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ゾンビ百人一首  作者: 青蓮
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嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな

 月キャンペーン第5弾、月にかこつけねば流せない涙とはどんな意味なのか。

 多くの人が涙を流さずにいられない事態ほど、心を支える人の責任は増していき……他人の前で流せない涙は、どこにはけ口を求めるのでしょう。

 世界は、こんなにも涙に満ちている。

 泣くことなど滅多になかったあの満ち足りて温かな世界は、一体どこへ消えたのか。


 今日もまた、たくさんの涙が数多の目から流れ落ちる。

「なあ、あんたたちといられて、楽しかったぜ」

 輪になった人々の中心に横たわる若者が、涙ぐみながら言う。

 若者の手には血だらけの包帯、その下には無残に肉を抉り取られた噛み傷がある。死の病毒に侵された、死者の牙による致命的な一噛み。

 このたった一つの傷のせいで、若者は今この場で生に別れを告げなくてはならない。

 若者の肌は血の気を失って土気色に変わり始め、冷や汗が浮いて体が小刻みに震えている。さらに進行した症状から周りの人々を守るために、体は縄で縛られていた。


 若者の傍らに腰を下ろした白衣の女もまた、泣いていた。

「大丈夫です……ほとんど、苦しみは感じませんから」

 女の手には、注射器が握られている。

 女は看護師であり、注射器も本来は人を助けるために作られた物……しかしそこに詰まった薬液は、助けるためのものではない。

 神経の機能を速やかに失わせ、助からぬ者からせめて素早く苦痛を取り除き、安楽なる死に導く薬物だ。


 見ている者も、やる者も、やられる者も、皆が泣いていた。

 どうしてこんなに若くして、命を奪われねばならないのか。

 どうして助けるための職についたのに、その逆をやらねばならぬのか。

 どうしてこんな理不尽な別れが訪れねばならないのか。


 死に至った若者には、遺体を囲んで弔う時間も与えられない。

 哀れな犠牲者はその場で油をかけられて燃やされ……起き上がる肉体を失って骨になってようやく、弔う時間を許される。

 いつ起き上って人を襲うかもしれない犠牲者から他の仲間を守るためには、仕方ない処置だ。

 その粗末な別れがますます寂しさを煽り、涙を誘う。


 涙に濡れた人の輪の中で、涙に染まらず唇を結んでいる男がいた。

 若者の火葬が済むと、男はつかつかと仲間たちの中心に出てたくましい声を張り上げた。

「諸君、悲しい事だが失われた命は戻らない。

 だが、だからこそ生き残った我々は彼の分まで生きねばならない。彼の命を無駄にせぬため、生きるために前を見て行動せよ!」

 きびきびと力強く響く声に、涙で曇ることなく未来を見据えた眼差しに、仲間たちは心を支えられて涙を拭う。

 これがこの男の……リーダーの役目だった。


 悲しい時、辛い時にはどうしても涙が出る。しかしいつまでもそれに囚われて目を曇らせていては、生き続けることはできない。

 それを防ぐのが、リーダーの大切な使命だ。

 他の者が悲しんで涙に暮れていても、気丈に涙を見せずに前を向いて見せる。そうすることで、仲間たちを涙の沼から引き上げて未来に向かわせる。

 その役目を全うするため、男は決して他人の前で涙を見せることがなかった。


 今日もまた、涙に彩られた一日が終わった。

 死者が起き上って徘徊する無慈悲で残酷なこの世に、涙の種は絶えない。

 いつまで死者に怯えて暮らさなければならないのか、これから生きていくための食糧や物資は手に入るのか、愛し合って未来を誓い合っても子供を産んで育てる事はできるのか……無数の不安が人々に涙を流させる。

 リーダーの男は、その全てに涙を見せずに仲間を支えた。


 支えるべき仲間たちが寝静まった夜半、リーダーの男は人気のない広場にフラフラと歩み出てきた。

 その顔は昼間とうって変わり、疲労と消耗が色濃くにじみ出ている。

 別人のように頼りないその顔を、月の光がこうこうと照らし出す。


 降り注ぐ光を見つめ返したその瞬間……男の目から涙があふれ出た。


「うっ……ううぅ……うおおぉお……!」

 堰を切ったように、嗚咽がこぼれ出す。

 無論仲間に聞こえないように声は抑えていたが、その低く湧き出すような泣き声は他に音のない広場を満たしていった。

 思わず顔を押さえた指の間から、涙は止めどなくこぼれ落ちる。

 昼間どんなに悲しくとも流れることを許されなかった涙は、一度解き放たれると止まることを知らない。


 男だって、泣きたくない訳がないのだ。

 仲間が死んで、近くで得られる食糧や物資は目減りし、いつまでこんな生活を続けなければならないのかも分からないのに……辛くない訳がない。

 むしろリーダーとして個々の悲しみを考えるほど、不安は倍々に増していく。

 大切な働き手や戦力が減ってしまった。食糧や物資と安全を秤にかけて、今後の探索の方針を決めねばならない。次世代を生み出せる目処が立たない中で、自分はいつまでこの集団を支えねばならないのか。


 無限に湧いてくる不安は、容赦なく涙腺に鞭を打つ。

 しかし仲間の前で涙を流すことはできない。皆の心を支えている自分が涙を見せたら、仲間たちが支えを失って悲しみに溺れてしまうから。

 かといって、誰も見ていない真っ暗な中で泣いても寂しさが募るばかりだ。この重責と涙は、一人で耐えるには重すぎる。


 男は涙に潤み、にじんだ目で空に浮かぶ月を見上げた。

 闇色の空でクリーム色の温かい光を放つ月は、涙でぼやけて後光のように見えるのも相まって、限りない慈悲を湛えた神々しい存在に見えた。

 月の放つ優しい光が、男の震える肩を包み込む。


「泣きたいだけ、泣いていいんだよ」

 男の耳に、そんな言葉が聞こえた気がした。

 無論、月は何も言わない。しかし男がいくら泣いても騒いだり驚いたりしない月の沈黙は、男の涙を無言で受け入れてくれているようでもあった。

 泣くこと、嘆くことを許してもらえた気がして、男は噴出する涙をそのままに泣き続けた。


 この月の下でなら、いくら泣いても許される。

 たとえ仲間に見られたとしても、全ては月のせいにしてしまえばいい。

 古来より、月を見ると意味もなく物悲しくなるというではないか。悲しいのがだめなら、こんな世界でもこんなに美しいものが残っているとか何とか……とにかく、月を見上げて流れる涙の理由などいくらでも付けられる。


 果たして月は、こんな狡い男を笑うだろうか。

 月は何も言わずに輝いているばかりだ。

 それならきっと許してくれているのだろうと思って、男は憚ることなく泣き続けた。

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