我が袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし
今回は、感染者の処分ネタです。
彼女はなぜ、どんなに心が辛くても人間に斧を振るうのか。
「やれ!」
私はこの瞬間が一番嫌いだ。
私が大切にしているのと同じ人の命を、無慈悲に奪わなければならないから。
短めの手斧を両手でしっかりと握り、頭の上にゆっくりと振り上げる。
くもの糸のように粘りつく迷いを、あの子の笑顔で振り払って、私はぐっと息をつめる。
目の前にいるのは、まぎれもなく人間。
後ろ手に縛られて地面に座らされ、背中を丸めて首を前に伸ばすような格好をさせられている。
私は彼の首筋にしっかりと狙いを定め、一言つぶやいた。
「あなたに冥福を」
外さないようにしっかりと目を開いたまま、私は手斧を振り下ろした。
これで今日の仕事は終わりだ。
仕事といっても定期ではない、この仕事は時と場合などまるでわきまえずにやってくる。
私が仕事を終えた場所に、他の人たちが熱湯をまいている。もうもうと湯気をあげる透明な湯が、赤い汚れを薄めて流していく。
でも、汚れの一部は固まってとれないシミを残す。
本来なら、血の汚れを湯で洗うのは上手なやり方ではないのだ。
だけど仕方ない、この熱湯の目的は洗うことではなく消毒なのだから。
感染を防ぎ、村と私たちの安全を守るための……。
あの伝染病がなぜ発生したのかは、未だに分からない。
分かっているのはこの病にかかると死んで食人鬼として生き返ること、食人鬼に噛まれると確実に感染すること、感染すると発症を止める手立てがないことくらい。
……ついでに、食人鬼を殺すためには頭を潰すか首をはねるしかないことも。
だから村を守るためには、感染した人の首をはねなければならない。
それが私の仕事……そう、私は処刑人なの。
なぜ私が選ばれたのか、それはとても単純な理由。
人は誰だって肉親などの近しい人を殺したくないし、大多数の人は人を殺すという行為そのものを嫌う。
感染していると分かっていても、手を出せずに結局食い殺されたり、逃げる事しかできなかった者は多い。
でも私はそうはならなかった、そうできない理由があったから。
私は……感染した肉親を皆殺しにできてしまったのだ。
あの病が発生した時、私には生まれたばかりの子供がいた。
こんな小さな子供を抱えて、逃げることもままならない。
私の親が食人鬼になって、それを止めようとして兄弟が噛まれて……このままではこの子もろとも食い殺されてしまうと思ったとたんに、訳の分からない力がみなぎってきた。
気がついたら、私は手斧で両親の頭をかち割っていた。
そしてその興奮が醒めぬままに、やめてとせがむ兄弟の頭も……。
ただ赤ちゃんを守りたかった、それしか頭になかった。
その後自分がどんな後悔に苛まれようと、赤ちゃんさえ無事なら良かった。
母は強し、とはよく言ったもの。
それからも私は、赤ちゃんを守るために容赦なく感染した人の頭をかち割った。
それが自警団の目にとまるのに、それほど時間はかからなかった。
自警団の人たちだって、自らすすんで人を手にかけたい訳がない。
まだ人でいる者を手にかければ、どれほどの心の痛みと遺族のやりきれない感情を背負うことになるか、みんな分かっているのだから。
でも、誰かがやらないとみんなやられてしまう。
もちろんそのみんなには、私の赤ちゃんも含まれる。
だから私は、自警団に頼まれるままに斧を振るって人を殺してきた。
あの子のために、ただそれだけのために他人の命を絶つ。
もう助からないと分かっている、でもまだ人間なのに殺す。
そんな私を、村の人は血も涙もない鬼だと畏れ敬う。
私の心がどんなに泣いているかなんて、知ろうともしないで!!
「ただいま、坊や……」
体中に血のにおいをまとわりつかせたまま、私は家に帰る。
「あら、お帰りなさい!お母さんでちゅよ~!」
年配のベビーシッターはお面のような笑顔をべったりと張りつけて、押し付けるように赤子を返し、逃げるように帰って行った。
家には、私と赤ちゃん二人きり。
みんな私が怖いのか、手伝いに来る人もいない。
私が親兄弟を残らず手にかけたこの家で、二人きり。
何の音もない部屋で、私は赤ちゃんに乳を吸わせる。
今日もこの子のためにがんばった……そう思うと、殺した時の感触と血しぶきが脳裏にわき上がってきて、涙がはらはらとこぼれる。
そのうち、赤ちゃんも一緒に泣き出す。
子供は本当に、親の不安を敏感に感じ取るもの。
いえ、それ以前に……最近ずっと乳の出が悪いせいかもしれない。
ストレスが多いと乳の出が悪くなると、妊娠教室で習った。
考えてみれば当然のこと、こんなに頻繁に人を殺しているのに、それで普通に乳が出る女がいたらそれこそ本物の鬼でしょうよ。
乳がよく出るように、水をたくさん飲みなさいと言われた。
でも、いくら飲んでも目から涙として出てしまったら意味がないのに。
そんな事も分からないなんて、大したベビーシッターだこと!
それでも仕方がないのかもしれない、家に帰って私がずっと泣いていることを人は知らないのだから。
声を上げて泣けば、せっかく眠りについた赤ちゃんが起きてしまう。
だから私は、声を殺して泣く。
だから私の泣き声は、誰にも届かない。
それでも私はこの子のために、人を殺して生きていく。
涙がたまって海みたいになった心に、また少しずつ塩からい水を注ぎ足しながら。