有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし
有馬山裏話第3弾、今回のテーマは「幻滅」です。
夜明けは明るく周囲を照らすものであると同時に、これまで見えなかった醜いものをさらけ出すものでもあります。
まじめで優しさに満ちた彼女が、夜明けの光とともに負ってしまった傷とは。
白んでいく東の空に、こうこうと月が輝いている。
太陽の先触れとして夜空に現れ、闇を照らして朝を連れてくる有明の月。
私は正直、この月があまり好きじゃない。
夜、暗い空に輝く月の光は温かく美しい。
でもこの有明の月は、それが長くは続かない。
月が昇ったと思ったらすぐに太陽が追いかけてきて、月よりもずっと温かくて色のある光を放つようになる。
その太陽に照らされた空で、月の光は淡く冷たい。
白けた骨のようになって、雲のようにただ浮かんでいるだけ。
美しく温かい月が夜明けとともにそうなっていく様は、見ているのが辛い。まるで光の中に出た途端に、化けの皮がはがれてしょうもない正体が露わになったみたい。
私の恋も、あの冷たく光を失っていく月の下で終わった。
知りたくなかった、好きになったあの人の本性なんか。
あの人も夜明けの光の中で、冷たく無情な本性を現していった。
その日私は、彼と待ち合わせていた。
夜明け前にこの土地を去って、二人で生きていこうと持ち掛けられて。
私はかなり迷っていたけど、それでも彼の事が好きだったから、彼の言った時間通りにその場所に向かった。
着の身着のまま、ただ水だけを詰めたペットボトルを持って。
彼は私の姿を見ると、とても嬉しそうに手を振って駆け寄ってきた。
でも、私が建物の影から出て月の光に照らされた途端、彼の顔から笑みが消えた。
彼は、引きつった顔で最初に私に尋ねた。
「おいおまえ、食糧はどうしたんだよ?」
こうこうと輝く月の光で、私がペットボトルしか持っていない事が彼の目に晒される。
彼は何度も私の姿を見直して、目をぱちぱちさせていた。驚いた顔が、みるみる失望に変わっていくのがはっきりと見えた。
でも、これは私が約束を破ったから。
私は彼に、食糧をできるだけたくさん持ってくるように言われていた。でも私は、その期待には応えられなかった。
だって私には、私をこれまで生かしてくれた仲間を裏切る事などできなかったから。
駆け落ちというのは、それ自体が罪なものだと思う。
いくら本人同士が愛し合ったからといって、これまでお世話になった人たちに何の断りもなく出て行けば、それは恩のあるたくさんの人たちを悲しませることになる。
だから私は、彼が二人で出て行こうと言った時も、最初は思いとどまらせようとした。
でも、彼はどうしてもここにいる仲間を信じられないようだった。私から他の仲間に話して仲を取り持とうとしても、だめだった。
かわいそうな人、きっとこの人は何か大きな傷を抱えているんだ。
ここに来るまでに他の人と何かあって、他人を信じられなくなってしまったんだ。だからこそ、信じてもらえている私が側にいなくちゃ……。
きっとこの人は、この残酷な世界に消えない傷を負わされてしまったんだ。
私は、恋に浮かされた頭でそう思い、彼との駆け落ちを決めた。
この残酷な世界の中で、今も正常な心を保っている人間はどれほどいるのだろう。
腐りかけた死体が歩き回り、生きた人間の内臓を引きずり出して食い漁るのが日常になってしまった、この世界。
そんなものを見るだけでも気分が悪くなってきそうなのに、こいつらの存在によって世界はあらゆる所で人の心を傷つける地獄に変貌した。
人々は、自分が生き残るために手段を選んでいられなくなり、意地悪く冷たくなった。
厳しい生存競争の中で、信じていた仲間に裏切られた人は数知れない。裏切る気がなくても、自分が助かるために他者を見捨てなければならない事だってある。
それに仲間が死体に噛まれてしまったら、どんなに信じて支えようとしても無駄だ。噛まれた者は何をしても助けられず、死んで起き上って、襲い掛かってくるのだから。
そんな世の中でも、私は恵まれていたと思う。
死体が歩き始めた頃、この土地の住民が素早く結束して死体を排除し、安全な住処を作ってくれたから。
お互いを信じて支え合う、温かい地域の仲間に囲まれて、私は不便ながらもそんなに傷つかずに生きてこられた。
だから今度は私が他人にその恩を返す番だと思って、彼の側にいようとしたのに……。
彼は、私がここに来たことより、食糧を持ってこなかったことを責めたてた。
「おまえさあ、何も食べ物持って来ねえとか、俺の事愛してないの?
俺が飢え死にすることろが見たいの?なあ?」
嫌味ったらしく、当てつけるような言葉に、私は謝る事しかできなかった。
「ごめんなさい!!でも、これ以上仲間に迷惑をかける訳にはいかないの。
あなたを愛していない訳じゃない。でもここの食料は、ここの人たちの命だから……」
ぽろぽろと涙を流しながら、必死で謝った。私だって期待に応えられないのは悲しい、でも今までお世話になった人たちを裏切るのはもっと辛かったから……。
だって、この世界では食料を集めるのも命がけ。
この村の倉庫にある食料は全部、私の大切な仲間たちが危険を冒して手に入れたり、手間暇かけて育てたもの。
その宝物を勝手に持ち出すなんて事、私にはできなかった。
それに、彼は私と出会った時から、かなりの量の食糧を自分で持っていた。
村にいる間はそれを村人たちに明かさず、村から食料をもらって生活していたから、彼自身の食料はそんなに減っていないはず。
……本当はいけない事だけど、これが彼の心を支えているなら仕方ないと思って黙ってた。
周りを信じられない彼から、自分で得たものまで取り上げてしまうのはとても残酷な事……私がそう思ったから。
だから、彼は数日生き延びる分の食糧を持っているはずなのに……。
そもそも自分が苦労して食料を手に入れてきたなら、その大切さも分かるはずなのに……。
どうして、そんなに私につらく当たるの?
私は、一生懸命それを彼に分かってもらおうとした。
村の人たちをこれ以上裏切る訳にいかないこと、こうして私自身が水を持ってくることが私のできる限界であることを、必死で謝りながら伝えた。
でも、ダメだった。
彼は私の言う事に全く耳を貸してくれなくて、一方的に私を責めたてた。
「おまえさあ、愛って何か分かってんの?
おまえが信じられるって思ったから、俺はおまえを頼りにしたんだぜ。それなのに土壇場でできませーんとか、そういうのを裏切りっていうんだよ!
おまえは俺と村のクズ共とどっちが大事なんだよ!言ってみろクズ女!!」
……やめて、こんな言葉を聞くために来たんじゃないのに。
私はあなたがもっと優しい人だと思ったから、せめて私だけでもと思って……。
あなたはその口で、私を愛してると言ってくれた。その耳で私がかけた言葉を聞いて、嬉しそうに微笑んでくれた。
今目の前にいるのが同じ人だなんて、信じたくないよ……!
夜明けが近づき、周りが明るくなるにつれて、彼の態度はどんどん激しさを増した。
口で言うだけじゃない、頬をひっぱたかれて、地面についた手を踏みつけられた。
「ほら早く食糧持ってこいよ、愛してるなら行動しろって言ってんの!
おまえの体で役に立つのは口だけか?口だけで愛をささやいて男から食いモンを漁るだけの、最底辺の口だけ女だな。
おまえみたいなのを詐欺師っていうんだよ、この嘘つき!う・そ・つ・き!!」
まるで別人のように私を罵って、言う事を聞けと強要する。
暁の光が変わり果てた世界を照らし出すように、見る間に化けの皮がはがれていった。
ついに太陽の光が私たちを照らし出すと、彼はようやく諦めてこう言った。
「はっ、人がこんなに頼んでるのに、おまえほど冷たい女は初めてだぜ。
俺の役に立たねえおまえにもう用はねえ、あばよ!」
強烈な朝日を背に受けて、彼の体は全身真っ黒に染まった化け物のように見えた。人の心を持たない、人の形をした影のようだった。
私は、今起こっていることがまだ信じられないまま、走り去っていく彼を見送る事しかできなかった。
あの日から、私は夜が明けるたびに憂鬱になる。
日の光の中で月がちっぽけな正体を晒すのと同じように、あんなに温かかったはずの彼の愛は冷たい虚像へと変わった。
彼は私を冷たいと言ったけど、本当に冷たいのは一体どっちだと思ってるの。
私は彼も仲間も傷つけたくなくて、考え抜いた末に苦渋の決断を下したのに……あの言い方は一体何なの。
あれから私は毎日の始まりが辛くて、一日中気分が良かったことなどない。
明けるのは、必ずしもいい事とは限らない。
最近私の村に、男の詐欺師に気を付けろと写真入りの警告文が回ってきた。写っているのは、間違いなく私が愛したあの男。
私の事を詐欺師とか言っておいて、あの男が詐欺師だったなんて……知りたくなかった。
村のみんなは、もうだまされないぞって喜んだけど、私にとっては痛みでしかない。
せっかく立ち直ろうとしていた私の胸に、夜明けの光がしみる傷跡がまた増えた。




