朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪
冬至は過ぎましたが、まだまだ夜が長いです。
ゾンビの世界では夜に火をたくシーンがままありますが、実際にそれをやると火が見える限りのゾンビが寄ってくるという……。
有明の月でも雪の反射でも、自然の光が一番ですね。
冬の朝は遅い。
目が覚めて布団の中でいくら待っても、一向に明るくなってこない。
当然だ、冬はそもそも日の入りが速くて夜が長いのだから。
夜が始まって床に就いて、一しきり寝て目が覚めて、でもそう何度も寝られるものじゃないから明るくなるまでひたすら待っている。
やる事も見える物もない、無明の長夜。
星明りすらない闇夜に、風の音ばかりが響いている。
ただでさえ真っ暗で何も見えないのに、こんな風の音で耳まで塞がれてしまったら、外で何があっても分からないじゃないか。
それに、この身を切るような音は、聞いているだけで体が内から冷えてきそうだ。
かといってうかつに火を灯す訳にもいかないし、これは辛い。
火を灯せば明かりも暖も取れるが、代わりに命を失うかもしれない。
真っ暗闇にぽつんと灯る明りは、食人鬼共への最高の道標。
明かりがあるのは、必ずそこに明かりを必要とする生きた人間がいるから。それに黒く塗りつぶされた空間にぽつんと浮かぶ光は、奴らの腐った目にもよく見える。
生きた人間の肉を貪る食人鬼の出現は、人類から明かりを奪った。
いや、別に物理的に灯せなくなった訳じゃない。ただ、灯すのが己と仲間の命を賭けた大層危険な行為になっただけだ。
明かりは、食人鬼共を引き寄せる。
食人鬼共は思考と理性の一切を失っているくせに、人であった頃の記憶だけはおぼろげに残っているらしい。だから闇夜に灯る明りは人のいる証だと、腐りかけの脳でも分かっている。
食人鬼が世の中を闊歩し始めた時、隠れて生きようとした者は多かった。
しかし夜になって家の窓から光を漏らしてしまった家は、ことごとく食人鬼共の大群に踏み破られてディナーになってしまった。
それに、訪れるのが食人鬼でなくても助かるとは限らない。明りの灯った家めがけて、略奪者や盗賊が、食人鬼に噛まれて自らもそうなる運命の感染者が押し掛けた。
そうして、明かりを灯す浅はかな者たちは徐々に淘汰されていった。
今、この国を覆う夜に灯る明りはほとんどない。
闇を払おうとしてはならぬ、闇を恐れて明かりを灯せばもっと恐ろしい結末が待っている。
だから今は、かつてあんなに明るかった京都の夜にも光はない。人の少ないこの吉野でも、夜の眺めは京都と同じだ。
むしろここに逃げてきた人たちは、皆が用心深く己の命を守るために闇をなすがままにしている。
生きたければ、自然の明るさに手を加えてはならない。
たとえ家のすぐ側に食人鬼がいても、明かりをつけてその地域一帯の食人鬼を全て集めるよりはましだ。身を潜めていれば、食人鬼にも自分の居場所は分からないのだから。
奴らの片付けも含めて、全ての仕事は明るいうちにしろ。
万が一闇夜で戦う事になったら、まず人間に勝ち目はない。
だから生きている者は皆、布団の中でひたすら朝を待つ。
見える物もやる事もなく、気を紛らわす手段など何もない夜を、生きたいという一心で本能的な恐怖に耐え続ける。
冬の夜は、長い。早い日没とともに床に就くから、必然的に日が昇る前に目が覚めてしまい、闇の中で過ごす時間が長くなる。
恐怖との戦いが長引けば、心は弱りつい明かりを灯したくなる。
寝床を出てマッチやライターに伸びようとする手を、必死で押し止める。
夜明けが自然に闇を払うまで、その戦いは終わらないのだ。
どれくらいの時間が経ったのか、気が付けば窓の外が少しだけ白んでいた。
いつもの時間から考えて、夜明けにはまだ早いはずだが。
しかし太陽でなくても、ほのかに地上を照らしてくれるものはある。それは、太陽の光を反射してこうこうと輝く月だ。
夜明け前の空を照らす有明の月が、空に上って光を放ち始めたのだろう。
有明の月が上れば、夜明けもそう遠くはない……僕は待ちきれずに家の戸を開け放った。
戸口の向こうからやって来たのは、ほのかに白い景色。
いつもの月明かりと違い、全てが白っぽく薄い光に包まれて見える不思議な光景。空は晴れているはずなのに、もやにでも包まれているかのように見渡す限り白い薄明り。そのくせ木や家々の輪郭ははっきりしていて、白い中に浮かび上がっている。
これは、一体何だ?
一歩足を踏み出すと、僕はその正体を知った。
足は薄明りを帯びた地面にざくりと食い込み、沈んだ。
沈み込んだ足に、周りからじわじわと冷気がしみ込んでくる。白く柔らかく、触れると熱を奪っていくこの地面は……雪だ。
はっと周りを見回せば、白く明かりを帯びた世界は、一面の雪景色だった。
さきまで星明りすら遮っていたぶ厚い雪雲が、この吉野の真っ黒な夜を銀世界に変えたのだ。
雲が去った空を見上げると、そこには幾千もの星がきらめいていた。周りに他の明りがないせいで、星々は昔よりずっときれいに見える。
砂粒ほどの光を、それでも満天を覆い尽くすほどの数で補い合って、白銀の雪に届けている。
その光を余すところなく反射させる雪が、空と力を合わせてわずかな明るさを生み出しているのだ。
満天の星空に、月はなかった。
太陽がなくても月がなくても、星と雪がこんなにも美しく世界を照らすのだ。
有明の月が空にないということは、夜明けはまだだいぶ先になりそうだ……それでもこんなに明るくなるものかと、僕は少々驚かされた。
ただし、月や星の光に太陽のような温かさはない。
暖をとれない寒い夜は、まだまだ長い。
しかし、それでいい事もある。
有明の月と見まごう明るさの中に浮かび上がった、人に良く似た柱。
足を踏み出そうとした姿勢のまま、片側に雪がびっしりとこびりついて半分白くなった人影。雪に覆われていない方に見える、雪のように白い目。
これは、凍り付いて動けなくなった食人鬼だ。
体温をなくした食人鬼が、雪を伴う寒風に曝されて動きを封じられたものだ。
今宵の雪は、僕の命の恩人だ。
夜明けより前に僕を恐怖から解放してくれて、僕は火を灯さずに済んだ。
それに、月ではなく雪だからこそ助かったこともある。同じほのかな光でも、月に食人鬼を凍らせて封じる力はない。
もしこの光が有明の月で、もう少し温かい風の中外に出ていたら、僕はこの食人鬼の牙にかかっていたかもしれない。
似て非なる明るさ、しかしそれが導く結末はあまりに異なる。
冷たい雪に温かい感謝を手向けて、僕は家に戻った。
星や月の明りでは、何かの影になった暗闇まで消し去る事はできない。全ての仕事は、太陽の下でやるに限る。
静かに閉めた戸の向こうで、ようやく上ってきた有明の月が申し訳なさそうに里を照らしていた。




