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ゾンビ百人一首  作者: 青蓮
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夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月宿るらむ

 月と、そして夏の歌です。


 コンクリートで覆われた都市の暑さは異常、そしてもし電気が止まったビルに立て籠もってしまったら……。

 冷房のない夏の都市はそれ自体が脱水装置ですね。

 目を開けると、世界が青白かった。

 頭をもたげると、部屋を染めているのと同じ青白い光が窓から差し込んでいた。

(ああ、夜が明けるのか……)

 俺はけだるさに抗いながら、体を起こす。汗でじっとりと濡れたシャツが、肌にまとわりついて気持ち悪い。

 こんな寝苦しい夜は、いつ以来だろうか。


 だが、もうそんな夜も終わりだ。

 もうすぐ白みを増した東の空に、太陽が現れ、地獄の昼間が始まる。

 俺たちのいるこのビル、そして鉄とコンクリートでできた街全体が蒸し風呂のような焦熱地獄と化す、昼間が。


 俺は渋る体を何とか動かして、給湯室に向かう。

 本格的に暑くなる前に、日中の水分を確保しておかなくては。

 給湯室にもトイレの手洗いにも、既にちょっとした行列ができている。やはり、皆考える事は同じだ。いや、同じ状況と言うべきか。

 手にしたペットボトルや水筒に、一滴でも多く水を汲んでおこうとする。

 この生ぬるい透明の液体が、今日の生命線だ。いや、今日を最後に水が出なくなってしまう可能性を考えると、毎日持てる限りストックしておくのが望ましい。


 ようやく順番が来て、俺はペットボトルの口を蛇口にあてがう。

 ふと顔を上げると、窓ガラスの向こうに浮かんでいる月と目が合った。

 だんだんと明るくなる空で、干からびたように光を失って抜け殻のように白くなっている月。

 それが未来の自分たちの姿のように思えて、俺はすぐに目を反らした。


 太陽に干されて、白く干からびた月。

 冗談じゃない、俺はあんなになってたまるか。


 自分の机があるオフィスに戻ると、ついまた窓の外に目がいってしまう。

 さっきよりずっと明るくなった空と、地平線の向こうにある太陽に照らされて浮かび上がる積雲。

 そして眼下に広がる、明かりを失って灰色一色のビル街。夜がないと例えられた歓楽街のネオンも、徹夜残業が多いと有名な某ビルも、交通を導く眠らぬ信号や街灯すらも光を失っている。

 電気の供給を断たれた都心は、まさしく亡骸だ。


 その死んだような街を、たくさんの人影がうろついている。

 アレらは今のこの街にふさわしい、まさしく死体だ。

 数分で汗が噴き出すような外をいくら歩いても、あいつらは汗をかかない。体内に水分を巡らせる必要が無いから、体が乾こうが高温になろうが平然としている。

 もう死んでいるのだから、熱中症など気にしなくていいのだ。

 あいつらが感じるのはただ一つ、空腹のみ。その他のいかなる不快な症状も、それに伴う死の恐怖もない。

 そう思うと、少しうらやましく思えてくる。


 人間というのは、不便なものだ。

 生きるために腹が減るよりまず、水が要る。しかもこんな猛暑の中では、体温を下げるために体がさらに水を出す。

 もっとも、この気密性の高いビルの中では、既に充満した湿気のせいで汗はあまり役に立ってくれない。それでも体は汗を出すのだから、不快この上ない。

 そうやって水を浪費すればするほど、死に近づいていくというのに。


 そもそも、俺たちがこんな不快なビルの中にいるのは生きるためではなかったのか。

 街に人食い死体がはびこり始めて、慌てふためいた俺たちはこの高層ビルの出入口を封鎖した。死体のいない安全地帯を確保したかったからだ。

 おかげで、今のところこのビル内に死体は侵入してきていない。

 ここにいる限り、俺は死体の牙にかかって死ぬことはないだろう。


 だが、ここには今や別の死神が舞い降り、鎌を振り下ろそうとしている。

 尋常でない暑さ、そして限りある水……皆立てこもった当初は気にも留めていなかったのだ。

 ビルの中はいつでも涼しく、水は蛇口をひねればいくらでも出てくる……昨日電気が止まるまでは、それが当たり前だった。

 空調が止まると、ビルはすぐさまその本来の性質をむき出しにした。

 熱を吸収しやすい鉄筋コンクリートでできた、気密性の高い箱。ヒートアイランドの熱を余すことなく使って中にいる者を蒸し焼きにする、灼熱の棺桶という本性を。


 加えて、この日の長さだ。

 時計を見るとまだ午前5時前、しかし東の空は白く輝き太陽を迎えようとしている。

 これから日が沈むまで、太陽は絶え間なく地上に熱を送り続けるだろう。そして日が沈むのは、午後7時を過ぎてからだ。

 日が昇っている時間が長ければ長い程、気温のピークは高く、高く……短い夜ではその日の熱すらも冷ましきれないほどに。


 ああ、青く冷たい月の光が恋しい。

 だが、日が昇れば月は干からびて光を失ってしまう。


 空は晴れ、ちぎれた綿飴のような積雲がところどころに浮かぶのみ。

 あれでは、熱を遮るもののない空で月が身を隠すにも不自由だ。月も俺たちと同じように、狭い雲の中で縮こまって暑さに耐えるしかないのだろう。

 日が沈んで、再び少しでも気温が下がる夜が訪れるまで……。


 そうだ、ここから逃げる事すらも夜でなければままならない。

 ビルから一歩でも外に出れば、熱だけでなく直射日光が容赦なく襲い掛かる。そんな中で渇きを知らない死体共と追いかけっこしてみろ……どっちが勝つかは明白だ。

 灼熱の昼間に外に出て都市から逃げ出そうとするなど、自殺行為でしかない。


 もっとも、夜はその暗闇自体が死角を生んで脅威となる。

 しかしそれでも、夜に降り注ぐ月の光はそれ自体が人を焼き殺したりしない。日の光よりはるかに弱いけれど、それ以上に優しいのだ。

 もし再び夜を迎えることができたら、今夜は月の光に命を預けるのも悪くない。

 ずっとここにいて、日の光と熱に焼き殺されてしまうよりは……。


 給湯室の方が騒がしい。

 ついに、水道の水が出なくなったらしい。


 なあ、俺は再び夜を迎えられるだろうか。

 オフィスは既にうだるような暑さ、シャツは汗でびっしょり濡れて……水はわずかペットボトル二本分のみ。

 そして気温は、これから上がる一方。


 冷たい月が名残惜しくて空を見上げれば、空はもうすっかり明るくなって、月はどこにあるか分からなかった。

 これじゃ、今夜また会おうと約束を交わすこともできないじゃないか。

 月の奴は、あのまばらな雲のどこに隠れてしまったのか。

 しかし、その雲はこの都市を日光から守るには小さすぎて……今日も、暑くなりそうだ。

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