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ゾンビ百人一首  作者: 青蓮
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ひさかたの光のどけき春の日に しず心なく花の散るらむ

 花キャンペーン第4弾、前回の「高砂の~」の後日談にして裏話です。

 熱血に学生たちを率いて果敢に逃避行を試みた男に与えられたのは、久しぶりの休暇でした。


 いつまでも休んでいられる、全くやる事のない休暇は、何を意味するのか。

 ぽかぽかと、温かい日差しが降り注ぐ。

 ぬるいそよ風が頬を撫で、その心地よさが眠りを誘う。

 こんなのどかな日は、昼寝でもするのが一番だ。太くどっしりした桜の幹に背中を預けて、男はぼんやりと空を見ていた。


 ところどころに薄い雲がかかり、空と雲の境目があいまいになっている。

 あいまいな夢と現実の間を行き来するには、いい日だ。

 こんなにゆっくり休めるのは、一体どれくらいぶりだろう。

 男にはいつも誰かのために、自分のためにやるべき事があった。元々怠けるのが嫌いな彼は、やる事がある限りあまり休みを取らなかった。

 男がやる事から解放されてこんなにゆっくりできるのは、滅多にない。


 男は呆けたような顔で、空を見上げていた。

 かすかに温かい地面と透き通った空の間には、ほのかなピンク色の花をつけた桜が枝を伸ばしている。

 その桜の枝から、はらはらと花弁が舞い落ちてくる。

 花弁が体や顔の上に落ちても、もう男にはそれを払いのける力もなかった。


 男には、もう何もやる事がなかった。

 できる事も、何もなかった。

 自分のためだけにやる事を探す体力も気力も、すっかり干からびて一滴も残っていなかった。

 生けるまま屍となり果てたように、ただ舞い散る桜を眺めているだけだ。

 そんな男の目から、不意に一筋の涙が流れた。顔は相変わらず無気力かつ無表情、それでも渇きに侵された体から涙だけがこぼれる。


 次から次へと落ちてくる、命を終えて落ちてくる花弁。

 次から次へと命を落としていった、守ると誓った仲間たち。

 男は仲間たちのためにあんなに力を尽くしたのに、どうにもならなかった。


 かつて、男にはやる事もできる事も山のようにあった。

 勉強、部活、交友関係、家族関係……様々な役目や立場が次々とやる事を生み出し、いくらこなしても終わりがなかった。

 学生とは、えてしてそんなものだ。

 決められたレールの上で次々とミッションを出され、必須のものすらこなせなかった者は脱落し、できる事を積極的にこなせた者はよりいい道を選べるようになる。

 やった分だけ報われる、そんな分かりやすい世界だった。

 だから男は飽くなき向上心と強い意志で、よりいい道へと進み続けた。


 その分かりやすい世界が崩れたのは、もう数か月も前の事。

 突如として死体が動き出し、人を襲い始めた。これまでにない危機に人の社会は混乱し、なす術もなく機能と秩序を失っていった。

 生ける屍が人を食い殺し、食われた人間が生ける屍に変わっていくにつれ、人間同士の関係は布を構成する糸が切れるように断たれてほつれていく。

 教師、家族、それ以外の多くの知人……それらは次々と失われていった。

 そして彼らから与えられていたやる事と目標は、全て無効になった。


 本当はその時点で、これからの生き方を考え直すべきだったのかもしれない。

 しかし根っから生真面目な男は、それでもわずかに残された役目を果たそうとした。

 男にはまだ、役目を与えてくれる人間と果たすべき役目が残されていた。共に学ぶ学校に立て籠もった学生たちと、彼らを守る生徒会長の役割が。


 自分は、自分を信頼してくれる仲間全員を守らねばならない。

 男は生来の真面目さで、それを確固たる目標と定めた。

 目標が高すぎるんじゃないかとか、その時は考えもしなかった。だって男は、これまで幾多の困難な目標をたゆまぬ努力で達成してきたのだから。

 そうして彼は、これまで以上に頭と体を動かして働き始めた。


 その果てにあるものが、こんな虚無の休暇だなどと誰が予想しただろうか。

 あんなに力を尽くして寝る間も惜しんで頑張ったのに、結局何一つ守れやしなかった。

 散っていった仲間たちの顔が、そよ風に弄ばれて落ちてくる桜の花びらに重なる。止めようもなく散るべくして散っていく、桜の花に。

 あれほど希望の象徴として心の支えにしていた桜も、今は虚しいだけだ。

 この桜は、新しい世界への門出を約束する門などではなかった。

 どうあがいても散るのを止められない、諸行無常の象徴だ。


 この桜を目標に据えて仲間を率いた最後の逃避行……その無残な思い出が、走馬灯のように頭の中を巡る。

 自分では全力を振り絞ったつもりなのに、達成はならなかった。

 男は自分のやろうとした事が、全く無意味なものだったのかと思えて仕方なかった。まるで花が散るのを止めようとして、桜の大木にしがみつくような。


 元々、始める前からあまりいい状況ではなかった。

 数か月に渡る籠城の末、脱出に持って行ける水や食糧すら心もとなく、仲間たちの心はすでに倦んで折れかけていた。

 学校は塀に囲まれていて生ける屍から身を守るにはちょうど良かったが、長く生き延びるための備蓄などあるはずもなかった。

 だから学生たちは時々外に出てそれらを調達する必要に迫られたが……それも無限ではないのだ。


 そのうえ、これまでは当たり前のツールであったインフラは、人の社会の死とともに使えなくなった。

 水道、ガス、電気……それらが止まったことで状況は一気に悪化した。

 生きるための水、携帯ガスコンロやその他の燃料、電池もしくは発電機をも調達する必要が生じた。やらなければいけない事、考えなければいけない事が一気に増えた。

 それらに頭を回している間にも、学校の周辺は枯渇していく。


 それに、リスクも大きかった。

 生ける屍が徘徊する街に物資を調達しに行くのだから、当然見つかる危険が生じる。

 うまく対処できればいい。しかしそこが通っている学校の近所である以上、襲ってくる屍が襲われる者の家族や親しい友人であることは時々あった。

 襲われた側の動揺は避けられず、倒せても心に大きな傷を負い、倒すことも逃げる事もできなければ死あるのみ。倒さずに逃げれば、そこに危険が残り続ける。

 どう対処しても悪い結果が待っている……こんな事態は学生たちには初めてだった。


 どんなに努力しても、強い心で挑んでも、どうにもならない。

 屍に噛まれた者は何をやっても助からず、仲間が減り、残った仲間の心も削られていく。

 学校の近くの物資は枯渇し、そのうえ時間の経過で食べ物は腐り、より遠くに出掛けて危険を冒さなければ必須のものすら手に入らない。

 物は減り、人も減って萎えるばかり……このままでは、いずれジリ貧で全滅する。


 そんな状況での、最後の望みをかけた脱出行だった。

 皆もジリ貧に気づいてはいたが、安全な場所を離れたくなくて学校から出たがらなかった。

 しかし、生活が苦しくなるにつれて、漠然と脱出への望みが高まっていたのは確かだ。


 ここではない、どこかへ……。

 そこで男は、はっきり分かる目的地としてこの山の桜を目標に定め、新たな門出のイメージを起爆剤として脱出を決行した。


 もはや、生き残るという漠然とした目標だけでは、皆の心を奮い立たせることはできない。

 いつまで生き残ればよくて、その先に何があるのか、それがはっきりしていないとやる気も起こらない。

 無力感に苛まれる仲間たちには、短期的で分かりやすい目標が必要だった。

 つまり、この山頂の桜までたどり着けば、食糧や水が手に入って、今よりはいい世界につながっていると。

 そうして無理矢理目標を定めて、男はそれを何としても達成しようと力を尽くしたのに……。


 結局、ここまでたどり着いたのは男一人だった。

 根性論のみでがむしゃらに突き進んだ結果、食糧不足で弱っていた仲間たちはばたばたと倒れた。

 状況が悪くなると、元々弱っていた心はあっさり折れて生きる事を放棄した。

 途中、周りの丈夫な建物に一時避難しようという意見も出たが、男はそれを退けた。目標に一歩ずつでも近づき続けるのを止めたら、一度気を緩めて怠けてしまったらもう二度と進めなくなる気がしたから。

 数日後、ようやく山頂の桜の下に来た時、仲間は全て力尽きて脱落していた。


 それでも、この場所に望んだ通りのものがあれば、男はまだ生き続けたかもしれない。

 山頂付近の食事処や土産物屋をのぞいて、男は愕然とした。

 何も、残っていない……水も食べられる物も、何もない。

 街から少し距離があり、安全にそれらを漁れると思われていた場所は、学校に籠っている数か月の間に漁りつくされていたのだ。

 男の心を支えていた希望は、跡形なく散り果てた。


 男には、やる事どころかできる事も残されていなかった。

 ここに来れば何とかなると自分に信じ込ませてがむしゃらにここに来た男は、すでに空腹と渇きが限界を迎えていた。もうここで補給できなければ、次の場所まで行く力はない。

 目標にすら無残に裏切られた男は、ここでがくりと膝をついた。


 今、男にできることはただ一つ。

 せめてこの美しい桜と春の陽気の下、昼寝でもするように安らかに死ぬことだ。

 しかし、とめどなく舞い落ちる桜が男の肌を撫で、安らかな眠りに入ろうとするのを妨げる。散っていく光景が、胸の中の痛みをかきたてる。


(せめて、静かに眠らせてくれよ……)

 男は最後に願ったが、桜は無情に散り続ける。

 もはや指一本動かせぬ男の体に、役目を終えた花弁が手向けの花のように降り注いでいった。

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