淡路島かよふ千鳥の鳴く声に 幾夜ねざめぬ須磨の関守
前回「来ぬ人を~」と同じ舞台設定です。
本州との架け橋を断ち、生き残った四国と淡路島。
それを守るために本州の封鎖活動を続ける警備隊の苦悩です。でも、実際これくらいやらないと密航・感染拡大は防げないと思う。
細く、高く響いてくる声に、引かれるように目を覚ます。
日が上るにはまだ早い、明け始めの青い空。
どこかこの世ならぬ青一色の空に、小さな黒い影がいくつも飛び交う。
静かな海の上で、物悲しく誰かに呼びかけるように鳴く鳥たち。おまえたちに意識の底をかき乱されて、何度目を覚ました事か。
鳥たちの舞う空の下には、黒く大きな島の影。
かつては多くの人が行き交い、架け橋の島と呼ばれていた島……淡路島だ。
しかし今、島とこちらを無断で往復できるのはあの鳥たちくらいのものだ。人間はもう、許可なく渡る事を許されない。
俺の詰めている船着場から少し行ったところには、かつて淡路島と本州をつなぐ橋があった。
明石海峡大橋……夜な夜な美しいライトアップで人々の目を楽しませていたこの雄大な橋は、実用的にも極めて重要だった。
四国と本州をつなぐ幹線道路として、連日多くの人や物が行き交った。四国からの野菜が本州に運ばれ、代わりに本州からの工業製品と観光客が四国を潤した。
淡路島はその恩恵に預かる、大きな道の駅だった。
速い潮流に囲まれた難所の島であったのも今は昔、四国と本州の両方から橋でつながれた淡路島は便利な陸路の一部となっていた。
しかし、今はその役目も昔の話だ。
島にかかる橋のうち、一つは落ち、一つは封鎖された。
ここから瀬戸内海を眺めると、本州に向かって伸びる橋の残骸を見ることができる。途中で大きく抉り取られたように欠損した大橋……かつてあれほど人々から賞賛と感謝を集めた、明石海峡大橋だ。
あれを壊したのは、自然災害でも不慮の事故でもない。
橋を作ったのと同じ人間の手が、望んでそうしたのだ。
架け橋とは、交流の要所。隔てられた二つの場所をつなぐもの。
伝わり流れ込むものは、いいものばかりではない。
橋を通してもたらされるものの害悪が利益を上回り、つながっていることの危険が恩恵を超えた時、架け橋はその役目を終えた。
人の流れと共に伝わる害悪……あの伝染病の危険度は尋常ではない。
発症すれば必ず死に至り、そのうえ死体が動き出して他の人間を襲う。そして噛みついた人間を感染させ、どんどん仲間を増やしていく。
忌まわしい歩く死体は、人間の移動と共に瞬く間に広がっていった。
名も知らぬ国の辺境で生まれたこの病が東京に降り立ち、本州の至る所で猛威を振るうまで数日とかからなかった。
これが陸続きの国であれば、もはや打つ手はなかっただろう。
しかし、日本は海に浮かぶ島の集合体である。
人々を陸路同然に流す架け橋を断ち切ってしまえば、それぞれの島で海という天然の防壁が復活する。感染者の止めどない流入を防ぎ、死体が一度に大量に襲ってくることがなくなる。
放っておけば確実に人類のほとんどを食い尽すであろうこの病を前に、国を守る者たちは決断を下した。
本州とつながる橋を落とし、本州を捨てて感染の及んでいない島を守り抜く道を選んだ。
これは、今のところ割とうまくいっている。
病の潜伏期間は短いため、橋を落としてしまえば発症前に海を渡り切れる者はほぼいない。
淡路島を始めとする瀬戸内の島々でそれらを食い止めることで、四国は未だ安全に保たれている。
我々は、ひとまず生存の戦いに勝っているのだ。
しかし、それで悲しみがなくなる訳ではない。
架け橋がなくなれば、引き裂かれた人々はもう安否を知ることすら難しいのだ。
四国や淡路島で、本州にいる愛する人を思う人々の胸中はどれほどのものだろうか。
夜、暗い空に物悲しい声を聞くたびに、自分は胸に痛みを覚える。
島の方から近づいてくる、何かを呼ぶように響く数多の声。
ああ、これは島から飛んできた人々の心の叫びだろうか。本州の想い人を探しに、魂が人目を忍んで海を渡っているのだろうか。
自分はここにいると、あなたはどこにいるのかと。
所在も安否も分からない人のもとへ、迷いながら飛んでいく。
無論、現実にそんなことが起こっている訳ではない。
空を舞っているのはただの鳥だし、響くのは彼らの鳴き声でしかない。
しかし、それでもこれが人の声に聞こえるのは、ただの感傷だろうか。
どうか入れてくれ、出してくれ、つないでくれと……。
そう聞こえてしまうのは、自分が果たしている役割と無関係ではあるまい。
自分は本州の警備拠点に詰めて、人の流れを取り締まっている。
感染者や死体を匿い、隠れて安全地帯に連れ込もうとする人々を、この海の先に進ませる訳にはいかない。
この病は潜伏期間が短いから、感染した本人はそれほど長い距離を移動できない。それでも感染が世界中に広がったのは、情に流されて彼らを移動させる人間がいたからだ。
それを防ぐためには、人の流れを徹底的に制限するしかない。
だから、この周辺で発見した生存者は全て例外なくここに集める。そして体調と荷物を調べて汚染がないことを確認し、さらに用心のため一定期間淡路島で留めてから四国に送る。
そういった拠点と中継の島を通らないルートは、一切認めない。
我々の見ていないところで勝手に海を渡るのは、許さない。
そのために、我々警備隊は行けるところの港の船をできる限り破壊した。大型の船からモーターボートに至るまで、見つけ次第動かないように手を下した。
こうしなければ、密航のリスクを減らせなかったから。
もちろん、これは本州の生存者たちには不利に働く。
運悪く警備隊と巡り合えず、死体に追われて港に逃げ込み、すぐ近くに淡路島の影を見ながら船を出せずに死ぬ……そんな者が少なからず出るだろう。
だが、それでも四国で暮らす百万の命と引き替えにはできない。
何よりも優先して安全を守るとは、そういう事だ。
渡れずに死ぬ者の中には、安全地帯にいる者の待ち人も含まれるだろう。
安全地帯にいる者は当然、この措置を知っている。
だからこそ、どうか無事に正しいルートで渡って来てくれと、胸が張り裂けんばかりに叫ぶのだ。
人の流れを断つということは、当然勝手に本州に渡る事も許されない。淡路島に留まり、本州にいる想い人を待つ者は、朝に夕にその祈りを海を渡る鳥に託すのだ。
静寂の中に響く泣き声を聞くたび、自分の心は葛藤に襲われる。
自分のやっていることは、本当にこれで正しいのか。もっと人の心に応えるやり方はないのか……。
しかし、自分たちがそれに負けて密航を許してしまったら、四国は終わる。街からは人の息吹が消え、今目にしている本州と同じように死の街となり果てるだろう。
だから自分は心を殺して、鳥たちから目を背ける。
もっとも……それでも明日以降もずっと、鳥たちは渡り、鳴き続けるのだろうけど。




