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ゾンビ百人一首  作者: 青蓮
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み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣打つなり

 秋シリーズ第6弾、ようやく秋が終わりました。


 ゾンビの世界では食料の確保がよく問題になりますが、人間には衣食住が必要です。

 今回は、あまり描かれない衣について書いてみました。

 秋は衣替えの季節なので。

「くそっ!」

 思わず毒づいて、目の前に転がる腐った頭を蹴飛ばす。

 そして、やってから後悔した。

 ごっそりと抜けた髪の毛、それについてきた頭皮までもがべっとりと靴にへばりついてしまった。

 これでは、帰ってすぐ洗わないとはき続けられないではないか。


 この鼻を突く悪臭を放つ、腐ってヘドロのようになった血肉。

 死の病毒をたっぷりと含んだ、死体の一部。

 こいつらのせいで、一体どれだけの衣類を失った事か。


 俺は地面に爪先をこすりつけて、汚物を落とす。

 その拍子に、どこかが不自然に緩むような感覚があって、俺は眉をへの字に曲げた。

 見たくなくても、確認しなければならない。しぶしぶ足を上げて靴の裏側を見ると、かかとに近い靴底が少しはがれかけていた。

 ああ、この靴はもう洗っても長くもたない。

 どこかで代わりを見つけなければ、安全に歩くこともできない。


 ふと目の前に転がる死体に目をやったが、あいにく靴をはいていなかった。

 もっとも、はいていたとしてもこの腐り具合では、腐汁がたっぷりと染みこんで使いものにならなかったかもしれないが……。

 腹いせのようにバットで転がして他の衣類も見てみるが、使えそうなものがない。

 シャツはひどく破れているし、ズボンも腐汁まみれで裾がほつれている。

 それに何より、ペラペラの夏服だ。

 俺はがっくりと肩を落とし、再び家に向かって歩き出した。


 死体から衣服をはぐ……何て冒涜的なことだと思うだろう。

 だが、仕方ないのだ。

 こうでもしなければ、生きるための必要を満たすことができない。

 それに何より、俺たちはこの死体どものせいで着るものにも不自由しているんだ。


 この死体は、俺が殺したわけじゃない。

 頭を潰して動かなくしたのは俺だが、こいつはそれよりずっと前に人としての生を終えていた。

 心臓が止まり、目が白く濁り、体中が腐って組織がドロドロに溶けかけてもなお動き続けて人を襲う死体……それがこいつの正体だ。

 もっとも、そうなる前は人間だったのだが……それを今気にしても仕方がない。

 今は同じような死体が、そこら中をうろついている。そいつらに噛まれたり体液が体に入ったら、やられた方も感染して同じになってしまう。

 今俺たちが考えるべき事は、こいつらを避けて生き残る事、それだけだ。


 だが、死体さえ気にしていれば生き残れるというものでもない。

 人間が生きるには、衣食住が必要だ。

 その中で最も命への影響が少なそうな、衣が今、じわじわと俺を追い詰めている。


 家に帰って真っ先にかまどに火を点けると、俺はその前に座ってうずくまる。

「……ううっ!」

 前は温かくても背中がゾクゾクと寒くて、思わず震えてしまう。

 古い家ゆえの隙間風が、背中を撫でていく。そのたびに体温が奪われて、体に冷気がしみ込んでくる。いくら体を丸めても、温まらない。


 一月ほど前は、この服装で外を歩いても平気だったのに。

 今は家の中にいても、火をたき続けなければじっとしている事もできない。

 薄着で過ごせる季節は過ぎ去り、秋はなおも深まっていく。近く訪れる冬に向かって、気温はこれからもどんどん下がっていくだろう。

 今までの服では、体温が奪われるのを止めることはできない。

 この装備のままで冬を迎えれば、凍死するか、外に出られず餓死するか……どちらにしても死の影が待ち構えている。


 この季節、そしてこの土地が悪いのだ!

 どんどん寒くなる秋の風、そのうえこの土地は寒暖差が激しい。

 衣食住の衣を揃えられなければ、生き抜くことはできないのだ。


 死体が動き出して世の中が混乱したのは、じっとしているだけで汗が噴き出すような夏だった。

 当然、俺は薄着だった。汗をよく吸ってすぐ乾くような、風通しのいいペラペラの薄い服ばかりをまとっていた。

 そして、その服のままで死体がはびこる街から逃げ出した。

 いや、無駄に傷を作らないためにその時の感覚では厚着をしていた……一応は長袖と長ズボンだった。その時は、それでも暑くて嫌だったのを覚えている。

 着替えの荷物もだいたい同じような服だったのは、言うまでもない。


 それから俺は故郷であるこの吉野に逃れてきて、住み始めた。

 人が少なく交通の便も悪かったため、死体が少なく生き残った人が多い吉野。

 山に囲まれた盆地であり、夏は暑く冬は寒さが厳しい。季節ごとの、そして一日の中でも寒暖差が大きい吉野。

 逃げてきた当初は、田舎なのにこんなに暑いのかと舌を巻いたものだ。


 ここで俺は、親父が死んでから空き家になっていた実家に住み始めた。

 もちろん電気もガスも水道も通っていなかったが、夏の間はそれほど不自由しなかった。電気は既に多くの地域で止まっていたし、水は清らかな川が近く、ガスは薪で代用できた。

 家の中にはほんの少し日用品が残っていただけで、古着は全て処分してしまっていた。あんな年寄り臭い親父の服など、着る事はないと思ったからだ。

 それからも俺は食糧を貯えるのに一生懸命で、服のことなど考えていなかった。


 それが誤りだと気付いたのは、9月も終わりに近づいたころ。

 朝起きた時の冷え込みにぞくりとして、初めて服のことを考えた。

 慌てて荷物を引っ掻き回したが、あるのは夏の服ばかり。それも外出時によく使う長袖長ズボンは、消耗してしまってほとんど残っていなかった。


 死体がうろつく荒廃した世界で、衣類の消耗は思った以上に激しい。

 死体に攻撃を受けたり、それが元で転倒したり、道なき道を逃げたりすれば服はすぐボロボロになる。

 さらに、死体の体液をかぶってしまった衣類はよく汚れを落として消毒しないと危険だ。

 といっても消毒薬は手に入りづらいため、熱湯で消毒することが多くなる。すると、化学繊維はあっという間に傷んでしまう。ドライクリーニングができないため、水でもみ洗いをすると、さらに傷んでしわがつく。

 そんなこんなで、手持ちの服はあっという間に底をついた。


 そのうえ、供給も恐ろしく減ってしまった。

 これまでは店に行けばいつでも好きなだけ服が買えたのに、生産と物流が壊滅したためもう商品が入ってこない。

 今店にある商品は、夏ものばかりだ。

 見かねた近所の人が厚手の衣類を少し分けてくれたが、俺はそこでも下手を打った。

 少し寒くなるとさっそくもらった服を着て、消耗してしまった。修理などどうしたらいいか分からないから、すぐ使えなくなってしまう。そうすると俺は季節を先取りして厚い上着まで同じように潰してしまった。先を見越して取っておくということをしなかったのだ。

 まずかったと気付いたのは、近所の人から白い目で見られてもう服はやれないと言われた時だ。

 当たり前のことだ、他の人だって無限に持っている訳じゃない。常に商品のあふれる街で暮らしていた俺には、それが感覚として分からなかったんだ。


 ああ、どうしよう……こんな状態で、どうやって冬を越せというのか。

 まだ周囲の木々には赤や黄色の葉が残っているのに、俺は布団にくるまって動けない。

 古い日本家屋は隙間だらけで、山から吹き下ろす寒風を簡単に家に入れてしまう。家の中の温度はぐんぐん下がって、布団から出てかまどに薪を足すのもおっくうだ。

 もう夜は外に出たくなくて、昼の間に薪を大量に土間に運ぶのが日課になっている。

 だが、冬になれば昼でももっと寒くなる。

 そうなった時、俺はいつ何を着て薪を取りに行けばいいのか。


 体が温まらず、なかなか眠りにつけない。

 俺は落ち着かなくて、窓を開けて外を見た。


 冷え冷えとした空気が、どっと部屋に流れ込んでくる。

 慌てて窓を閉めたが、夜着に映ったかすかなぬくもりを一瞬ではがされてしまった。

 いや、それよりももっと心が折れるものを見てしまった。

 美しい星がまたたく空の一部を、墨を流したように黒く塗りつぶす雲……嫌な予感がする。子供の頃によく見た空……あれは、雪雲の兆候だ。


 愕然とした。季節はもう待ってくれない。

 まだ何とかなるだろうと、我慢できると思っているうちに、冬はすぐそこまで迫っている。

 今は夜着を少しノックしていくだけの秋風が、布地を突き抜けて体に刺さる冬の強風に変わるのは時間の問題だ。

 そんな夜が訪れたら、俺は朝まで息をしていられるだろうか。


 何て、ふがいない終わり方だろう。死体でも飢えでもなく服がなくて凍死するなんて。

 だが、これも衣食住……生きるために最低限必要なものの一つを軽視した結果だ。


 今から動いてどうなるかは分からないが、明日からは危険を冒してでも街の商店を漁りに行った方がよさそうだ。

 死体が多いところなら、きっとまだ少しはましな服が残っているだろう。

 もっとも、そこで今日のような目に遭えば、今来ているなけなしの服すら失う危険も出てくるが……。

 それでも動かなければ、冬を生き残る可能性はゼロだ。

 全く、馬鹿な話だ……服を軽く見た俺の命が、風に舞う薄布のようになってしまうとは。

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