あらし吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり
紅葉キャンペーン第5弾、あらしの方がメインかもしれません。
ついにあと一首まできましたが、どうしても似たような情景を詠んでいる歌が多いと内容が似ないようにするのに苦労します。
風が、冷たい。
真っ赤に染まった紅葉が、激しく吹き付ける風に巻かれて吹雪のように落ちていく。
だが、俺はその風に抗って歩き続ける。
俺は、こんな所で散る訳にはいかない……いかに季節が冬に近づこうと、これから訪れる死の世界の一部にはなりたくなかった。
思えば、逆風ばかりの人生だった。
大事な受験の日に限って大雪が降り、就職の時期には大不況で、おまけにやっと入った会社はブラック企業と呼ばれていて彼女など作る暇もなかった。
だが、俺はめげずに前を向いて道を探し続けた。
俺と同じような目に遭って逆風に吹き飛ばされてしまい、枯葉のように底辺へと落ちていく周囲の人間のようになりたくなかったからだ。
いかなる風にも負けず、歩き続ける……逆風だらけの世の中で、俺はその強靭さを身に着けてきた。
風が、顔を打つように吹き付ける。
体を押し返そうとする空気の圧力に抗い、少しでも前に進むために体を前に倒す。
しかし前のめりになりすぎると、風が弱まったところで自分の重みで前の倒れてしまう。押されたり引かれたり、本当に難しい。
一瞬風が止み、少し方向が変わる。
とたんに、前が見えなくなるほどの紅葉がざぁっと宙を舞った。
かわいそうに、一方向からの力に必死で耐えようとしていたのだろう。一方に力を入れるほど他方がおろそかになると、知ってか知らずか。
風が変わるたびに、おびただしい紅葉が木から振り落とされていく。
まるであの日の、人類全体を大きな嵐が襲った時のように。
少し前、人間の社会全体を吹き飛ばす大事件があった。
いや、事件なんて生易しいもんじゃない。俺もこれまでいろいろな逆風を経験してきたが、あんなひどい嵐は初めてだった。
これまで人類が全く予想したことがない方向から、猛烈な死の風が吹いてきた。
あんなものに備えている人間など、ほとんどいなかったに違いない。
これまでの防災や自衛の概念を覆す予想外の災厄に、あれほどの威容を誇った人間社会はあっという間に散っていった。
まるで昨日までの見事な紅葉が、今日一日の嵐で見る影もなく散り果てるように。
惜しむ暇もなく、刻々と目の前で荒廃していく。
だって、死体が動き出すなんて誰が予想できた?
有史以来……いや生物が誕生してから不変の原則だった、死体は動かないという常識がある日突然破られるなんて。
しかもこれまで大人しく寝ているだけだった死体が、自分たちを食べに襲ってくるなんて。
地震、火災、洪水、戦争など……人類がこれまで経験してきたいかなる災厄とも質が違った。
疫病の性質は持ち合わせていたが、原因を究明する時間など与えられなかった。それほどまでに急激に現れた、強烈な嵐だった。
人々はあらゆる姿勢で、その風に耐えようとした。
しかし未曾有の逆風は、あらゆる方向から吹きつけて人々の命を散らした。
家族や友人を大切にして強い絆をもって立ち向かおうとした人は、その副産物である情に縛られ、身内から発生した死体に食われてもろとも散り果てた。
逆に他人を一切信用せず己のみを守ろうとした者は、だいたいが孤立無援となり死体の数に押しつぶされて死んでいった。
一方向だけに耐えようとすれば、突然逆方向に押された時にころっと落ちてしまう。
状況に流されるだけで生きる努力をしなかった人間など、言わずもがな。
そうして、人間社会はあっという間に骸骨のようになった。
生きた人間がほとんど残っておらず、ただその社会の産物である建築物や道具ばかりが無機質に転がっている。
遮る人の壁をなくした風は、容赦なくビルの谷間を吹き抜け、残って耐えていた命を灯をも一つ一つ消していく。
人がある程度いれば力を合わせて耐えられる状況でも、力を合わせられる生き残りはどんどん少なくなる。そして風は、残った者により強く吹き付ける。
頭上を覆う木々を見上げるたび、あの日から続く逆風と重ねてしまう。
昨日の夕刻まではあんなに一面を覆っていた紅葉が、今は穴だらけのレースのようになって青い空がきれいに見える。
必死で木にしがみつく赤や黄色の葉は、透明な風になおも引きちぎられていく。
身を寄せ合っていれば耐えられる葉も、もう身を寄せる相手があまり残っていない。周りの葉が減るほど、一枚の葉にかかる力は大きくなり、それに負けた葉がまた散っていく。
そうして、木々は幹と枝ばかりの骸骨に変わる。
今、俺の足元には散ってしまった紅葉がぶ厚く積もっている。
それが再び舞い上がり、二度と出られぬところに落ちるまでそれを繰り返す。
この風がなければ、母なる木の下で静かに土に還ることもできただろうに。吹き付ける風は、静かな眠りさえ妨げる。
目の前が開けて、俺は思わず足を止める。
眼前に横たわっているのは、血のように真っ赤に染め上げられた川。
しかし血でないことは、少しずつ色味の違うものの集合体であることから見て取れる。
赤の中にところどころ混じる黄色、淡い赤と深い赤が折り重なり、無作為でありながら見る者を惹きつける極上のじゅうたん。
緻密に色の変化を見せる織物の正体は、水に落ちて飛べなくなった紅葉だった。
枝がむき出しになった木々の間で、その川だけが圧倒的な美しさを放っていた。
死んで色あせていく山の中で、そこだけが場違いに華やかで目立っている。
これは、多くの死の上に成り立つ芸術。
数えきれない紅葉の葉がその命を終え、静かに眠る事も許されず吹き寄せられて、死んだ時の色を保ったまま集まってできた廃退の美だ。
俺は、しばしその川に見惚れていた。
しかし改めて広く辺りを見回すと、そこはまさに死の世界だ。
人がいなくなったビルにように、骸骨めいた枝を伸ばす木々。ごうごうと吹き付ける強風に、なす術もなく飛び散る赤。そしてその間を重たい足取りで歩き回る、死んだ時の傷をそのまま残した死体。
これではまるで、地獄絵図だ。
ああ、この世は俺に美しい景色を楽しむことも許してくれないのか。
いくら美しい紅葉の錦も、こんな世界に敷かれていたんじゃ、血の川にしか見えない。
はげた木々は地獄の山に刺さる針と骨。人の叫びのように聞こえる烈風に舞う、血しぶきを思わせる真紅の葉。そして、魂を失って彷徨う亡者の群れ。
こんなものに囲まれていたんじゃ、錦のような希望を与える美しさなど、一瞬で風にさらわれて吹き飛んでしまう。
周りがだめになると、残った部分も生きられない……典型だ。
俺は、静かに川に背を向けた。
俺はまだ生きて、風に耐えていたい。
錦の一部には決してならない、頑なな常緑樹の葉のように、寂しかろうが無様だろうが生き残っていたい。
世を覆う有終の美には加わらず、行けるところまで生き続ける。
だが、それは決して楽な道ではない。
俺の決意を手折ろうとするように、一陣の猛烈な風が吹き抜け、色とりどりの紅葉たちをまた終の錦へと運んでいった。




