このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに
紅葉キャンペーン第4弾、今回は珍しくほっこりしたお話です。
ゾンビはあまり出ません。生きていることへの感謝です。
あと一週間で11月が終わるというのに、紅葉の歌はまだあと二つある。こんなにあるとは思わなかったんだ!
目の前に、山と積まれる山の恵み。
色とりどりの木の実や川で捕れる魚、それに可愛らしいきのこたち……山は私たちにこんなにも恵みをくれる。
でも、それを前にすると、私は少し気恥ずかしくなる。
だって私にはもう、山の神々に正式に感謝の儀式を行うことができないから。
「感謝はね、ちゃんと口に出してこそ伝わるのよ」
両親は、いつも私にそう教えてくれた。
そして自分たちの仕事は、見た目は古臭いかもしれないけど、目に見えない力に感謝を捧げる大切なお仕事なのだと。
うちは、由緒正しい神社だった。
古くから伝わる神事の数々を現代に伝え、正式な手順を厳格に守ってきた。
両親はその儀式に使う、一見何の使い道もないように思える神具の数々を、神様に感謝を分かりやすく伝える道具だと言った。
「人間だって、言葉や動作が必要でしょう?」
なるほど、確かに私たちも気持ちをより分かりやすく伝えるために、身振り手振りを見せたり贈り物をしたりする。
感謝を伝えるために、深く頭を下げてお礼の贈り物を差し出す。
神様の前で舞やお供え物を奉納するのは、それと同じ。
「人間だって神様だって、恵んであげたのに感謝の気持ちが伝わって来なかったら何となく嫌になるだろう?
神様がそんな気持ちにならないように、きちんと感謝を伝えるのが私たちの仕事なんだよ」
穏やかな言葉と優しい表情で教えられて、私はにっこり笑ってうなずいた。
儀式や道具は、神様に通じる言葉と同じ。
じゃあ、その言葉を失ってしまったら、どうすればいいんだろう。
私が今いるここは、神社じゃない、祭壇もない。
神具ももう手元にはない、逃げる時に神社に置いてきてしまった。うかつに戻ると命が危ないから、取りに戻ることもできない。
私は、神様への言葉を失ってしまった。
今も私たちは神様の恵みを受けて、生かされているというのに……。
あの異変が起こった時、私はもう神様に感謝する必要はなくなったと思った。
まるで黄泉平坂が開いてあふれ出たように、練り歩く死者たち。神話の中のイザナミを連想させる、醜く腐りかけて崩れた体。
彼らはこの世を黄泉にしようとするが如く、生きている人々に襲い掛かった。そして襲われて死んだ者も、黄泉の軍勢に加わりさらに死を広げ始めた。
あっという間に、人の世は死者の世に変わった。
神様は何て残酷なことをするんだろうと、私たちは泣いた。
私たちはどうにか神様のお怒りを鎮めようとしたけど、どうにもならなかった。
今までこんな事はなかったから、払い方も分からなかった。
やがて神社にも死者が押し寄せてきて、着の身着のままで逃げる事になった時、私はもう神具に興味をなくしていた。
神様は私たちをこんなひどい目に遭わせたのだから、もう感謝の言葉を伝えることなどない。水も食べ物もなくて、どうせすぐ死ぬことになるんだから、もう神具を使うこともないでしょう、と。
でも、私たちはまだ生きている。
あれから一か月以上経ったけど、私たちはまだ元気に暮らしている。
野山の恵みを受けて、生かしてもらっている。
私たちの住処が、田舎だったのが良かったのだろう。
ボトルに入った水がなくても水道から水が出なくても、近くの山からはそのまま飲める清水が湧き出ていた。
季節は秋、栗やくるみや野生の果物がたわわに実っている。そのままでは食べられないものも、村の老人たちが知恵を出し合って食べられるようになった。
きのこは食べられるものだけを集めても、かなりの量が取れた。山芋のつるが、いたるところにからみついていた。
川には魚がいるし、普通に暮らしていた頃は厄介者だった鹿やイノシシ(猟をする人が少なくなったせいで少々増えすぎた)も美味しくいただけた。
人が作らなくても、こんなに食べ物があるなんて。
これを神の恵みと言わずして、何と言うのだろう。
生き残った皆で焚き火を囲みながら、戸惑う私に老人が言った。
「そりゃあ、害をなす神さんもありゃあ助けてくれる神さんもおるわね。
この国には、八百万の神さんがおるだで」
それを聞いて、私は自分が恥ずかしくなった。
人の心が皆違うように、神様の心も一人一人違う。
私は死者が歩くのを見て、私たちは見捨てられたんだと思い込んだ。でもそれは間違いだった、まだ私たちに恵みをくれる神様はいたんだ。
……でも、私にはもう感謝を伝える言葉がなくて……。
たくさんの食物を前に、私はすまなさそうに頭を垂れるしかなかった。
すると、そんな私の肩を、誰かがポンと叩いてくれた。
「大丈夫、道具なんかなくても、ちゃあんと伝わっとるよ。
下ばっか向いとったら、せっかくの嬉しそうな顔が神さんに見えんで。こっちに来て、向こうを眺めてごらん」
老人に手を引かれるままに、私は高台に立ち、眼下を見渡したとたん……。
「うわあ……!!」
思わず漏れる、感嘆の息。
さっきまでの重い気持ちを全て吹き払う、色とりどりの風が心に吹き込む。
眼下に広がる山肌を覆っているのは、赤、オレンジ、黄色、緑……それぞれの間の色も混じり合った紅葉が織りなす、上等の錦にも劣らぬ色の芸術だった。
ふしぎだった、どうしてこんな美しいものを自然は作り出すのだろう。
山からはたくさんのものをいただいたのに、まだ、これほどの……。
感動にうち震える私に、老人はにっこりと笑って言った。
「うん、いい顔になった。
言葉に出さんでも、その顔としぐさを見れば喜んどるのは誰にでも分かるて。神さんにも、ちゃあんと伝わっとるよ」
それを聞いて、私の中のわだかまりがはらはらとほどけていった。
感謝を伝えるのは言葉でなければならないと、誰が決めたのか。
言葉を知らない幼児でも、顔を見ればだいたい何を思っているのか見当がつく。その顔が笑っていれば、周りの人はその気持ちを受け取って心が温まる。
気持ちは、口に出さずとも自然に伝わるものなのだ。
そもそも、今のような神具や祭壇がなかった太古の人々は、どのように神様に感謝を伝えていたというのか。
神具がなければ伝わらない、では成立しない。
その時代の人々も神々に感謝し、それぞれの方法で伝えようとしていた。手近なものを神様に捧げ、強く祈る事で。
今、私の目の前には最高のお供え物が広がっていた。
これほど美しく心に染み入る紅葉は、どんな儀式よりも神具よりも心を震わせる。
しかもこの光景は、今この時にしか見られないものだ。季節は何度も巡るとはいえ紅葉の具合は毎年違うし、数日経てばこの山々の色合いも変わっていく。
今日この日の紅葉こそが、神々への最高の贈り物だ。
「お祭りを、しましょうか?」
私は、笑顔で皆に声をかけた。
今この季節に、与えられた恵みを皆で楽しみ、この紅葉と皆の笑顔を神様に見てもらおう。きっとそれが、今の感謝を伝える一番の方法だから。
捨てる神あれば拾う神あり。
この世の大部分が地獄になっても、私たちはまだ生きている。
ならば私たちは拾う神に最大限の感謝をし、その御心のままに頑張って生き続けよう。そうやって全力で応える事が、きっと最大の恩返しになるから。
この紅葉の錦はきっと、神様が私たちにくれた何より素晴らしい応援旗。
神様からも言葉はないけれど、私たちにはちゃんと伝わっているから。




