めぐり会いて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな
早いもので、あと五日で自分の本が発売されると思うと……。
今回は、希望にすがってどことなく夢心地の、現実感のない女の話です。
あれは本当に、あなただったのでしょうか?
世界が人間のものでなくなってから、もう一週間経ちました。
それでも私は旦那と二人で生きています。
私と旦那以外のどれだけの人がこの街に生きているのか、それは分かりません。
街を歩く人影はたくさんあります。
でも、それが人間かと言われれば、否と答えるしかありません。
人間の形をしているのに、人間の意識を持たず、同じ種族であるはずの人間を食らうモノ……人間は今やほとんど彼らにすり替わってしまいました。
旦那は彼らのことを、ゾンビと呼びます。
ゾンビに噛まれた者は、同じようにゾンビになるんだそうです。
ただ、私にはあまり納得がいかないのですが……。
納得がいかないというより、善良な人間があんな邪悪なモノに変わるのが信じられないといった方が正しいでしょうか。
だって私は、実際に噛まれた人がそうなるのを見た訳じゃないし。
ニュースで見ても、テレビの中なら何だって起こり得るから現実にはつながらない。
人が追いかけられているのを見ても、追いかけている方が元は人間だったかなんて分かりっこない。
私はただ旦那の指示に従って、身をひそめていただけなんです。
元が人間かどうかはともかく、食べられるのは嫌ですから。
でも、先日とうとう見てしまったんです。
明かりのついた近所の家をたくさんの彼らが襲うところを……その中に、仲の良かった友人の顔を見つけてしまったんです。
月明かりの下、青白く照らされたその顔は確かにあなたのようでした。
でも、すぐ月が雲に隠れてしまったせいで、じっくり見ることはできませんでした。
一瞬だけ浮かび上がって、またすぐ闇に隠れてしまった面影……もしかしたら、あなたに会いたいと思うあまりの幻だったのかもしれません。
あれは本当に、あなただったのでしょうか?
世界が人間のものでなくなってから、私は旦那以外と会うことができなくなりました。
旦那との仲が悪い訳ではありませんが、これは私にはこたえます。
私は元々人付き合いが苦手だったし、旦那も家にいることは少なくて寂しい思いをしていました。
そんな私を支えてくれたのは、あなただけだったのに……。
世界に彼らが現れた日の夕方、あなたから私にメールが届きました。
「お互い、死なないように生きましょう。
いつかまた、二人でお茶を飲みながら、今日のことを語り合えるように」
どんな時でも気丈で快活な、あなたらしいメールでした。
それから今日まで、あなたからメールは来ていません。
でも、あなたの事だからきっと今も、どこかで気丈に生きていると信じています。ほら、便りがないのは元気の証と言いますし。
だから、あなたが彼らの中にいたのは何かの間違いだと思うんです。
だってあなたには、あんな邪悪なモノになる理由なんかないでしょ?
旦那にこう言うと、現実を見ろとすごい剣幕で怒られます。
でも、あなたは旦那が分かってくれなかった事も優しく聞いて分かってくれました。
だから私も、あなたを信じています。
今度またあなたの顔を見かけたら、私はきっと笑顔で話しかけます。
あなたはきっと、彼らとあなたを見間違えた私のことを怒って、それからいつものようにドジなんだからと笑うでしょう。
私は、きっとまた会えると信じています。
だって、あなたが私と約束してくれたんだもの。
旦那と違って、あなたは私との約束を反故にしたりしませんから。
今日も明るい月明かり、家の周りにはゆらゆらと人影がたむろしています。
あの日よりも雲がないせいで、彼らの顔もよく見えます。
私は思わず、カーテンを開けて彼らの顔を見つめました。
……あれは本当に、あなたなのでしょうか!?
大勢いる彼らの中で、あなたの顔はひときわ輝いて見えました。
ぼんやりとした表情で、しかし月明かりに照らされた肌はとても邪悪には見えません。
よく見ると、服は少し破れていますが、それ以外は以前のあなたのまま。
ただ放心したように道路に立ち尽くしています。
でもその周りには、彼らがたくさん……。
ええい、私のいくじなし!
私は思い切って窓から身を乗り出し、あなたに手を振ります。
大声を出すことはできませんが、あなたならきっと気付いてくれると信じます。
きっと彼らに襲われながら、ここまで逃げてきたんでしょう?疲れきっているなら、家の中でゆっくりお茶でも出しますから。
お湯が沸かせないから水出しになるけど、それくらい、いいわよね?
静かな青白い世界の中、ゆっくりとあなたは私の方を向いてくれました。
あなたはすっと顔を上げ、私と目が合います。
そして口を開き……。
「うああー……」
響いたのは、彼らと同じ邪悪な唸り声でした……何で?
それにつられたように、家の周りにいる彼らが一斉にこちらを向きます。
そして、あなたと彼らは一様に私に向かって手を伸ばし、窓の正面にある門を押し倒して庭に入ってきました。
あれ?もしかして本当に、彼らと同じになってしまったの?
そして、私を食べようとしているの?
呆然と立ち尽くしていたら、いつの間にか旦那に殴り倒されていました。
旦那は私をがんがんぶってわめくけど、それすらフワフワして現実感がなくて……めりめりと戸が壊れる音がするけど、それも遠くで聞こえるみたいで……。
空は雲一つない快晴の月夜。
こんな事になるくらいなら、照らしてくれなくて良かったのにね。