秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ
月キャンペーン最終話、これで月は全部のはず。
秋にざわめく風といえば、最近も多い渦巻のアレを思い出しますね。
現代は災害や天気について当たり前のように予報がありますが、それがなくなると急に視界が閉ざされたように明日が見えなくなり……。
雲の流れが、速い。
ざわざわとせわしない葉擦れの音が響き、月の光を反射して映し出される空のまだら模様は秒単位で形を変えていく。
温度は涼しいはずなのに、むっとするような湿気に満ちた風が吹き抜ける。
どうにも落ち着かず心が騒ぐ、不穏な夜半。
手持無沙汰でついテレビのリモコンをいじっても、望む情報は手に入らない。テレビは、電気が止まってとうに役に立たなくなっている。
ラジオのチャンネルをいじると、まだかろうじて音を発してくれた。
「……地区の避難所は、○○小学校及び公民館、それから市営の体育館も……」
これだけ聞けば、望んでいる情報のようにも思える。
しかし私は知っている、このチャンネルから流れてくる避難所の情報は、数日前から全く更新されていないということを。
私が欲しいのは、今起こっている災害の情報じゃない。
これから起こると思われる、自然災害についての情報なんだ。
この湿っぽく不穏な風に、私は嫌な予感を覚えてやまない。
私は……いや、日本人ならばきっと覚えがあるだろう。
湿気にべたついた風が吹き始め、雲の流れは速く晴れたり曇ったりを繰り返し、やがて雨が降り始め……。
毎年のように、よくあることだ。特にこの季節、夏の終わりから秋に多い。
いつもこの時期になるとテレビやラジオを騒がせる、そう、これは台風が近づいてくる印だ。
長きに渡り台風の進路となってきた地理上の条件ゆえか、この国では台風についての情報発信が徹底されていた。
風速、気圧、大きさ、予想進路から、雨や風のピーク予想まで……至れり尽くせりだった。
おかげで私たちはそれを元に対策を立て、備えることが出来た。自分たちがどの程度、どのような被害をこうむる恐れがあるか、簡単に知ることができた。
実際に台風が来て被害が出れば、それもすぐに報道された。交通機関の乱れや道路の通行止め情報、それに避難指示やその地域の避難所まで。
この精密な予報と正確な情報により、私たちの明日への視界は常に澄んでいたものだ。
しかし、いかに優れたこの国の防災システムにも限界はある。
まず、いつ起こるか分からないものについては、当然ながら予報はない。
例えば地震やゲリラ豪雨など、未だに予測できない災害がその例だ。しかしこれらはまだかつて起こったことがあるため、現状についての情報発信はできる。
今回の災害も、感染症の蔓延というカテゴリで見れば対応可能なはずだった。
二つ目の問題は、それが報道できる内容であるか、ということだ。
多くの人に知らせるに値するかどうか、信頼性とか倫理上の問題である。
今回の災害では、まさにそれが弱点となった。
死体が再び動き出したことは未だかつてないから、最初は皆それが信じられなかった。信じられない、間違いかもしれないから、報道できない。
さらに動き出した死体が人を食うなどという情報は、残虐すぎて報道できない。批判を恐れた各メディアが報道を自粛したため、情報を得るより先に現物が目の前に現れてしまい、何が起こっているかも分からず倒れた者が数知れない。
予報やリアルタイムの情報発信に頼っていた人々は、あまりに脆弱だった。
どこかから情報が与えられなければ、何をしていいか分からない。
いつかどこかから情報と指示が与えられるはずだと、多くの人が積極的に動こうとしなかった。
そのうち、拡大する災害によって情報を発信する側の人間も次々と倒れていき……気が付いたら、慣れた災害に対する予報すらなくなっていた。
今の世の中は、混沌の闇だ。
これまで行動を決める条件として大きな比重を持っていた予報が、何もない。
明日が暑いか寒いか分からないから、服装が決まらない。いつ雨が降るか分からないから、作物の苗をいつ植えたらいいか分からない。波が高くなるか分からないから、船での漁や逃走は常に賭けだ。
そのうえ分布も密度も分からない死体がうろついているのだから、手に負えない。
死体は人口密度が高かった場所に多いというのが一般論だが、奴らも移動するのだ。一週間前にそうでも、今田舎が安全だという保証がどこにある。
死体から逃れるための避難所の情報すら、今正しいかどうかは分からないのに。
私たちの明日は、まさに今の空模様のようだ。
目まぐるしく変わっていく雲のマーブル模様は、どの瞬間をとっても次の予想がつかない。
月の光は雲に遮られ、雲の不安定な模様を映し出すだけの不気味な光になってしまった。
希望はあっても、それが叶えられる条件がいつ満たされるか分からなければ、先を見通せない不安に変わるだけだ。
変わり続ける雲を見上げながら、私はとりとめもなく考える。
今のこの天気は、本当に台風なのだろうか。台風だとしたらどの程度の規模で、どういう進路を取るのだろうか。明日はどんな風雨になるのか。
全て、以前は当たり前のように予報が与えられていたのに。
先の見通しが全く立たない。どうしていいか分からない。
風雨で今いる建物が壊れたら、死体が入ってくるかもしれない。かといって今から堅固な建物に避難しようとして、途中で風雨に阻まれたら本末転倒だ。
雨で川が増水して、上流の街から死体が大量に流れ着くかもしれない。
風がせっかく穂をつけた稲をなぎ倒し、木から果実を叩き落として食料を奪っていくかもしれない。
ここを捨てるにしても、移動のための橋が落ちたり道が塞がったりするかもしれない。
流れていく雲のように、嫌な考えが次々と浮かんできて止まらない。
考えても、どうにもならないことは分かっているのに。
誰か、この気持ちを止めてくれ……!
不意に、目の前が明るくなった。
クリーム色の柔らかな光が、窓の外をほんのりと明るく照らし出す。
周りは相変わらず風の音ばかりがざわめく闇なのに、まるでこの家の周囲だけが祝福されたように光に包まれていた。
救いを与えるかの如き光の柱は、天から降り注いでいた。
引き寄せられるように顔を上げると、そこには神々しい光をまとったクリーム色の丸が浮かんでいた。
月だ。
高速で流れる雲が今一時だけ切れて、月が顔を出している。
黒い空にぽっかりと開いた、形を変え続ける不安定な窓から、何も遮るもののないまっすぐな光が差し込んでいる。
思わず、涙が出そうになった。
明日をも知れぬ混沌の中で、その混じりけのない光はあまりに澄んでいて神々しくて。
心の中まで照らされて、洗われるようだった。
不安と迷いが、取り除かれた。
予報がなくても明日が見えなくても、やる事は一つ。
決して希望を失わず、今日明日を生きるために最善を尽くすだけだ。
どんな風雨が吹き荒れようと、どんな厚い雲が空を覆っていようと、月は光を放ち続けている。
いかなる混沌の中にあろうとも、希望を持つことをやめない限り、それは心の中を照らし続けてくれるのだ。
明日の予想がつかないからといって、希望を捨てる理由はない。
それに、何でも詳しく予報されるようになったのは、ごく最近の事じゃないか。
昔の人は他から与えられる予報などなくても、知恵と経験を頼りに見えない明日を手探りで生きてきた。
人間は元々、そういう能力を持っているのだ。
私だって不安になりながらも起こり得る事態を自分なりに予測できているのであって、全く何も分からない訳ではない。
私は、みなぎる生への決意を胸に、光の柱を見送った。
雲の流れは速く、窓が位置を変えるにつれ、光の柱は滑るように遠ざかっていった。
光がなくなると、辺りは元の闇夜。ざわざわと木の葉が鳴り、時折どこかでガンガンと何かが転がる音がした。
しかし、むやみに怖がる必要はない。
私の胸には希望があるし、嵐に遭ったとしても危険を予測することはできる。
ガレキの山が出来ていても、そこに死体がいるかもしれないと思っていれば不意打ちは避けられる。水に乗って死体が流れ着いても、危なそうな場所をできるだけ避ければいい。
予報があってもなくても、結局生死を分けるのは本人の判断力なのだ。
これから台風でいろいろなものが壊れたら、世界はもっと混沌を深めるだろう。
それでも、私は毅然と胸を張って生きていく。
下界がどんなに荒れていても雲の上で光り続ける月の如く、澄んだ希望を胸に抱いて。




