筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる
どんな恋も、始まりは源流のように小さくて些細な事。
しかし川が下るにつれて深さを増していくように、恋心は積もり積もって淵のようになり果てていきます。
どうしてこんな事になった……でも、もう戻る事はできないのです。
ちなみに「みなの川」は地名で「男女の川」と書きます。
最初は、ほんのささいなきっかけ。
僕が水を飲もうとしたところに、顔を上げたらキミがいた。
ただそれだけの、取るに足りない出会い。
ちょろちょろと流れる、川幅1メートルにも満たない流れの向こうに、キミがいた。
「その水、飲めるのかな?」
これが、キミが僕にくれた最初の言葉。
それでも僕の心は、清水で洗い流されたように明るくなった。さんざんひどい目に遭ってひどいものを見てきた僕には、キミそのものが山から湧き出た清水にも劣らぬ清涼剤だったんだ。
僕は反射的に、キミにこう言った。
「大丈夫そうだよ。……良かったら、一緒に休まない?」
キミははにかんで、ぎこちない動作で川を飛び越え、僕の隣に座った。
思えばその時から、運命のようなものを感じていたのかもしれない。
隣に腰を下ろして水を飲み、すっきりと癒された顔をするキミに、僕の心はその何十倍も癒された。
僕はもう、こういう優しい時間を諦めかけていたせいかもしれない。
人が人ならざるものに殺され、人と人も自分のためだけに血眼になって争う世界で、キミだけは汚れのない天使のように見えたんだ。
僕たちは、何となく一緒に行動することにした。
今時、死角の多い一人旅は常に死と隣り合わせだ。僕もキミも死ぬのは嫌だったから、必然的に二人でいることにした……ただそれだけの話。
それでも僕は、心の底から満たされて救われた気がした。
本当は僕の害にならなければ、誰でも良かったのかもしれない。それでもついてくるキミをちらちらと見るたびに、僕はキミで良かったと思い始めていたんだ。
少し深くなってきた川の側を歩きながら、僕はキミとこれまでのことを話す。
「どこから逃げてきたの?」
「東京から。都心じゃなくて住宅地だけど」
何てことだ、僕と同じじゃないか。
「一人でここまで?」
「ううん、初めは近所の人と一緒だった。でも、途中で奴らに食われたり、いがみ合って離れていく人が多くなって……気づいたら、置き去りにされていたの」
これも、だいたい僕と同じだ。僕は置き去りじゃなくて、はぐれただけだけど……。
話してみると、キミと僕は思った以上に境遇が似ているようだった。
もっとも、今この国がどうなっているかを考えると、こんな風に人気のない場所で出会うサバイバル慣れしていない人間はだいたい同じような事情なのかもしれない。
運命でも赤い糸でもない、ただ確率の高い偶然。
だけど、吊り橋効果というものを知っているだろうか。
吊り橋の上や災害時、恐怖体験をした時などに出会った男女は、そのドキドキを恋と勘違いしてあっという間に恋に落ちてしまうんだそうだ。
僕もキミも、まさにその状態だった。
いつ、どこから襲ってくるか分からない奴らの恐怖に耐えながら、明日の水や食糧も確保できるか分からない不安この上ない旅路。そのうえたった一人で心細かった僕とキミは、まるで磁石が引き付け合うように寄り添ったんだ。
下るうちに、川はだいぶ太くなって魚が住み始めた。
二人の共同作業でどうにか捕まえた魚を焼きながら、僕とキミはこれからのことを話す。
「どこか、行くあてはあるの?」
「ううん、でもとりあえず食べ物が手に入るところに行きたいとは思ってる。このまま山の中に居ても、生きていけるか分からないから」
うん、僕も同じ意見だ。
僕もキミも野山で生きていくのは得意じゃないし、二人になれば食べ物は二人分要る。それにもし奴らに襲われても、二人ならお互いを補い合って何とかなるかもしれない。
川を下ってどこかの集落を探そうと提案すると、キミは安心したように微笑んだ。
僕とキミは、手を取り合って川を下る。
下るに従って川は豊かになり、水草が繁茂して魚影の数や大きさが増す。いろいろな生物が住み、ついに人の暮らしを支えるようになる。
最初はちょっとした流れだったのが合流し、深みを増していろいろなものを育んでいく。
でも深みを増すにつれて、川は不純なものを含み、濁り汚れていく。
近くに人家が建ち、それがだんだん間隔を狭めていく頃になると、川はその深さも相まって底が見えなくなっていた。
水も一応沸かしてはみたが、それでももうわずかに不快な味がする。
豊かにはなったが、この水はもう飲めそうにない。
そして僕の気持ちも、キミに対してどんどんいろいろな事を考えるようになっていた。
キミとの幸せな旅路は、いつまで続くのだろうか。僕はキミが好きで一緒にいたいけど、キミは本当は僕のことをどう思っているのだろうか。もし僕よりキミを守れそうな人が現れたら、僕はどうするのか……。
とりとめのない考えが浮かんで、頭の中でどんどん広がっていく。
豊かにはなったけれど、この気持ちがもう僕自身にも抑えられないし全体がどうなっているかも分からない。いろいろな気持ちがごちゃ混ぜになって、底が見えない。
僕自身も大きくなる恋心を持て余し始めていた時、それは起こった。
キミと二人で、飲み物を探して小さな商店に入った時の事。
何か保存食がないかと棚を漁る僕の後ろで、飲み物を回収していたキミが急に悲鳴を上げた。
「キャーッ!!?」
振り返れば、盛大に飲み物の缶を崩して手を引っ込めるキミの姿。後ろに倒れそうなキミを慌てて支え、顔を上げると真っ白な二つの目と目が合った。
棚の向こうから、凶悪な顔が僕とキミを見ていた。
およそ生きているとは思えない、赤みを失って代わりに青や緑が入った腐肉でできた顔。白く濁った目と、黄ばんでさらに血に汚れた歯をむき出しにした口。
間違いない、奴らだ。
奴らが、店の中にいたんだ。
「逃げよう!」
僕は反射的にキミの手を引いて、店から飛び出した。
とにかく逃げなきゃ、キミを守らないと、それだけが僕の頭の中を占めていた。
握ったキミの手が、ぬるぬると滑る。それでも決して放さないようにきつく握りしめて、僕は店が見えなくなるまで逃げ続けた。
ようやく安全そうなところまで来ると、僕はキミの手を見て愕然とした。
キミの手は、真新しい血で真っ赤に染まっていた。
何てことだ、キミはもう噛まれていたんだ。あの時手を引っ込める前に、すでにキミの白い肌にはあいつの汚らしい歯が食い込んでいたんだ。
途端に、僕の頭の中をいろいろな気持ちが一気に駆け巡った。
奴らに噛まれた者は、もうどうやっても助からない。数日のうちになす術もなく死に、奴らと同じになって僕を噛もうと襲ってくる。
まともに考えるなら、キミとはここで別れるか、いっそ僕の手でとどめを刺すべきだった。
でも、そうしたくない気持ちはあまりにも強かった。
僕はもう、キミなしでは生きていけない。キミを捨てる事なんか、できる訳がない。
これはきっと何かの間違いだ、きちんと手当をすれば何とかなるはずだ。だってキミはずっと僕と一緒に……。
飛び交う気持ちが多すぎて、僕にももうどうしていいか分からなかった。
混沌として底が見えなくて、ただキミから離れたくなくて……。
それからだいぶ日が経って、僕はまだキミと二人で歩いていた。
キミは真っ白になった目でそれでも僕を見つめ、しきりに僕に体をすり寄せてくる。肌は血の気を失ってしまったけど、雪のようできれいだよ。
ただ、口にだけは僕に噛みつかないようにくつわを噛ませてある。
だって僕までキミと同じになってしまったら、誰が心無い人たちからキミを守るんだい。
奴らが決して人間に戻らないなんて、まだ誰も証明してないじゃないか。ならそれがはっきり分かるまで、こうしてキミと一緒にいてもいいじゃないか。
死んでしまったキミを連れて、僕は歩く。
隣を流れる川はもうすっかり下流で、泥のように濁り切った水がどっぷりと流れている。
僕の心も、この川と同じだ。
最初はほんのささいなきっかけだったのに、僕の心はもう僕自身にも分からない。キミへのいろんな気持ちが渦巻いて、濁り切って底が見えない。
初めは源流のように純粋な恋心だったのに、キミへの想いが募るにつれていろいろな考えが積もり積もって、今ではどうしようもない化け物が潜む淵のようになってしまった。
それでも、もう後戻りはできない。
川が上から下にしか流れられないように、この気持ちを今さら消すことなどできない。
男女の仲は、まさに川の流れの如し。
ほんのささいなきっかけから、深く豊かになるにつれて濁りを含み、いつしか誰にも見通せない深淵となる。
それでも恋の深淵は、住まう者には心地よくて……僕は僕にしか守れなくなった冷たいキミの体を、ぎゅっと抱きしめた。




