第一章 エピローグ
――深夜。
「…………」
ふと、目を覚ましたアルフ。レクスントで借りた大部屋を見渡す。右隣にはゼグルドのベッドがあり、その向こうにはスターゼルが寝言で文句を言いながら寝ている。
壁際のベッドではエーファが丸まって眠っている。ミリアはなぜか床にいた。相変わらず寝相が悪い。
苦笑しながらアルフは垂れてきた汗をぬぐう。十のベッドがあるこの部屋は満員だ。男ばかりのむさ苦しい空間は室温を否応なくあげてくれる。
大いびきをかくものもいれば、静かに眠っている者もいる。皆武器を手に持ったままだ。
静かに眠れる光景ではないがそれは見慣れた光景のはずだった。慣れたもののはずだった。寝つけないわけがない。だが、どうにも寝つけなかった。
原因はわかっている。馬車移動の野宿の時はあまり考えないようにしたが余裕が出たからには考えずにはいられなかったのだ。
あのゴブリンについてだ。何かが起きている、アルフの勘がそう告げているのだ。
「はあ、そういう性分じゃねえって思ってたんだがなあ」
今の時間、深夜を回り、明け方がゆっくりと近づいてくる時間。物音はしない。灯りも何もない。今の時間では娼館に行くこともできないだろう。
アルフは後頭部をかくと、誰も起こさないように大部屋から出る。軋むドアをしめて廊下に出た。
アルフは廊下に備え付けられた窓から外に出る。下ではなく上へ。宿屋の屋上に登る。
そうすると満天の星空と欠けた月がアルフを迎えてくれた。夜風に凍えるような冷たさはなく、されどぬるくもない涼しい風がアルフの身体を冷やしていく。
そうやっていると、
「アルフせんせー!」
ミリアが飛び上って来た。それに驚いたが、いつも通りだと思い直す。
隣に座った彼女にアルフは起こしたのかと聞いた。返ってくるだろう答えを予想しながら。
「起こしたか?」
「ううん? アルフせんせいが出て行った気がしたから追ってきたのー」
「そうか」
「アルフせんせいはなにしてるの?」
「少し、考えごとをな。どうにも寝付けなくてな」
そう言う。
「考えごとー?」
「ああ、ゴブリンが集落をつくっていたこととか、な」
「ゴブリンの集落! なにそれ!」
ゴブリンの集落と聞いたミリアはキラキラと瞳を輝かせる。
「聞きたいのか?」
「うん! ききたい!」
「そうだな」
苦笑しながらアルフはミリアにゴブリンが集落をつくっていたことを話した。
「へー、ふしぎだねー」
「そうだな……」
だからこそ、アルフは寝付けないのだ。どうにも嫌な予感がして仕方がない。そう母親を亡くしたあの日と同じように。大戦が起きたあの時と同じように。
何かが起きる。それも悪いことが。それが身近なことなのかはわからない。気にしても仕方がないのかもしれない。
だが、気にせずにはいられない。誰かが死ぬかもしれないのだ。身近な誰かが。
何より、そんな時に自分に何ができるのかわからない。何もできないかもしれない。昔のように。
そんな不安をアルフは感じていた。
そんなアルフに彼女は、
「んー? アルフせんせー、何か心配ある? 悩み、とかある? いつもと違うよ?」
そう聞いてきた。
アルフは一瞬驚いた顔をする。まさか、見抜かれるとは思ってもいなかった。いや、在る意味で予想通りなのかもしれない。
「どうしてそう思うんだ?」
「んっとね。なんとなく。いつもアルフせんせーといたから、わかったの」
「そうか」
このなんとなく。つまりは勘だ。ミリアの勘はよく当たる。特に人の内面に関して彼女はその機微を察することにおいては間違いがない。
話してしまおうか。だが、自分よりも二回りは年下の少女に話すのはどうにも忍びない。
そもそも、おっさんが年端もいかない女の子に相談とかどうなんだよ、とかそんなことを考えていると、
「ぼく、聞かない方が良い?」
ミリアが少しだけいつもとは違う調子の弱い声でそう言った。
「……聞きたいのか?」
「うん、ぼくアルフせんせいの力になりたい! だから、聞きたい! ぼくちゃんと聞くよ! アルフせんせいの言葉なら全部覚えてるから、困っている人助けたい、でもアルフせんせーをいちばん助けたいの!
アルフせんせーはぼくを助けてくれたから。アルフせんせーはぼくに生きる術を教えてくれたから。
だから、ぼくも助ける。何があってもどんなになっても! ぼくが死んでアルフせんせいが助かるなら、ぼく死んでもいいから!」
それは純粋な言葉だった。どこまでも真っ直ぐで、どこまでも純真な。何よりも強い覚悟がそこにはあった。
そうだよな、とアルフは内心でごちる。ミリアはこういう奴だ。
そして、こうなったミリアは何をやってもひかない。
「そうか……そうだよなあ、はは……」
「アルフせんせい?」
アルフは苦笑しながらがしがしと頭をかいてからあーよいしょと屋上に寝転がる。少しきょとんとしたミリアも真似してアルフの隣に寝転がった。
アルフは夜空へと手を伸ばす。星はどうやってもつかめない。しばらく、そうしていてアルフはミリアに向かって口を開いた。
「まあ、ちょっとしたことなんだがな、さっきゴブリンの集落について話したろ」
「うん」
アルフは話す。
立場が逆ならきっと自分もミリアのように力になりたいと思うから。何よりも必要ないと言われる辛さを、力の足りない自分は知っている。
だから話すことにしたのだ。
「――なんだかな、気になるんだよ」
「気になる?」
「そうだ。まるで大戦のときみたいな」
十五年前の大戦の前のような、と彼は言う。
ミリアには良くわからない。その時にはまだ生まれてすらいなかったのかもしれないし、生まれていたとしてもまだ赤ん坊だったはずだ。わからなくて当然だろう。
「なんというか、何かが起きる。何か悪いことが起きるかもしれない。そんな気がしてならないんだ」
もしくは、既に起きているのかもしれない。
ゴブリンの集落がその証拠かもしれない。このところ魔物が狂暴化しているというが、それも関係があるのかもしれない。
もしかしたらレオたちの話に出て来ていた黒ローブの男も関係しているかもしれない。
どんなにピースを集めても、何が起きているのかアルフにはわからない。
「もし何か起きた時、俺に何ができるんだろうな」
中堅冒険者でしかない、才能のない自分に何ができるというのだろう。
何かが起きて、身近な誰かが危なくなったときにアルフには何ができるのか。何もできないかもしれない。
アルフはただの中堅冒険者だ。あの時と何も変わらない。力のないただの中年の男に過ぎないのだ。
それが悔しくて、それゆえに不安で不安で仕方がない。
「んー、大丈夫だよ、アルフせんせー。ぼく、難しいことはわかんないけど、アルフせんせい、いつも言ってるよ。
出来ることをすればいいって。何があってもできることをすれば、きっと道は開けるって!」
「…………あー、ははっ、情けねえ、何やってんだ俺は」
二回りは年下の少女に慰められるとか、教えられるとか。本当に情けない。
出来ることをする。アルフがいつも言っていることだ。どうやら少し考えすぎだったようだ。
孤児院の子供を助けるために名付きと剣一本で戦ったり。変わり者ではあるが最強種である物語の中の人物のごとき竜人と新人指導の旅をすることになったり。ゴブリンの集落を見つけたり。喋るゴブリンと死闘を演じたり。
いつものことながら一介の中堅冒険者にしては少々頑張りすぎだ。普段ならば気にしないんだろうがアルフももう三十も後半。人生の半分を通り過ぎている。
きっと、そのせいで色々と考えてしまったのだ。更に言うとどうにも最近になって色々と限界を感じていた。
そのせいもあって、精神的にも疲れていたのだろう。色々と考えてしまったのはそのせいだ。
「はあ、そうだよな。できることをすればいいんだよな」
何かあってもできることをする。情けないことだがミリアのおかげで、どこか心の暗雲が晴れたようだった。
「うん、そうだよーアルフせんせー! アルフせんせーができないなら、ぼくがやるよ! ベルも、ジュリアスも! ランドルフも! みんなも! みんなアルフせんせーの為ならなんでもするよ!」
そんな彼女はいつものようにいまだ成長していない胸をとん、とたたいて誇らしげにいうのだ。
「だからって俺なんかの為にあんまり無茶すんなよ。いつも言っているだろ。お前はお前の為に生きていいんだ」
「してるよー、アルフせんせーの為に生きるのが、ぼくが生きてるってことだからー。ちゃんと、幸せでしたって言うためにね」
「やれやれ、……そろそろ戻るか」
「うん」
「っと、ほれ」
起き上がってアルフはミリアの手を取って二人で大部屋に戻る。出てきた時と変わらないままの大部屋。
寝台に戻ったアルフとミリアは再び眠りの中へと向かうのであった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――同時期。
リーゼンベルクを南に一時間ほど行くと、リーゼンベルク港にたどり着く。
そこは、外国との窓口。魔法建築によって巨大な湾が造られており、有事の際は湾を封鎖することも可能な軍港でもある。
港の名の通り、そこは外国との橋渡しの場だ。外国船から、国内船、軍船だとか様々な船が絶えず行きかう忙しい街である。
外国との窓口だけあって、様々なものがここにはあるし、外国の人との交流もできる。外国人は港から出ることはできない為、港市場を除けば、ここにあるのはここに住んでいる者たちの為の少しの食料品店と宿屋ばかりである。
その港市場は、どこか戦場のようであった。外国の品々は、各地で高く売れるし、情報という各地の情報を仕入れることもできるとあって、商人たちは、真剣を通り越してマジになるのだ。
主婦たちもそれは同じこと。宿屋を切り盛りする主人もそうで、魚料理の為の新鮮な魚を巡って目を血走らせ、獲物を狩る勢いで怒声が響き渡っている。
血沸き肉躍る、市場。競りが行われ、白い貨幣が山のように流れていくのはここでは当たり前の光景だ。きらびやかな白い貨幣の山が消えては積みあがって行く。
袋に詰められた大量の小麦。淡い橙色をした三角で細長い人参、ごろごろしたいも、つーんと涙を誘うギョクスなどの野菜。
でんと置かれたフービやクーポ、ダクラなどの肉。果実酒や麦酒、火酒、冷酒などの酒。人を惹きつける輝きを放つ指輪やネックレスなどのアクセサリー。檻に入れられ鎖で繋がれた人や、珍しい動物。
それら売られているものが全てが珍しく、凄まじいまでに白い貨幣が行き交う。
そんな港の一角に榛という見たこともない文字のような何かが描かれた旗を掲げる巨大な船が停泊してあった。
そこに運ばれているのは人だった。奴隷。今朝がた莫大な資金をもって買われた奴隷たちだ。船に乗っているのは、珍しい黒髪黒目の人たち。つまり東方の人。
奴隷を積み終えると船は港を出ていく。誰も気にも留めていない。
そんな沖合へと出た船上には、仮面の男が船尾にて船着き場へと視線を向けていた。それは異国の男だった。偉丈夫というべき覇気を放つ男。
リーゼンベルクでは見ないどこか古ぼけた白い珍しい鎧――甲冑――を身に纏い、その背には鞘に収まった細くあまりの細さに強さよりも脆さや繊細さを感じる片刃らしき剣――刀――がある。
さながら、男は抜き身の刀のようであった。清廉さすら感じる闘気が常に流れ出し、見る者全てを畏怖させる。ありとあらゆる全てを切り裂きそうな男であった。
「…………」
その男は黙ったまま船着き場へと視線を向けていた。
「“仮面”、どう、か、した?」
船着き場へ視線を向けたまま固まってしまったかのような男に、舌足らずな、途切れ途切れの幼い声が掛けられる。
その時初めて、仮面と呼ばれた男は船着き場から視線を戻し、振り返った。
そこにいたのは感情を感じない少女だった。これまた異国の女だ。
ただし、普通の女ではない。光りを呑み込む黒髪は東方の人間の証ではあれど、その額にある一対の角と、右腕と両足、いや、首から上、“顔”以外を半ばまで呑み込み同化した漆黒の刃が少女を常人ではないと教えてくれる。
「…………」
「りゅ、う、ころ、し?」
仮面は聞こえるか聞こえないかくらいの声で話す。いや、この仮面からは何も音など出てはいない。だが、間違いなく言葉を発していた。
仮面のおかげで普通ならば誰一人として聞き取れないような言葉ではあったが、少女には問題なく聞き取れる言葉。
彼の足りないものを補うのが少女。それこそが少女の存在理由。
少女は仮面の言葉を聞く。船着き場にいた何者かの気配を感じたのだと仮面は言った。
「…………」
「て、き?」
少女の言葉に仮面は首を振る。ただし、今のところはという言葉を付け加えて。
「将軍! 女は船室から出さないでくださいと言ったはずです」
そこに、船長の怒声が飛ぶ。
「…………」
「す、ま、ない」
「船に女は乗せちゃいけねえんです。海の神の怒りを買っちまう。けど、国から言われたあんたの付き人だから乗せてやってるんだ。最低限、いう事を聞いてもらわなくちゃ困る」
「…………」
「お、んな、ち、がう。ど、うぐ」
少女は仮面の言葉を他者に伝える役割を持っている道具である。それ以上でも以下でもない。だからこそ、女として扱わなくても良い。道具であるとしておけば神の怒りは買わないだろうと。
それは間違いではない。奴隷の中には女もいるが、奴隷は物なのだ。物を船に載せたからと言って怒る者などいはしない。
だからこの女もそうである。そう扱えば良いのだと、仮面と少女は言う。それについては船長も大いに賛同している。
そもそもこの異形の女自体、女と思える見てくれではないのだ。見た目は確かに幼い少女に見えるが、両足と右腕を半ばまで覆った刃と対の角がその少女にはある。そんな異形を少女と扱えと? 冗談も休み休み言え。
ゆえに、道具、物として扱う事に関しては船長も船員も納得しているし、積極的にそうしてもらいたい。
だが、
「そうは言うが、それならそういう風にしていてくれ。自由に動き回る道具なんざ、道具じゃねえ」
自由に動き回るものなど道具ではない。自由に動き回る異形。それは化け物だ。
そんなものが船内をうろついている? 冗談じゃない。
だからこそ、ここではっきりと言っておかねばならなかった。行きは静かだったのが、ここに来てこれだ。別の国だからということだろうが、それでも手綱はしっかりと握っておいてもらいたい。
「…………」
「わか、った」
少女はそう言うと、滑るように移動して仮面の背後へと回る。その影の中に入るように。
「大人しくしてればそれでいい。将軍にはここまでの航海で世話になってる。不義理はしたくはねえ」
最悪の場合。少女を海に捨てねばならない。義理がある以上、そんなことはしたくはないが、それもやむなしの場合がある。
海神を怒らせれば最後、海の藻屑に消えるのみだ。
「…………」
「わか、って、いる」
「なら良い。帰りもまた頼む。榛帝国に栄光あれ」
「…………」
「えい、こうあれ」
そう言って船長は舵輪へと戻って行った。その時だ、空気が変わる。
「…………」
「く、る」
少女が、唐突にそう言った瞬間、仮面は体勢を低く駆け出した。一陣の風となり舳先まで来た仮面の前には海洋類と呼ばれる魔物の一種が大口をあけている。
船すら呑み込むほどの巨大な魔物。普通ならば慌てなければおかしいところではあるが、船乗りたちに焦りはない。
悲鳴が上がっているのは、魔物に気が付いた奴隷たちだけであった。それ以外はいつも通りの調子で仕事だけしている。
いや、むしろ、夕食に一品増えるだとか、そんな気楽な会話まで聞こえていた。
「…………」
それも当然だと、船長は船の舳先に立つ男を見やりながら船長は思う。スラリと、仮面が刀を抜いて、振り下ろす。
それだけで全てが終わるのだ。キィィィン、という金属音の後に、音すら斬れたのかと思うほどの静寂が辺りを支配する。船は変わらず、魔物へと突っ込んでいく。
魔物ですら、何をされたのか気づかず、再び大口を開けたところで、その視界が離れていく。それを最後に、魔物の意識の全ては漆黒へと染まった。
斬られたことに気が付くことすらなかっただろう。真っ二つになった魔物の間を船は通り過ぎていく。真っ二つになった魔物すら回収する余裕があるほど。
これほどの力を持つ仮面がいるからこそ、誰もが安心していたのだ。冒険者ランクに言いかえれば王国級、総軍団級、教皇級などと呼ばれる最高位冒険者程度の実力。安心しなければ嘘だ。
刀を鞘に収めた仮面は船室へと戻る。これ以上はもう何も起こらない、そう言うように。そんな彼に張り付くように少女が滑るようについて行った。
船は行く。遥か東方の地へと。榛の帝国へと。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
リーゼンベルク王国より北。北方山脈を背にし厳しい寒さによって年中を雪に覆われたミシュリント聖王国。教会の法皇が住まう小さいながらも大きな国がそこには存在している。
その中心たる聖王都であるところのミシュリントは、小国であるところの国土の広さとは裏腹に神々の威光を示しているかのようにあるいはその繁栄をあらわすかのように広大だった。
端から端まで歩くのに三日はかかるほど。そんな街は城と見まがうほどに巨大な大聖堂を中心としてミシュリントを巨大な天幕が覆い、厳しい寒さと雪を緩和している。天幕の下は雪国とは思えないほど。
道は蒼い。淡蒼石と呼ばれる淡い青色をした石畳には魔力が通り淡く発光している。白亜の石造りの街では常に美しい。
道行く人々は黒の修道服や僧服を身にまとう者ばかり。白い街であるから黒はとても良く目立つし映える。
彼らは聖職者だった。通りを見渡せばどこにでもいる。勿論商人もいれば、騎士もいるし、冒険者もいる。だが、圧倒的に聖職者が多い。
ここまで多いのはさすがはラウレンティア神族の総本山たる聖王都だと感心する。
他の都市と比べて静かであり、どこからか流れてくる教会音楽が街を静かに満たしていた。他の街とは違う。そう来たものは述べるだろう。
そんな街の中心である大聖堂が鎮座している。
それは荘厳の一言に尽きた。見る者全てを圧倒する。神の領域に踏み込んでいるかのような聖堂に入れば悪人であろうと知らず知らずのうちに頭を垂れるかのような威圧感が存在した。
その大聖堂には塔がある。十三本の塔の一本。うち十二本にはただそれぞれの神への証が存在している。だが、その一本だけには部屋が存在する。
邪悪のひとかけらもない清廉な部屋。いや、清廉過ぎるとすら思えるほどの部屋だ。聖堂の直上。十二本の塔に囲まれるように建ったこの一本はどこよりも清浄だった。怖気すら感じるほどに。
そこから街を見下ろす女が一人。いや、今だ幼さの残る顔立ちからして少女だろうか。白き雪と同じ色をしたシルバーブロンドの髪、神の威光を宿す黄金瞳に白磁のような肌はまさに人形のよう。
着ている服も白。まさに純白。穢れ知らぬ乙女。そう形容するのが正しい少女は、どこか豪奢ながらも装飾の一切ないローブに身を包んでいる。
ただそのローブは背中が大きく開いていた。そこから覗くのは黄金の聖痕。少女の背中を覆いつくした神々の威光。
そんな少女はその人形のように美しい顔に愁いを張り付けていた。愁うのは自身の境遇か。はたまたこれから先の事か。
「どうかなさいましたか」
そんな少女に問う声。静かな女の声。声のした方を見れば修道侍女服に身を包んだ女が一人。教会侍女と呼ばれる高位の聖職者の召使である。
特別優秀な者以外になることはできず、教会においても枢機卿や法皇などの特別な者だけが召し抱えることのできる貴族で言うところの一種のステータスであった。
そんな彼女は愁いを帯びた少女に問う。
「いいえ、なにも。なにも」
少女の答えは決まっている。何もない。あってはならない。真っ直ぐに前を見据えていなければならない存在であるから。
「ご用があればお申し付けを」
「ご用はございません。御引き取りを」
「いいえ。御傍に」
「そうですか。一人にしていただけますか?」
「いいえ、御傍に」
「そうですか」
いつもと同じやりとりを交わして、再び眼下へと視線を向ける。窓から見下ろすのは街。白い街。黒い点が動き回っている。
あれら全てがこのラウレンティア教の信徒たち。巡礼者でもあろう。ここに住む司祭や司教たちであろう。
しかし、憂うのはそれではない。ただこれからの行く末を案じている。そして、それゆえに飲みこまれるであろう全てに憂慮している。
ああ、何とも、なんという無常なのかと。
「もうすぐ、なのですね」
もうすぐ、もうすぐ時が来る。その時に選ばれるのは誰なのだろう。選ばれなかった者はどうなるのだろう。
神々すらその対象であると理解しているだろうか。それはわからない。神々すら万能ではないのだから。
「ああ、どうか、どうか」
ゆえに、少女は祈るのだ。
顔も名も知らぬ誰かに。ただ一つ、見知った称号に祈るのだ。
どうか、どうか、どうか、と。
「聖女様」
「はい、いいえ。なんでしょう」
「どうか、御傍に」
「ええ、ええ。どうか、御傍に」
主従はただ、そうただ今は、今だけはと願っては止まない。来るべき時に、来るべき戦いに。時の繰り返しの前に、世界の繰り返しの前に、ただ貴女が潰れてしまわないで欲しいと。
ただただ、願って――。
「聖女様、準備が整いました」
だが、その願いは聞き届けられない。
「はい、参りましょう」
入ってきた騎士に連れられて少女は塔を降りる。大聖堂の前にはいくつもの磔があった。そこには人、人、人。
両手首と足首を釘でうちつけられた黒衣の僧たち。だが、今や、彼ら信徒にして信徒に非ず。黒のローブに身を包み、浅黒い顔を隠しその身に黒き紋様を走らせたその様は悪魔のよう。
異端者たち。ラウレンティア教という神々敷いた宗教を破壊する者たち。異教徒とは違う。
元からラウレンティア神教と呼ばれるこの世界の宗教が半ば異教とも呼べる宗教が寄り集まってできたものであるという教会史があることからもラウレンティア教は異教徒には寛容だ。
だが、異端は違う。彼らは人であって人に非ず。人であって悪魔であるのだ。悪魔。今はなき魔族の幻影。
これから行われるのは異端の浄化であり、処刑だった。
広間に集まっていた人々が騎士と共に姿を現した少女――聖女に冒険者や商人たち世俗の者はその美しさに色めき、神父やシスター、司教や司祭たちはその神々しいまでの清廉な気に対して手足を地につけて頭を垂れる。
「これより、異端の咎人の処刑を始める!」
騎士の声が広場に響き渡った。煌々と炎が燃える松明を持った騎士たちが磔の前に立つ。さるぐつわをされた異端信徒たちはただ不敵に笑っていた。
その様は甚だ不気味であり、信徒たちは嫌悪感に身を震わせる。大の大人がそんなであるというのに少女はただ顔をうつむきがちに眼を伏せているだけだった。
騎士は続ける。
「異端の悪魔に魅入られし咎人共よ。己の罪を告発し悔い改め神々の威光の前にひれ伏し悪魔との契約を破り捨てるのならば、ここで申し出よ!」
その声に応える者はいない。
「良かろう。ならば、死後神々の下で悔い改めるが良い! 彼らに罪はない。だが、悪魔に魅入られし異端は浄化しなければならないのだ。
皆の者! 浄化の火を起こせぇええ!」
騎士たちが一斉に十字架に火をかける。一瞬にいして燃え上がる炎。だが、その中においても異端の咎人共は悲鳴一つ上げない。
ただただ不敵に笑みを浮かべるばかり。炎が燃え尽きるまで彼らは笑っていた。自らが骨になり果てるまで彼らはただ笑っていた。
「我らが名を呼ぶことを許された大いなる十二の神よ、どうか哀れな魂に御慈悲を。どうか彼らが我らが父祖の眠る地に赴けますように」
聖句と共に浄化の魔法をかけて、全てを消し去るのは聖女。圧倒的な浄化の波が街の全てを浄化していく。白く、白く、白く。
何もかもが白に染まるまで浄化する。
「世界は既に動き始めているのですね」
輝く黄金瞳にはただ、愁いだけが浮かんでいた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「死んだか」
「死んだ、死んだ」
闇の中で声が響く。二つの声だ。低い男の声。高い少年の声。異端の者ども。
「詮無きことか」
「詮無きこと、詮無きこと」
「光の試しは終わった道は作れる。ならば、次は創造だ」
「次は創造。次は創造」
闇の中で声だけが響いていた。
ここはうち捨てられた教会だった。元は神聖であったのだろうが、今やそれは見る影もない。廃墟と化しているならばまだましだっただろう。
なぜならば、ただ廃墟と化していたならば踏みにじられてなどいないからだ。かつての威光はそのまま残っているからだ。
だが、ここは違う。踏みにじられている。堕ちて踏みつけられ、汚されていた。そこには何ら感情が付随していない。
ただ穢したという結果のみがそこにはある。人間らしい意志が介在していない。ただただ人形のように従ったという結果だけがあった。
そんな場所に二つの声は響いていた。いいや、三つか。
「ならば私が行きましょう。今度も」
新たに一つ若い声が混じる。
「異論はない」
「異議はない。異議はない」
「場所はいかがいたしましょう」
「アミュレント」
「アミュレント、アミュレント」
彼の国の波が混ざる場所が良い。そこならば組み上げることができるだろう。
「了承いたしました。では」
「うむ、では」
「では、では」
声が消える。声が消える。声が消える。
何もいなくなり、静寂だけが闇を満たす。
再び始まる。これから始まる。全ての終わりが――。
エピローグは四つにわかれていますが、あとの三つはとりあえずアルフが色々とやっている間も世界が動いているんだよと思っていただければと思います。
そして、このエピローグをもって第一章を終了したいと思います。ここまで読んでいただきありがとうございました。
来週は閑話としてギルド職員エリナの一日を予定しています。
また、感想欄を見るとミリアが人気っぽいのでミリアの閑話も書くことにしました。
二章は閑話二話が終わった後に開始する予定です。
では、これからも中堅冒険者アルフの物語を宜しくお願いします。
ではでは。