忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな
歌の通り、裏切られた女の天罰への望み。
心情系の歌が多く残っているので、ネタがかぶらないように書くのが大変です。
夢が、覚める時が来たのだ、と思った。
迫ってくる床、倒れていく私の体、背中に感じたあなたの手。
充満する悪臭、べとついた廊下、不気味に響く唸り声。
振り返った者たちの白く濁った目が、一斉に私を見た。
後ろを振り向くと、夫が歪んだ笑みで私を見下ろしていた。
「なあ頼むよ、おまえ俺を幸せにしたいんだろ?
だったらいいよな、俺とこいつの幸せのために」
夫の脇には、してやったりと狡賢い顔で下を出した若い女。私よりずっと大きな胸を夫に押し付けて、勝ち誇っている。
そう、私は負けた。幸せを誓った夫を、こいつに取られた。
そしてこいつらが逃げるために、生ける屍の気を引く生餌として投げ出された。
呆然と見つめる私を背に、二人は階段へと姿を消した。
一人残された私を囲むように、廊下と上階から唸り声が近づいてくる。
私はもう、奴らから逃れることはできない。夫に突き飛ばされた時に体中を打ち付けて痛いし、足首が片方曲げられない。
ああ、私はきっとここまでだ。
この数に食われたら、きっと私は生ける屍にすらなれない。単なる血だまりとバラバラの骨になって、残りは全て今私の周りにいる奴らの腹に収まるのだ。
私は死ぬ、そしてもう二度と夫には会えない。
夫はきっとあの若い女にのめり込んで、いやもっと他の女に乗り換えるかもしれないけど……私の事はきれいさっぱり忘れてしまうのだろう。
あの人を夫とした時から、覚悟していたこと。
元から、あまり評判のいい人ではなかった。
麗しい外見と甘い語り口で何人もの女を手に入れては捨ててきた、典型的な女たらし。職場でも友人関係の中でも有名で、あいつに寄りつく女は次第にいなくなっていった。
それでもあいつは女がいないと生きていけないし、年齢が上がるに従って結婚しないのかと家族や周囲から圧力があったみたい。
もう周囲になびく女がいなくなっていたあいつは、私に声をかけた。
冴えない顔で内気で、男に声をかけられず売れ残っていた私に。
夢みたい、と思った。夢でもいい、と思った。
表面だけでもこんなにカッコよくて、心地よく愛をささやいてくれる人が私の夫になる。いつかは捨てられるかもしれないけど、それまでは夫婦でいられる。
そもそも自分が結婚できるかどうかすら諦めかけていた私は、その場当たりの愛を受けた。
それでも、一度手に入れた愛はできるだけ長く自分のものにしておきたいと願う心は抑えきれなかった。
私はデートで神社や仏閣に行き、
「ずっと二人で幸せになろうね。この愛はずっと変わらないよね」
とささやき続けた。
夫は、にこやかに甘い笑みを浮かべてうなずいてくれた。心にもない返事をいかにもそれらしく返すのは、もはや手慣れたことだったのだろう。
夫は、平気で人を裏切り、約束を破る。
だけど、神様との約束ならどうなのだろうか。
わらにもすがる思いで、私は夫に誓いの言葉を吐かせ続けた。結婚式もわざわざ本格的な教会を選んで、神父様と十字架の前で……
「富める時も貧しい時も、健やかなる時も病める時も……」
だけどやっぱり、人間苦しい時は地が出てしまうものね。
この世に生ける屍があふれて、この職場のビルの一室に閉じ込められた時、そこには夫と私の他にもう一人若い女がいた。
夫はすぐさまその女に興味を示し、女も生きるために夫に絡みついた。
そして夫はその女との未来を選び、私を生ける屍の足を止めるための囮として差し出した。
大勢の屍が、ゆらゆらと歩み寄ってくる。
静かな廊下にずるずると粘着質の足音を響かせて、息遣いもなく近づいてくる。表情を失った顔で口だけは獰猛に開いて、妙に粘度の高い涎を垂らして肉を求めている。
夫のように性的な意味ではなく、純粋に物理的に私を食べるのだ。
決して満たされることのない、その場の食欲を慰めるために。
でもそれで私が永遠に彼らのものになるなら、夫よりも誠実かもしれない。
もはや逃げる術はない、それでも私は体を動かす。
痛む体を引きずって窓に寄り、下をのぞき込む。
飛び降りようとは思わない。私はどうなってもいいと、結婚のときに覚悟を決めたから。
この窓の下に、このビルの玄関がある。逃げ場の多い太い通路を辿って逃げれば、きっと夫はここから出てくるはずだ。
出てこなければ、逃げられなかったということ。
私はせめて命ある限り、夫の末路を見届けてやりたい。
あんなに神に誓っておいて、それを無下に破った夫。
こんなちっぽけで卑屈な私ならともかく、神様を裏切ったらどうなるかしら?
生ける屍がうろつくこの世には神も仏もないのかもしれないけど、もしこれが天罰ならばこんなに目の細かい切れ味のいい網はない。
もう間近に迫ってきた屍から目を逸らすように、玄関の辺りをじっと見つめる。
私が見たいのは自分が食われるところじゃない、夫が食われるところなの。
もし玄関から出てきても、外だってそれなりの数の屍がうろついている。できればあの中を、夫が逃げきれるかどうか見届けてやりたいけど……。
残念ね、もうあまり時間がないみたい。
窓ガラスに映った腐りかけの顔が、黄ばんだ歯をむいた口が、すぐ側まで来ている。
その時、玄関から二人の人影が駆け出してきた。
凝視する……あの二人は、間違いなく夫とあの女!
二人は玄関を出ると、周囲の生ける屍たちに見つめられて立ちすくんだ。
そして次の瞬間、若い女が夫を派手に突き飛ばして地面にたたきつけた!
心の中に、甘い喜びが広がる。
ああ、これよ、私が見たかったのは!ざまあみろ!天罰よ!
自分がああいうひどい事を続けてきたなら、同じ目に遭っても文句は言えないわよね。夫よりあの女の方が上手だったってこと。
まあ、あの女としても夫のひどさはその目で見ているから、あまり長く一緒に居たくなかったんでしょうけど。
ああ、できる事なら……夫が食いちぎられるところまで見届けたかったけど。
さすがにだめね、もう私が食いちぎられる時間みたい。
冷たくて重い物が次々と私に覆いかぶさり、べたつく手が体中をあらぬ方向に引っ張る。
何て痛み、目をそらしていれば終わるなんてもんじゃないわ。体中の肉をちぎられて、温かい血がぼたぼたと体から漏れていく。この痛みを、夫も味わってくれるかしら?
せめて最後まで夫に向けていた目が、屍の手で皮ごとはがされて、私の視界は暗転した。




