ほととぎす鳴きつる方を眺むれば ただ有明の月ぞ残れる
月キャンペーン第4弾、声だけで姿が見えない恐怖です。
ほととぎすは一度鳴いた枝では二度と鳴かないという言い伝えがあり、漢字では「不如帰」と書きます。
何だか縁起が悪いと思いませんか?
「簡単に姿が見えないって、何かこう、いいよね」
そんな他愛のない話に花を咲かせていたのは、放課後の教室でのこと。
まだ愛も恋も知らない女子ばかりが集まって、理想の恋やロマンスについて角砂糖のように甘い雑談を繰り返す。
これは、その中の話題の一つだった。
「いろんな姿を思い浮かべて、想像がふくらむじゃない?
それに、何だか逃げられてるみたいで焦らされるっていうか……ミステリアスでちょっとドキドキするのがいいよね」
実際にこんな体験をした事などないのに、想像が想像をかきたてていくらでも話が弾む。
私も他の子たちと軽い笑い声を交わしながら、いつかこんな恋ができたらいいのかななんて思っていた。
あの平和で平坦で、大して意味もない事にいくらでも時間を費やせたあの日。
今思えば、私は姿が見えないということを良い方にしか解釈していなかったのだと思う。
見えない相手は、いくらでも自分の都合のいいように妄想できる。どんな好みの性格も素敵な容姿も、架空の設定すら自由自在だ。
それを良い方にばかり考えていたのは、やはり世の中が安寧で怖いものを知らなかったからだろう。
今、姿が見えない相手というのは恐ろしい事この上ない。
例えば、近くでごそりと何かが動くような音がする。びっくりして辺りを見回しても、見える範囲に動くものはない。
こういう状況で、頭の中に浮かんでくるのは怖いものばかりだ。
物陰に潜んでいるのは、頭のおかしい殺人鬼かもしれないし、人に襲い掛かって肉に食らいつく生ける屍……ゾンビかもしれない。そいつは立って腹から内臓をぶら下げているかもしれないし、下半身を失って這いずっているかもしれない。
見るのも嫌になるようなグロテスクな姿が、次から次へと浮かんでくる。
恋の話に花を咲かせていた頃なら、そんなものは空想の産物だと笑い飛ばしたことだろう。
しかし、今やそれらは架空の存在ではない。
ホラー映画で人を怖がらせるためだけに考え出されたようなおぞましい姿のゾンビ共が、今は現実の至る所で闊歩している。
視界に入らないその相手は、ゾンビかもしれないのだ。
ごとり、と何かが動く音がする。
うぅ……と人とも獣ともつかないかすかな呻き声が聞こえる。
自分を取り囲む空間のどこかから聞こえてきたそれらのかすかな物音に、私は立ちすくむ。
音の主はゾンビかもしれないし、あるいはただの動物や生き残った人間かもしれない。後者二つならいい、しかしゾンビだったら……。
私は慌てて周りを見回し、音の主を見つけようとする。
しかし、今のところ見える範囲に動くものの姿は見えない。
周囲は入り組んだ細い路地や扉の開いた建物、乗り捨てられた車や元々そこにあった自動販売機などで見通しが悪い。そのうえ時刻は日の光のない夜、まだかろうじて点いている街灯や手にした懐中電灯の光が届かないところは真っ黒な闇に包まれている。
嫌になるほどある死角には、何が潜んでいてもふしぎではない。
見えないということが余計に嫌な想像をかきたてて、私はますます怖くなる。
見えないということは、どこから来るか分からない。いつ、どこから現れて手を伸ばしてくるか、あるいは足元に這いずってくるのか、あらゆる可能性が悪意を持って私を取り巻いている。
「い、いるなら出て来なさいよ!」
芯まで染みこんでくるような恐怖に耐えかねて、私は思わず声を上げた。
声を上げればゾンビ共は寄ってくる、それは分かっている。分かっていても……いつまで続くか分からない生殺しのような恐怖よりはマシなように思えた。
少なくとも相手が見えれば、どうやって対処したらいいか分かる。
どちらへ逃げたらいいのか、どいつを倒せばいいのか分かる。
見えなければ、その全てが分からないままなのだ。
再び、かすかな呻き声が響いた。
私は、引き寄せられるように声のした方に足を進めていた。
危険なのは分かる、しかし見えない事への焦りが勝った。見て確かめて、発生源を突き止めてできれば倒してしまって安全になりたいという欲求で頭が一杯だった。
私はバットを構えたまま、しゃにむに声のした方へ歩いて電灯で照らす。
しかし、ゾンビの姿は見えない。行けども行けども、少し移動した先の方から時々呻き声が聞こえるばかりだ。
(どうして……どうして見つからないの?
まさか、ゾンビのくせに逃げてる……私を誘い込もうとしているの?)
もどかしくて歯がゆくて、気が狂いそうになる。
それでも足を止めたら発狂して叫び出してしまいそうで、私は必死で落ち着こうと努めながら声を辿った。
怖くてたまらないのに、からかわれているようでどうにも頭に来ていた。
不意に、こんな風に声を残して去ってしまう鳥のことを思い出した。
一度鳴いた枝では二度と鳴かない言われている……アレは何と言ったか。まるで、その鳥を果てしなく追いかけている気分。
もっとも、ゾンビがそうなら、声が聞こえた場所に行けば何も心配はないのだけど。
どのくらい歩いたのか……突然、目の前が開けた。
広い通りと、頭上に広がる黒い空……そして、東の空に浮かぶ大きく欠けた月。太陽に近い側のみを光らせ、夜明けが近い事を示す有明の月。
それを見た途端、急に力が抜けた。
もう少し辛抱すれば夜が明けて視界が開けるというのに、私は一体何をしているのか。
何も言わない月が無言で私を笑っているように見えた。
無論そう思ったのは私の妄想なのだけど、私は見えない恐怖に引きずり回されてすっかり神経が参っていた。つまり、私はとうに冷静さを失っていたのだ。
ホッと一息ついた私の後ろで、また呻き声が聞こえた。
はっとして振り向くと、今度は本当にゾンビがいた……しかも、手を伸ばせば届くくらい近くに。
すぐにゾンビが手を伸ばして、私を掴んだ。私は悲鳴を上げて逃れようとしたけど、そいつの後ろからもぞくぞくと何体ものゾンビが迫ってきていて……。
ゾンビが声だけを残して逃げるなど、ある訳がない。声が移動しているように思えたのは、別のゾンビが上げる声を次々と追い続けていたせいだ。
彼女の足音を聞きつけたゾンビは死角から出てきて彼女を追いかけ、その数は彼女が聞いた声の数だけ増え続け……。
どこかで女の悲鳴が聞こえた気がして、男は立ち止まった。
助けに行くべきだろうか……しかし相手の姿はここからは見えないし、どんな状況になっているかも分からない。助けられたとて、自分とうまくやれる女かは分からない。
(……やめておこう、分からないもののために余計なリスクは冒せない)
至極まっとうな判断を下し、男は足早にその場を去った。
夜明けを連れてくる有明の月が、彼の聡明さを讃えるように光を投げかけていた。




