ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは
紅葉キャンペーン第2弾、紅に染まった川です。
一昨年は岐阜県の谷汲に紅葉を見に行って来ましたが、きれいでした。
今年もどこかに見に行きたいが、予定が立たない……無念。
この凄惨な世界が、神の怒りでなければ何なのだろうか。
この世が地獄になったあの日から、俺たちは命からがら逃げ続けている。
ガサガサと落ち葉を踏み分けながら、俺は山を進む。
行くあてなんてない、ただ人のいない方向……安全そうな方向を目指して歩くだけだ。
「お、お兄ちゃん……待って……」
後ろから、か細い声が追いかけてくる。
「あたし、のど渇いたよぉ……ねえ、あそこに川あるから、行って飲もうよぉ……」
妹が、いかにも哀れっぽく声をかけてくる。さすがに渇きが限界に近付いてきたか、最後の水を飲んだのは昨日の夜だ。
でも、そう来易くそうですねと言う訳にはいかない。
「あんな町の近くにある川の水飲んで、父さんがどうなったか忘れたのか?」
低く言い放つと、妹は押し黙る。
俺たちの目の前で起こった、とある悲劇を思い出したのだろう。
今の世の中、ほんの少しの油断も死につながる。父さんみたいに日和見主義で目先に囚われたら、あっけないほど簡単に死ぬんだ。
水は命の恵み、そして死の罠でもある。
うちの神社は、名水で有名だった。そして父は、信心深い神主だった。
信心深いといえば聞こえはいいが、実際は信仰に名を借りた思考放棄だ。父は面倒なことを相談されるとすぐ神話の例えを持ち出して、昔もこういうことはあったのだから、と全てを前例踏襲で済まそうとした。
そして、前例がないといつもこう言う。
「そんなのは、神様の時代にも聞いたことがないなあ」
苦笑いして、自分の専門外だと退けてしまう。
それでも、父はうまく神社を切り盛りしてきた。今すぐ差し迫った前例のない事態が起こらなければ、父のやり方でも十分やっていける。
そして、そんなに昔からなかったことは今もそうそう起こらないんだなと、俺たちも子供心に納得していた。
しかし、初めての異変は突然起こった。
今まで経験したこともない、恐ろしい病気の流行……症状から、巷ではゾンビ病と呼ばれていた。
始めは風邪のような症状が数時間で急激に悪化し、血を吐いて死に至る。そして死んでいるにも関わらず動き出して、人を襲う。
初めは、ただの暴動として報道されていた。俺はネットで情報を集めてそうじゃないと気付き始めていたが、父は俺の警告に取り合わなかった。
「そんな神様の時代にもなかったこと、ある訳ないよ」
と言って笑った。
だが、事態はすぐに押し寄せてきた。
ゾンビに襲われてけがをした人、家から追い出された人たちが、神社に逃げ込んできたのだ。
父はそれでも、日和見を崩さなかった。ゾンビを見た人たちの必死の証言をいつものセリフでかわして、常識に従ってけが人を保護し始めた。
その後神社がどうなったかは、言うまでもない。
半日も経たないうちに、死んで動き出した人たちが周りの人を噛み始めて、神社は阿鼻叫喚の地獄と化した。
父が俺と妹を連れて半狂乱で逃げ出したのは、母が目の前で噛み殺されてからだった。
外は、地獄絵図のようだった。
紅葉の名所で有名だった近くの川は、紅葉の季節にはまだ早いのに真っ赤に染まっていた。死体から煙のように広がる血が、川を赤く染めていた。
父もさすがにその川の水は飲まなかったが……油断を捨てた訳ではなかった。
「ここはきっと大丈夫だろう。ここまでは滅多に人は来ないから」
町はずれの水源まで来て、父は言った。
町の中にある名水汲み場の、上流にある細い川。確かにその辺りには人気はなかったし、着の身着のままで逃げ続けてのどが渇いていた。
それでも、俺は軽々しくその水を口にする気になれなかった。さっきの、血に染まった川が頭にこびりついて離れなくて。
どうしても心配で、川の曲がりくねった先を少しのぞきに行ってみると……嫌な予感は当たった。
ビクビクと体を引きつらせるゾンビが、水に突っ伏していた。
「だめだよ父さん、この水も……」
俺が戻って声をかけると、父はもうすでに水に口をつけた後だった。
半日後、父は体がだるいと言い出し、熱を出した。翌朝にはあからさまに顔色が悪くなって、せっかく食べたなけなしの食べ物を吐いた。それから昼近くなると、吐いたものに血が混じり始め……。
それでも泣いていつもの言葉にすがろうとする父を、俺はこの手で楽にしてやった。
捨てても、起き上がって追ってくるだけだ。それに、こんな思考停止人間のために他の人が命を落とすと思うと、憎らしくてやりきれなかった。
それから、俺と妹は用心に用心を重ねて逃げている。
飲み物はできるだけボトルに入ったものを頂戴し、野山の水を飲むときは必ず一度沸かしてからにした。
ゾンビの血で真っ赤に染まった川、それに赤くなくてもひっそりと毒に侵された水……感染する原因は噛まれるだけじゃない。
俺たちはそうして、命を守ってきた。
それでも、どうしようもない時は来つつある。
昨日の夜、最後の安全な水を飲んでから、俺たちは水場を見つけられずにいた。妹だけじゃない、俺だってのどが渇いて苦しい。
だが、うかつに人の住む近くの水を飲めば、それは命取りになるかもしれない。
しかしこのまま徐々に弱って、動けなくなって死ぬよりは……脱水が、俺たちの心と体を蝕んでいく。
「お兄ちゃん、川がある!」
だいぶ山を下りたところで、妹が叫んだ。
見れば、その先には燃えるように真っ赤に染まった川。
「だめだ、その水は……!!」
慌てて駆け寄って、俺ははっと目を見開いた。この川の赤いのは血ではない、川辺を覆う紅葉の葉が川底に積もってそう見えるだけだ。
ちゃぷん、と手を入れて葉を押しのけると、手の上を流れるのは透明な水だった。
拍子抜けは、あっという間に安心に変わった。
「飲める……のか?」
汗が出ず熱がこもり始めた体に、その水の感触はとても心地よかった。
色だけに惑わされて血の川だと思ったら、何のことはない……ただの紅葉が見せるだまし絵だ。
そう思うと、もう我慢などきかなかった。
俺も妹も、夢中になってその水を飲んだ。ゴクゴクと小気味良い音を立てて、渇いた体に思う存分水を流し込んだ。
そしてようやく元気を取り戻したところで、俺はすぐ側で動くものに気づいた。
灰色と黒の幹に、大量の紅葉の葉をまとった何かが……ごそりと動いて近づいてくる。
「危ねえ、それは木じゃない!!」
あわや妹に触れる寸前だったものを、俺は一撃で打倒した。
棒が食い込んだところの少し下には、真っ白に濁った二つの眼球。そのもう少し下には、黄ばんだ歯が並んだ口。
これは、ゾンビだ。体中に紅葉の落ち葉が張り付いて、景色に溶け込んでいた迷彩ゾンビだ。
倒れたソンビを見て、俺は気づいた。
なぜ、ソンビがこんなきれいな紅葉迷彩になっているのか。
よく見れば、ゾンビの体はぐっしょりと濡れていた。そこに濡れた落ち葉が大量に張り付き、倒木のようになっていたのだ。
歩いた跡を見れば、今しがた水を飲んでいた川の深みから出てきていた。
俺と妹は、ゆっくりと顔を見合わせた。
少しして、水に紅葉より鮮やかな赤が広がった。
かち割られた妹の頭から、真っ赤な血が流れ出して水を不透明な赤に変えていく。
そのうち、別の所からしたたり落ちた茶色い液が、その水の赤に深みを添えるだろう。
近くの木で首を吊った、俺の体から漏れていく体液と排泄物が……。
最期にもう一度水場を振り返って、俺は吐き捨てるように言った。
「こんな罠、神様の時代にも聞いたことねえよ……!」
水を染めるのは紅葉か血か、両方という答えもあったのだ。
水に広がる赤と茶色は、元々そこにあった落ち葉に紛れて薄まりながら流れていった。




