おほけなくうき世の民におほうかな わがたつ杣に墨染めの袖
今回は仏教色の濃い話です。
仏教は慈悲をもって争いをなくし人々を守るのが教えですが、慈悲の通じないゾンビを前に僧はどんな決意をするのか。
ちなみに、「わがたつ杣」は和歌における比叡山延暦寺の別名です。
僧とは、本来教えによって心を安らげるものである。
僧とは、本来人を傷つけるために武器をとるものではない。
ならば今拙僧のやろうとしていることを、仏様はどう見られるであろうか。
我が寺を、邪悪なものどもが囲んでいる。
寺に逃げ込んできたたくさんの門徒たちが、我々をすがるように見て震えている。
我々は人の心を安らげる者として、この者らを救わねばならない。
ああ、おぞましきかな末法の世。
人の欲の深さは世を混沌とさせ、次々と新たな悪を生み出す。古き教えが力を失い悪道の濁流となった世で、人を滅ぼすものは必ず人であろうと思っていた。
しかし、ああ……これが五濁悪世に下された罰だとでもいうのか。
今人の世を滅ぼさんとしているものは、人の形をして人の魂を失った亡者の群れ。地獄より這い戻りし、餓鬼のともがらだ。
本来生者の世からは見えぬはずの者らがこの世に姿を現すとは、これいかに。
山門と急ごしらえで作った垣根の外では、血にまみれた亡者どもがうごめいている。
この世を地獄で埋め尽くさんと、爪がはがれて肉が削げて骨が見えても一向に構うことなく門を引っ掻いている。
彼らは、生きた人の肉しか受け付けぬという聞いたこともない餓鬼だ。
常に飢え、渇き、生者の血肉でしかそれを満たす事が出来ぬ……これほど無残な業を負うほどの罪が彼らのどこにあるというのか。
彼らは元はどこにでもいる、善男善女たちだというのに。
だが、彼らは現実におぞましい餓鬼になってしまった。
我々は、あの亡者どもからまだ生きている者を守らねばならない。
今は門を閉じて山の斜面に垣根を作ってしのいでいるが、亡者は増えるばかりだ。
あれが破られる前に何とかしなければ、この寺も下界と同じく地獄に飲み込まれるだろう。
本来であれば、我ら僧は教えをもって争いを収めるのが仕事なのだ。
仏の説きたもうた慈悲の教えにより、人の心を和し、武器を持たずして争いをなくすのが本来の役目だ。
しかし……亡者たちに説法は通じない。
いかなる説法も経文も、人の心を失った亡者たちには何の効果もない。
ならば、一体どうすればあの亡者の手から人々を守れるのか?
本堂で一人祈っていた拙僧のもとに、一人の若い僧が訪れて告げた。
「秘密の言い伝え通り、見つかりました」
拙僧の前に差し出されたのは、本来寺にあるまじきもの。
漆塗りの黒い長柄に、反り返った白銀の刃……昔の戦記によく出てくるような、薙刀だ。
これは紛れもなく、人を力で傷つけるために作られた武器。仏の教えとは相容れないはずの、罪を犯すためのもの。
しかし、拙僧は意を決してそれを手に取った。
紫色の法衣を脱ぎ、代わりにもっと丈夫な作りの黒い法衣に腕を通す。
髪をなくして久しい頭を頭巾で覆い、できるだけ露出をなくすように首から鼻まで布を巻き付ける。
格調高い正装は必要ない、亡者どもに汚されるだけだ。
唱える経がはっきり聞こえる必要もない、どうせ亡者どもは聞いてくれやしない。
だから、この格好でいいのだ。
門の周りには、既に同じ装束になった他の僧たちが集まっていた。
皆一様に不安そうな顔で、手の中の刃を見つめている。
拙僧は門の前に進み出ると、同朋の迷いを打ち消さんと声を張り上げた。
「皆、気を引き締めよ!
これは我々と信徒たち、そして亡者をも救うための戦いである!」
これから我々がやろうとしていることは、人が相手であれば間違いなく罪に問われる類のもの。法治の下でも、仏の教えの下でも。
しかし、我々はそれをやらねばならない。
教えも祈りも通じぬものには、力を振るって止めるしかないのだ。
この薙刀で亡者どもを本当の死へと導き、まだ生きている信徒たちを守る。我々が役目を果たすためには、もはやこうするしかない。
僧は本来戦うべき者ではない。
ゆえに拙僧のこの行為は、身分に合わぬ越権なのかもしれない。
しかし今や、この国が唯一戦うために保持していた組織も、亡者どもの猛攻の前に壊滅寸前だと聞く。
そのような状況の中、我々がやらずして誰が人々の命と心を安らげるのか。
仏の歴史には恥ずかしい事だが、僧がこのようなことをするのは我々が初めてではない。
歴史を紐解けば、つい数百年前の戦国時代までは武装した僧はいた。
人が人の心を失い殺し合う時代に、その殺伐とした争いの波から教えの場を守るための存在……今の我々に近い意図でこうしていたのだろう。
その名は、僧兵。
特に拙僧のいるこの伝統ある寺は、僧兵の力が強かったことで有名でもある。古きは平安時代から時折権力に逆らい、新しきは魔王と恐れられた織田信長とも戦った。
寺の名は、比叡山延暦寺。
我々は、名高き延暦寺の僧兵の志を継ぐ者なのだ。
世の人々を守る最後の砦の番人として、我々は戦わねばならない。
亡者どもと戦わずして、人々の安らぎは有り得ない。
ならば世のため人のために武器を取るのも、我々の役目だ。
質素な墨染めの衣は、我々が自身をも惜しまぬ証。そして黒い色は亡者どもの返り血を人の目に見せず、人々の我々に対する恐怖を和らげるもの。
我々は葬送を思わせるこの衣と薙刀で亡者どもの首をはね、その魂をあるべき所に返す。
亡者を救い、生者も救う。
仏の教えとは、元々そのためにあるものだ。
仏の教えを信じているからこそ、我々はこのような事態にも恐れずに立ち向かえる。
たとえ途中で倒れようとも、仲間が拙僧の魂を送ってくれるだろう。もちろん仲間が噛まれたら、拙僧がそうするつもりでいる。
元々、僧とは他人のために身も心も捧げるものだから。
覚悟は、できている。
「開門、亡者どもの魂を解放せよ!」
揺るぎなき決意をこめた声とともに、門のつかえ木が外される。
今こそ、世の人をあまねく救うために僧兵復活の時だ。
ここから反撃ののろしを上げ、できる事ならば世の生きる人々全てに再び安らげる生活を取り戻させてやりたいと思う。
平時は説法と経をもって、乱にあっては刃をもっても、世を仏の教えで覆い救うのが我々の使命なのだから。
このおぞましき世に光を取り戻すためならば、刃を取るのも間違いとは思わない。
どうか御仏の守りが、我らとこの世をあまねく覆ってくださいますように。




