みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに 乱れそめにし我ならなくに
疎開ネタで、遠く離れてしまった大切な人を想うお話です。
危険な地に残った恋人を案じて、女の心は千々に乱れます。
しのぶもぢずりとは、かつて東北にあった染物らしいです。
伝統の技術も人の記憶も、継ぐ者がいなくなれば風化してしまう……そんな悲しさを描いてみました。
線路を、疾風のように駆ける白。
普通の列車よりはるかに速い音を刻んで、田園の彼方に消えていく。
ああ、あの列車にも私と同じような人たちがたくさん乗っているのでしょうか。
そして行く先々で、私にように落ち着かぬ日々を過ごすのでしょうか。列車の来た方にいる、離れてしまった人を想って。
この東北の大地を貫いて走る、東京とつながる太い線路。
かつては一日に何本もの列車が行き来していた交通の要、新幹線。
しかし、そのせわしない往来は昔の話。今は数日にたった一本、以前よりずっと短い編成の列車が通るだけ。
お客を乗せるのは基本的に一方だけ、東京から東北へ。
お客が住み慣れた都会に戻れる保証はない、文字通り一方通行。
悲しみと安堵が共存する、その列車の名は……疎開列車。
私も、あれに乗ってここに来た。
車の少ない田舎道をとぼとぼと歩いて、私は工房に戻ってきた。
女将さんは笑顔で迎えてくれたけど、私の顔を見てしかめ面をした。私の背中をどんと叩いて、叱るように言う。
「またボサッとして!
そんなんじゃ、この仕事は務まらんよ。伝統工芸ってのは、そんな簡単なものじゃないんだ!」
私は女将にせかされるように仕事場に戻り、自分の席に座る。
目の前にあるのは、編みかけの竹籠。編み目の大きさが不揃いで、形もどことなく歪んで落ち着きがない。
まるで、今の私の心をそのまま映したようだ。
「自分でやりたいって言ったんだから、集中して作りな!
やっと働き手が見つかったのに、こんなんじゃ売り物にならないよ!」
そう、この仕事を選んだのは私。
住み慣れた街を離れて元の仕事も失い、私はここにいる。当座の蓄えと送金はあるけれど、暇にしていると悩んでばかりでどうかなってしまいそうだ。
だからお金にならなくても、少しでもやりがいのある仕事がしたくてこの工房に来た。仕事に集中していれば、少しは気が晴れるかと思って……。
だけど結局気持ちは乱れたままで、初めての作品は目もあてられない有様だ。
そんな私の作品を見て、女将が厳しい顔で言い募る。
「いいかい、伝統工芸ってのは、技を継げる者がいるのが何より大事なんだ。
どんなに優れた作品を生み出せる工芸でも、その技を継ぐ者がいなくなれば途絶えちまう!どんなに美しくてもいい物でも、過去の遺物になっちまうんだ!」
その言葉が、ズキンと胸に突き刺さった。
どんなに美しくても、いい物でも、過去の遺物に……。
どんなに優しくても、いい人でも、過去の記憶に……。
胸の中に、不安が一気に噴出する。
ねえ、あなたは失われたりしないよね?
あなたを支えていた私をこんなに遠く手放して、私の見ていないところで静かに過去の人になったりしないよね?
記憶が、フラッシュバックする。
あの日、見送りの人でごった返していた新幹線のホームで、私とあなたは最後の言葉を交わした。
「本当に、大丈夫……?また、会えるよね……?」
涙ながらに手を握る私に、あなたは険しい顔で言った。
「絶対とは、言えない。それが僕の仕事だから。
でも、生きている限り君の事は絶対に忘れないよ。この騒ぎが終わったら、君を迎えに行く。
だから、君は安全な所で生きていてくれ!」
やがて発車時刻が来て、私は後ろ髪を引かれながら列車に乗り込んだ。
ゆっくりと動き出し、どんどん速くなる列車。あなたの顔が、どんどん後方に遠ざかっていく。
あんなに愛し合ったあなたが、遠くなる。あんなに側にいたあなたが、私の触れる事も見ることもできないところに行ってしまう。
いいえ、行くのは私。
あなたが対応しなければならない恐ろしいものの手を逃れて、安全に生きるために。
あなたは、警察官。街の人々の安全と生命を守る人。
だから街の人々に危険が迫ったら、身を挺して助けに行かなくてはならない。
それがどんなに危険でも、困っている人を放棄することは許されない。それが、あなたの選んだ職務だから。
私はいつも心配だった。あなたが、危険な事に巻き込まれてしまうのが。
折しも東京都内で暴力事件や殺人事件がたて続けに起こって、私の不安は高まっていた。
そんなある日、夜遅く帰ってきたあなたは、私に新幹線のチケットを差し出した。
「どうか、安全に生きてほしい」と。
別れ話と思って取り乱す私に、あなたは説明してくれた。
これから起ころうとしている……いえ、既に起こりつつある恐ろしい事の正体を。
それは最近よくニュースでやっていた、外国で流行しているという病気だった。
かかると理性を失って人に噛みつくようになる、狂犬病の一種のようなもの。噛むことで感染し、次々と患者を増やしていく。
最近の暴力事件や殺人事件は、公式には発表されていないけど、それが原因の可能性が高い。
そして、これは重大な機密事項だけど……全国への蔓延を防ぐために、近く公共交通機関を止めて道路を封鎖し、首都圏と他の地方を隔離する予定であると。
だからその前に、君はまだ安全と思われる田舎に逃げてくれと。
そして私は逃げ、今ここにいる。
本当は一緒に逃げたかったけれど、あなたは仕事を捨てる事をよしとしなかった。
私もそれは知っていたし、あなたの正義感の強さと優しさを愛していたし、あなたの職務の尊さを分かっていた。
誰かがそれをやらなければ、誰も守れないと。
私は自分で納得して、ここに来た。そのはずなのに。
何かのはずみであなたを思い出すたびに、私の心はどうしようもなく乱れる。
あなたの笑顔が、凛々しい真顔が、温かい手が失われてしまうことを思うと……頭の中がぐちゃぐちゃになって何も手に着かなくなってしまう。
ああ、いけない……私がしっかりしないと、この工房の技術が失われてしまうかもしれないのに。
あなたと同じ、誰かがやらなければいけない仕事について自分を追い込んでみても、あなたみたいに冷静にはできない。
そう言えば、失われてしまったものの話になると、女将さんが決まってする話がある。
東北地方にははるか昔、特産としてもてはやされた染物があったらしい。
忍ぶ草を染料に、独特の乱れ模様を染め上げた布。当時はその模様の素晴らしさから珍重されて、朝廷に献上されたりもしていたって。
でも、その技術は途絶えて久しい。あまりに昔すぎて、作品すら残っていない。
どんなに美しくてもいい物でも、過去の遺物になってしまったらそれまでだ。
この話を聞いた時、私は奇妙なシンパシーを覚えた。
私の心も今は乱れて、それを耐え忍んで生活している。いずれあなたと再び会えたなら、きっとこの思いも美しい愛の1ページになることだろう。
でも、もしあなたがこのまま失われてしまったら、この感情はいつか過去の遺物になる。
再び燃え上がることも新たな歴史を刻むこともなく、人知れず私の中で色を失って風化していくことだろう。
私は、私のこの気持ちをそんなにしたくない。
あなたを、見ていないところで失いたくはない。
考えても考えてもまとまらない頭で、そればかりを祈っているのに……。
あなたと離れてから、状況は悪くなる一方だ。
私が東京を去った翌日には非常事態宣言が出され、首都圏は封鎖されて戒厳令がしかれた。
東京に入る事はできなくなり、そして出る方は……身元がはっきりしていてさらに感染していないと保証するための観察期間を過ごした者だけ。
他の地域に感染を広げないため、ごく少数ずつ電車で送り出す。
それがあの、疎開列車。
あの列車にはきっと、私と同じように大切な人と離れた人たちが詰まっている。
それぞれの胸を、一つとして同じもののない乱れ模様に染めて。会いたくてたまらない気持ちとこれからへの不安を、耐え忍んで。
この騒ぎが収まらずに犠牲者が増えてしまったら、その全てが過去の遺物になってしまう。
そうならないように人々を守るのが、あなたの尊い仕事。
でも、日を追うごとに騒ぎは広がっている。
おまけに、ネット上ではこれは狂犬病などではなく、ゾンビだなんて言う書き込みまである。私も動画を見てみたけど、あれではまるで、本当に……。
昨日、「忙しいからしばらく連絡できなくなる」とのメールを最後に、あなたと連絡がつかないのも気がかりだ。
ねえ、あなたは……私たちの愛は、もう過去の美しいものになったりしてないよね?
心が乱れて嫌な考えが止まらなくて……零れ落ちた涙が、歪な竹籠に水玉模様を作った。




