天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ
どうにか体調が戻ってきました。
ゾンビ映画とかでは女性が最後まで生き残ることが多いですが、実際ゾンビ災害が起こったらどうなるのか……。
そしてその結果、男が払うことになった代償とは。
かつて、理想の乙女は天から下りてくるものだったらしい。
天から来た汚れなき乙女を手籠めにする……そんな伝説が各地に残されている。
だが、その時代の男たちは別にそうする必要があった訳ではない。
なぜならその時代、女は地上にもたくさんいたのだから。
失って初めて大切さに気付く……よくあるフレーズだ。
このくだりは、主に失恋の歌などで愛する女に去られた時などに使われる。君の愛が僕を癒してくれたのに、みたいに。
でも、正直その男はまだそれほど切羽詰ってはいない。
なぜなら女は他にもたくさんいるし、去って行った女だってたいていはこの世に生きているじゃないか。
全てを手の届かないところに失った訳じゃない。
今の……僕らみたいに。
目の前で、女たちが荷物をまとめている。
そのうちの何人かは、仲間の男の何人かとの別れを惜しんでいた。
「……三週間くらいたったら、また来るわ」
女たちのそっけない別れの言葉を聞き流し、僕はその姿を目に焼き付ける。
黒く艶のある長い髪、男とは違うきめ細やかな肌、何とも言えぬ魅惑的な曲線を帯びた体つき。
その全てが、今では貴重品だ。
今目に焼き付けておかなければ、しばらくは見る事もできなくなってしまう。
彼女たちはもうすぐ、雲の上に帰ってしまうのだ。
女たちは、牛や馬を何頭も連れていた。
その背には毛布やシーツなどの日用品と、これまた貴重な食料がたっぷりと積まれている。全部、僕たちが集めてきた物資だ。
それを女たちは事もなげに回収し、雲の上に持っていく。
女ばかりが住まう、雲海の上に。
彼女たちは皆、雲の上に住まう……天女なのだ。
今や、この地に残った女のほとんどは天女だ。
どうして女たちが天女になってしまったのか……その原因はロマンチックな神話でも、幻想的なファンタジーでもない。
死体が歩き、生きた人間を襲う……夢も救いもない理不尽な悪夢だ。
死体が襲ってきた時、人間たちは老若男女問わず己の命を守ろうとして逃げ惑った。その人間同士の混乱は、さらに犠牲者を増やした。
皆が利己心むき出しで生きるためにあがいた時、生き残れるのはより足が速く、力の強い者が多かった。
老より若、女より男が有利だった。
そんなサバイバルに明け暮れる日々が続き、ようやく生き残った人間たちが安全な拠点を作って辺りを見回した時……僕たちは、生物としてひどくバランスを崩していた。
女の数が、男よりはるかに少ない。
夫婦を作るのに数が足りないとか、そんなレベルじゃない。
集落や地域の存続……最悪を言えば社会や種の存続が危ぶまれる数になっていた。
どうしてこんな事になってしまったのか……原因は体力の性差だけではない。
男は元々、一人の相手をいつまでも大切にしようとするのと逆の本能を持っている。浮気性……次々と違う女を手に入れようとする。
雄としては、効率よく進化してきた結果だろう。
しかし男女が逃げていて女が危機に陥った時、その本能は仇となった。男は自分が逃げるために、女を突き放した。
次にまた別の女を捕まえればいい……そう思ったのかもしれない。
もちろん、逆もあっただろう。しかし体力のない女が危機に陥る場面は、男のそれよりはるかに多かった。
それに、もっと邪な欲望をむき出しにする輩も現れた。
どうせ世界が終わるなら、いつ死ぬか分からないならと……暴走する欲望のままに女を暴行する男たちが現れ出した。
そういう奴は自分が手に入れた女を大切にせず、自分が危なくなったらすぐ切り捨てて死なせてしまう。自分に不都合な行動を取られても、すぐカッとなって殺してしまう。
そんな事を繰り返したら、そのうち女がいなくなってしまうのは目に見えているのに。
気が付いたら、女は希少な存在になっていた。
このままでは、次世代に十分な子孫を残せない。
「女を、隔離して皆で守ろう」
誰かが言ったその意見に、多くの男たちは賛成した。
女の数がこれ以上減るのはまずい、女をこれ以上危険に曝す訳にはいかない。
男たちは周辺の女たちをできるだけ集め、死体や無法者が容易に近づけないよう、険しい山の上に要塞を築いてそこに住まわせた。
文字通り、雲の上の隔絶された世界に。
そして男たちは、そこを守るように防衛線に沿って集落を作っている。
こうして、この周辺の女は全て天女になった。
すぐ手の届く地上を歩いている女は、いなくなった。
……僕は、あれ以来女に触れたことがない。
女と愛し合い、その体に触れ、子を仕込むことができるのは、大きな功績を立てた一部の勇士たちの特権になってしまった。
子を産める女の数は限られているのだから、できるだけ優秀な男の子を残すべきだ。
余計なトラブルを生まないために、例外は認めない。
女たちも、自分たちが生き残るために厳しく己を律している。……というか、それができない惚れっぽい女はほとんど残っていない。
つまり僕のような弱い男に、そのチャンスはないということだ。
僕は、去っていく女たちを黙って見ている事しかできなかった。
せめてその姿だけでも目に焼き付けようと、にらまれても構わず目をこらす。
そんな僕を冷たく嘲笑うように、にわかに風が吹いてきた。あんなに愛しい女たちの姿が、砂ぼこりにかすむ。
しかし、そこで意外な声がかかった。
「おい、この天気で山に登るのは危険だ。
今日は俺らの集落に泊まっていかんか?」
願ってもない奇跡だった。
この強風が、女たちの天に帰る道を塞いでくれたのだ。帰り道がなければ、女たちはここにしばらく残るしかない。
大昔の、羽衣を奪われた天女のように。
僕はみるみる緩んでいく顔を見られないように、真っ赤な顔で空を見上げていた。
風は強く、雲は早く流れて濁流のようになっている。
(できるだけ長く、この風が続きますように……)
自分の欲のためだけの、あさましい願い……それでも僕は、この風に感謝せずにはいられなかった。




