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ゾンビ百人一首  作者: 青蓮
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白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける

 秋キャンペーン第1弾、風景の歌なのでゾンビは出て来ません。

 冷たい風に吹かれて散り行く透明な露に、一人残された少女は何を見るのか。


 紅葉も月も全部書いたはずなのに、秋の歌がまだたくさん残っていてびっくりです。

 昔から、秋の情緒が一番歌人の感性を刺激するのでしょうか。

 風が、吹き抜ける。

 ざあざあと、草の葉が揺れて鳴る。

 渡っていく風に導かれるように、草の上を無数の透明な粒が渡っていく。目に見えない風を描き出すように、波しぶきのように流れて散っていく。

 見渡す限り、一面走る玉の波。

 この丸く小さい、透明ながらも朝日を反射して輝くものは、何だろう。


 私は、山小屋から出て眼下の草原を見渡していた。

 冷たくさらさらとした風が、長いスカートをふわりと揺らす。そのたびに、スカートに冷気がしみ込み、重くなっていく。

 足下の草が揺れ、スカートにたくさんの玉がぶつかった。玉は布に捕えられて張り付き、やがて吸収されてスカートの色をわずかに濃く変える。

 指先に触れた布地は、しっとりと濡れていた。


 そう、この玉の正体は水。

 草の葉に降りた夜露が滴となって、風に転がされているにすぎない。


 また風が吹いて、無数の水晶のような粒が野を駆ける。

 葉から葉へと、どこまでも渡って散っていくそれがあまりに美しくて、私は息を飲んだ。

 こんなに広い野原一面が美しい玉に覆われる事は、滅多にない。私だって、そうそういつも見られるものではない。

 この美しさを一人で眺めているのはもったいなくて、いつもならお客さんを起こしに山小屋へ戻るところだけど……今日の私は、動かない。

 私と共にこれを見てくれるお客さんは、もういないから。


 広大な草原に、私一人。山小屋には、誰もいない。

 もう私が優しくもてなす人は、私と共に山の風に吹かれる人は、登ってこない。


 秋の風が、寂しく野を渡っていく。

 短い夏は終わり、高原の花は散り果てた。これから山は、オフシーズンに入る。閑散として訪れる者のない、冷たい季節に。

 でも、普段はオフシーズンでも来る人はたまにいる。そして時々、私と共にこれを見る。

 だけど、おそらくもうここには誰も来ない。

 だって、もう下界にほとんど人がいない。いつもここに来るお客さんたちも、きっともう死んでしまったのだから。


 夏の終わりにテレビで見た、衝撃のニュース。

 死体が起き上って人を襲っているという、映画みたいな事件。

 始めは暴動だの何だの言って、混乱する街の様子が映されただけだった。そのうち事件の収拾がつかなくなると、血塗れの人が人を食い殺す映像が流れるようになった。それはやがて迫りくる死体の群れや、荒廃した街の様子に変わり……最終的に、何も映らなくなった。

 つまり、下界は終わってしまったということ。

 ここに来てくれた人たちが普段住んでいる世界は、死に覆われてしまった。


 このニュースを見た時、私の頭の中に馴染のお客さんの顔が浮かんだ。

 その人たちと紡いだ、楽しい夏の思い出も。

 私が差し出したお茶を、とても美味しそうに飲んでくれた時の極上の笑顔。いろいろな人と一緒に眺めた、満天の星空。夜、小さな電球の下で交わした他愛のない話。

 どれもこれも、水晶みたいにキラキラして美しかった。


 ああ、今目の前で散っていくのは、夏の思い出の結晶だろうか。

 小さく丸い球面に、二つと同じもののない景色を映して、草原の彼方に散っていく。まるでこの場所の持つ記憶が、ぶちまけられているように。

 戻らない夏。もう二度と来ない、輝いた夏。

 永い永い静寂の季節に向かう、世界そのものの秋。

 少しでも留めておきたいけれど、その思い出は私だけの頭に入れるには多すぎて、こぼれて持ち主のなくなった無数の記憶が散っていく。


 散り行く露は、いずれ砕けて形をなくしてしまう。

 もう、元の形には戻らない。

 失われた楽しい時と楽しい記憶は、もう二度と戻らない。


 私はこれから、たった一人でここで生きていくのだろうか。

 それも、水と食料がもつ限りだけど……人里から遠く離れた山小屋であるここには、長持ちする非常用食料と水がたくさんある。

 それを使うのは私一人、共に食べる人は誰もいない。


 最初にあのニュースが流れた日、ここにいた登山客たちは皆、下界にいる家族や知人を案じて下山していった。

 中には、自宅が危なくなったらここに来てもいいかと冗談めかして言っていた人もいたが……あれから、戻ってきた人はいない。

 一緒に暮らしていた父さんは、下界との連絡が途絶えた翌日に、様子を見に行くと言って山を下ったきりだ。

 戻って来ないし、連絡の一つもない。


 下界がどうなっているかは、私にも分からない。

 でも、きっと最期のニュースより酷い有様になっているのだろう。

 優しかったお客さんたちも、頼もしかった父さんも、きっとその一部になった。魂を失った体だけがこの世に残り、食欲のみを晒してうろつき回っているのだろう。


 魂を失って……じゃあ、その魂はどこへ行くのだろう。


 風が吹き抜け、また無数の透明な粒が野に散っていく。

 そう言えば、昔は死んだ人の魂は山に集まると言われていたらしい。だから、霊山や霊場がたくさんあるんだって。

 だから、きっと皆の魂も、ここに来ているのかもしれない。


 散っていく美しい玉は、体から離れた魂たちだろうか。

 二つと同じもののない人生を映して、光の下で消えていく。温かい太陽の光に導かれるように、蒸発して天に昇っていく。

 もう二度と生き返らない、命。どんなに手を伸ばしても留めておくことのできない、魂。

 下界で死んだ数多の人の魂が、ここに集って葉の上に遊び、天に召されていく。


 ああ、露は儚い。

 美しい世界はあっという間に消え失せ、私を置いて行く。

 でも、このまま助けが来なかったら、私もいずれ儚く散るのだろう。それが食糧の尽きる時か、死体が魂を追ってここまで登ってくる時かは分からないけれど。


 だけど、その頃にはもう、こんな一面の白露は見られなくなっているのだろう。

 寒く寂しく、魂も記憶も全て去った後で、たった一人で死ぬ。

 そんな私の魂は、枯野の葉の上で一粒寂しく震えるのだろうか。体はもしかしたら、山を下ってたくさんの仲間を見つけるのかもしれないけど。

 そう思うと、一粒の涙が頬を伝って草の上に落ちた。

 朝日を受けて輝く涙は、流れてくる露と混じり合って草原の彼方に散っていった。

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