村雨の露もまだ干ぬまきの葉に 霧立ち上る秋の夕暮れ
今回は霧の中の恐怖です。
人気のない山中で、周りに蠢くものは木の葉かそれとも……。
ようやく、雨が上がった。
だが、これだけびしょ濡れになった後で今更、という気もする。
それに今この場では、むしろ雨が降っていてくれて良かった。
俺が今ここで恐れているのは……。
登山には慣れている。
そもそもこのパーティーは元が登山部だし、山で雨に遭うのも時々あることだ。
ただ、今の俺達の目的は、前みたいにただ山に登ることじゃない。
あの狂った感染者どもから逃れ、生き残ることだ。
そのためには、街から街へと山を伝って旅を続けるのが一番だ。
「きゃあ!」
突然響いたかん高い悲鳴に、俺はぎょっとして振り向いた。
そして素早く周りに視線を走らせ、自分たち以外の人影がないことを確認する。
悲鳴を上げたのは、後輩の小柄な女子だった。
どうやら、石につまずいて転びそうになったらしい。まだかすかに揺れる体を杖で支えて、はあはあと肩で息をしている。
ただつまずいたというよりは、だいぶ蓄積された疲労の結果だろう。
無理もない、これだけ重い荷物を背負って何時間も歩きづめだ。
入部して間もない彼女には、どうしようもなくきついのだろう。
「部長、少し休んだ方が……」
同期の一人が申し出たが、俺はそれを遮った。
「だめだ、山小屋に着くまでは歩き続けろ!
こんな所で下手に腰を下ろして、その間に奴らに追いつかれでもしてみろ。どういう目に遭うかは、今まで散々見てきただろう」
そう言ってやると、皆しーんとして再び歩き出した。
非情なようだが、安全が確保できない場所で不用意に止まる訳にはいかない。
時には強引にでも皆の安全を確保するのが、部長たる俺の役目だ。
それに、この状況でこの地形は……もうすぐ恐ろしい、アレがくる。
「霧だ、みんな固まって歩け!」
最後尾を歩いていた副部長が叫んだ。
ついに恐れていたアレが来たか……俺はあらかじめ用意しておいたロープを伸ばしながら、全員これにつかまれと指示を出した。
そう、山にあって雨よりも恐ろしいのは霧だ。
多少の雨でも視界はそれなりにあるから、道は分かるし近寄ってくる人影にも気付く。だが霧の中での視界の悪さは雨の比ではない。
特にこんな、いつどこから敵が襲ってくるか分からない状況では……最悪だ。
いつもの登山なら、敵なんて滅多に出ないからいい。
だが今は違う、俺たちは逃げ続けなきゃならないんだ。
あのおぞましい病が発生した時、山にいたのは幸いだった。
人が人を食う、謎の伝染病……俺達が下山してたどり着いたバス乗り場でも、すでに阿鼻叫喚の地獄が待っていた。
感染して襲い掛かってきた顧問をピッケルで打ち殺し、俺は山へ逃げるよう皆に指示した。
それから俺たちは、山を伝って放浪の旅を続けている。
元々人が住まないせいで感染者の少ない山中を移動し、山小屋や中腹の売店で食糧を手に入れて生き延びる生活……安全地帯が分からない以上、こうするしかない。
もっとも、山もそれほど安全地帯ではないが、街中よりはマシだ。
霧の中、俺たちは声を立てずに移動していく。
山は元から静かだから、街中よりずっと声が通ってしまう。
そしてその声が、感染者を呼び寄せる事になる。
だからどんなに周りが白くて仲間の姿が見えなくても、不用意に呼んではならない。心細さに負けてしまった一人のせいで、全員が犠牲になることだってあるんだ。
「ひゃあああ!」
再び後ろで上がった声に、俺はびくりとして振り返った。
霧のせいで、何が起こっているかは分からない。
ただ、全員をつないでいるロープの動きが止まった。
声で分かる、今叫んだのはさっきと同じ後輩の女子だ。あれほど下手に声を出すなと言ったのに、さてはまた足でも滑らせたのだろうか。
「手、手が……手があぁ!」
彼女は尻餅をついて、震える声を出し続けていた。
涙ぐんだ目は霧の中を見つめ、地面に投げ出された足はがくがくと笑っている。
最後尾からかけつけた副部長に、彼女はすがりついて言った。
「い、今霧の中に手が見えたんですう!
指がいっぱい揺れてて、きっと奴らが……いやあー助けてえーっ!!」
ああ、何てことをしてくれる……きっと副部長も黙らせるのに苦労しているだろう。
しかし、だからといって置き去りにする訳にはいかない。それは人道に反する行為だから……人道は、パーティーの掟よりも重い。
しばらくして、副部長がロープを伝って報告に来た。
「まきの木の葉を、人の指と見間違えたようです」
俺は拍子抜けした。
本当に何か起こったなら仕方ない、しかしそんなどうでもいい事でパーティー全員を危険にさらすとは……。
俺は副部長に彼女を見張るよう指示を出し、再び進み始めた。
すぐ目の前で、まきの木の枝が揺れている。
ちょうど人の指くらいの長さの葉をゆらゆらと揺らす様は、確かにたくさんの手がおいでおいでをしているようにも見える。
濃い霧のせいで、木の影も黒くて長いものにしか見えない。
恐怖による疑心暗鬼があれば、あれを人と見るのは難しくなさそうだ。
霧というのは厄介だ、その中では何でもないものが化け物に見える。
霧の中にいる怪物の話は珍しくもないが、確かに霧は人を不安に陥れ、悲鳴を上げさせて怪物に捧げているのかもしれない。
「ひっ……!」
後ろからまた、小さな悲鳴が聞こえた。
またあの女だ、だが今回はこらえたようだな。
しかし、ロープは止まった。
霧の中から、必死で押し殺したか細い声が聞こえてくる。
「大丈夫ですよう、ちょっとまきの木が引っかかっただけですう……す、すぐ外しますから……えい、えい、えひぎいいぃ!!!」
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
真っ白い世界に絶叫が響き渡り、急に後方が騒がしくなる。
慌てた声と落ち着きのない足音、そして何かがつぶれる音……俺は嫌な予感がして、ピッケルを握り締めた。
少したって再び訪れた静寂の中、副部長が血塗られたピッケルを手に報告にきた。
「横から感染者に襲われ、例の女子が噛まれました。
感染を防ぐため、感染者と例の女子の頭を潰しました」
俺はほう、とため息をついた。
つまりはあの女が自分で呼び寄せた感染者にやられて、その結果命を落としたということだ。自業自得じゃないか。
悪意がない以上自分から手を下すのはためらわれたが、これは仕方ないだろう。
ともかくこれで、パーティーは多少安全になった。
霧の中、ざわざわと音がする。
まきの木が揺れているのか、それとも何かが動いているのか……。
そういえばラジオで、奴らは群で現れると言っていた。
だが、本当のところは分からない。
今の自分達にできることは、声を立てずに山小屋を目指すことだ。それは変わらない。
ああ、霧よ、いっそのことしばらく晴れないでくれ。
そうすれば、もし周りで揺らめくものが木じゃなくても、木だと信じて進めるだろう?
山の霧は、惨劇すらも覆い隠す。