであるが、それが戻ってきたらしい。
う~とお怒りである。まあ、ここまでくればアルフでもなんとかできるレベルまで鎮圧しているのですぐに機嫌を戻せるだろう。
「ミリアもまあ、なんだ。俺の為に怒ってくれたんだろ。サンキューな」
「御礼なんていいよー! アルフせんせーのためだもん!」
「そうそう、俺も自分が殴られるためだもん!」
「お前はのらんでいい!」
そんな風に楽しげに酒場での一時が過ぎていくのであった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
そんなこんなで翌日。
冒険者の朝は早い。修道士や修道女たち、教会関係者が起きる時間。寸分の狂いもなく鳴る朝課――午前四時の鐘と共に冒険者たちも目を覚まし活動を始める。
アルフもその例に漏れず、この二十年ですっかりと身に沁み込んだ習慣にしたがって、朝課の鐘と共に宿屋のベッドで目を覚ました。
窓の鎧戸の隙間や、壁の隙間から入ってくる僅かな灯り、鳴いている鳥の声がいつも通りの時間に起きれたことをアルフ告げる。
引き払った部屋を再び借りて眠った寝心地が良いとは言えない固い寝台。それほど久しぶりというわけではないはずであったが、昨夜の濃い内容の経験のおかげで久しぶりという気がしてとても気分が良かった。
久しぶりによく眠れた。そう思える目覚めであった。首を鳴らしつつ立ち上がったアルフは少しばかり伸びをして身体のこりをほぐす。
「ふう」
身体のこりをほぐして眠気をある程度覚ましてから、手ぬぐいを肩にかけひげそり用のナイフを持って、剣を腰にそれから部屋に立てかけておいた弓と矢を持って部屋を出る。
すれ違うのはアルフと同じ冒険者。普通ならば修道士や特別な仕事をしている者以外はいまだ眠りの中にいるような時間であるが、皆一様に武器を持って中庭へと向かっていた。
挨拶もそこそこに中庭に出たアルフは、まず井戸の傍にある盆にリーゼンベルク銅貨を投げ入れ、桶を手に取って水を汲む。髪を濡らさないように努めて注意しながら顔を洗い、乱れている上に顔を洗うためにあげていた髪を整える。
浄化の魔法具を使えばそんなことをしなくても良いのだが、そもそもアルフはそんな高価なものを持っていないので使えるはずもない。それはこの宿屋に泊っている冒険者たちも同じだ。
手ぬぐいでぬれた顔を拭いて、それを桶にひっかけてから、アルフは剣を構え素振りを始めた。
これが冒険者の朝が早い理由。
冒険者の仕事は一時課――午前六時――の鐘が鳴ることから始まる。仕事中は訓練なんてできるはずもない。そのため、この時間に訓練や型の確認を行い、朝食を食べてミサで祈りをささげてから仕事に向かうのだ。
軽く素振りをしてから、剣を収める。手に取るのは弓だ。一度、弦を引いて感触を確かめてから、弓を寝かせ矢をつがえる。
短く息を吐き、中庭の端にある的へと矢を放った。真っ直ぐ飛んだ矢は見事、真ん中へと命中する。それを数度繰り返し、矢を丁寧に引き抜ぬいて使えるものを回収。こういう的があるのもこの宿が元冒険者が経営しているからだ。
朝の一連の作業を終えたアルフは再び井戸で水を被るようにして顔を洗い、宿の中へと戻り、ミサに出かける支度を行う。
「さて、行くかね」
讃課――午前五時――の鐘が鳴れば教会のミサに出席しなければならない。アルフを始めとして、冒険者たちはそれほど敬虔な信徒というわけではないが、神への祈りは義務である為毎日欠かさず祈りをささげる。
少しでも神の加護でも得られるようにという多少の打算はあれど、少なくとも祈りをささげていると見守られているような気分にはなる。
アルフも他の宿の客と同じように北第二区に存在する教会の一つへとやってきていた。シスターや神父は皆一様に武装しており、聖職者というよりは武人を思わせる。
この教会は武神オーニソガアラム系列の教会だからだ。武神の名らしく、信者は皆、武術など戦う術を持っている。
おもに冒険者がよく信仰する神と言える。アルフはその中でも武神オーニソガラムと狩猟と弓の神バンクシアの二柱を信仰していた。
冒険者はたいてい武神オーニソガラムや狩猟と弓の神バンクシアのどちらかか、あるいは二柱両方を信仰していることが殆どだ。軍神もいるにはいるが、あれはどちらかというと兵士向きである。例外としては、魔法の神ルナリアを奉じている魔法使いくらいだろう。
さすがにルナリアとオーニソガラムの二柱を信仰するのはまずいが、バンクシアならば問題はない。この二柱系列の教会は割合近しい間柄であり、神同士も悪くない関係であるため、どちらかの教会であっても両方の神に祈りをささげることが出来るのだ。
「アールフせんせー!」
と、教会でミリアに出会う。ぶんぶんと腕を振って存在を主張する。そして、走ってアルフの前までやってくる。やっぱり犬だった。
「おう、おはよう」
「おはようございます!」
「おいおい、髪はねてんじゃねえか。みっともねえぞ」
自分も大概ボサボサだろうに、アルフはそんなことを言ってミリアの髪のはねているのをなおす。自分は良いが、他人は駄目のスタンスなのだ。
「えへへ、ありがとうアルフせんせー!」
「んじゃ行くか」
「うん!」
ミサに参加するため聖堂に入ると左右に、大きな盾の中に聖水が入っている。この聖水を指につけ、額、胸、左肩、右肩の順に軽くふれることで、洗礼を思い起こす。
ミサは司祭の入堂とともに、聖歌で始まりを告げる。この時全員が起立する。
聖歌といっても、武神オーニソガラムの聖歌は戦いの詩だ。燃えるように激しく、荘厳な戦と戦いを思わせる。
そんな聖歌が終われば、司祭様による有り難い説法が説かれるのだ。無論、仰々しいものではなく、武人としての心構え的な話である。
そもそも冒険者に小難しい話をしても意味はないし、戦うがなくならない限り、信者はいなくなることはないことを考えれば偉い説法などあってないようなものなのだ。
ミサを終えたアルフはミリアと別れて宿屋に戻り、食堂に入る。この十数年ですっかり定位置になった隅の席に座れば、すぐに水と一番安い固いパンと野菜のスープを宿屋の主人の娘兼看板娘であるシリンダが持って来た。
「おはよーアルフさん。いつものねー」
「おはようシリンダ。代金な」
「まいどー、じゃあ、さっさ食って仕事いった行った。早くランクあげてよね」
彼女がここで働き始めてから何度も言われ続けている台詞になあなあで返しながら、さっさと食事を済ませて部屋に戻り、身支度をして鍵を預けて宿屋を出る。
とりあえず護身用として剣を一本を腰に差したいつも通りのスタイルでギルドへ向かうのであった。