有馬山猪名の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする
信用できない人間ほど、他人が信用できないと言ったりしてませんか?
今回はそんなお話です。
ざあざあと、風が流れて笹の葉が鳴る。
その音に紛れきれず、がさがさとひときわ大きな音が笹原に響く。
人の腰ほどもある笹をかき分けて、一組の男女が広大な笹原を駆けていた。二人が手で笹を払うたびに、笹は大きな音を立てる。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
女が尋ねた。
「こんな大きな音出して、本当に気づかれない?だってあのゾンビ共、すごく耳がいいって噂だよ。
それに、こんなに笹が深いと、下に隠れてたら気づかないよ!」
男は女の質問には答えずに、ぐいっと強く手を引っ張る。
「うだうだ言ってんはねえ、本当にどうしようもない奴だなてめえは!
助かりたかったら、黙って俺についてこい!!」
女は少しためらう顔をしたが、うなずいて足を速めた。
(私は、この人について行くと決めたんだ。
だからこの人が不安にならないように、私もこの人を信じなきゃ)
走っても走っても足を緩めない男について、女は懸命に走る。
もうとっくに足は腫れ上がって痛くて、息が上がって心臓は爆発しそうな速さで打っている。あまりの苦しさに視界がかすみ、周りがよく見えない。
いや、目が見えていても、この深い笹原で足元を見通すのは難しい。幾重にも重なった、不透明な笹の葉が地面をくまなく覆い隠している。
「あっ!?」
踏み出したところに、普通の地面がないと気づいたのは一瞬の事。
男に気づいてもらおうにも声が出ず、手を引こうとしても逆に力任せに引きずられ、女は笹の中に倒れこんだ。
「きゃあああ!!?」
その悲鳴に気づいたのか、男がようやく振り向いた。
しかしその顔に浮かんでいるのは、苛立ったようなうるさがるような表情だった。
「お、お願い助けて……足が、岩に挟まって……」
笹の葉に切られたボロボロの顔で、かすれた声を必死で絞り出し、女は男に助けを求める。
しかし男は怒ったような顔で女を見下ろし、冷たく言い放った。
「……傷だらけで、ブッサイクな顔になっちまったなあ!俺の前ではいつもキレイにしとけよって言ったの、忘れたのかよ。
約束も守れねえ、ダメな女だな!」
あまりにひどい言葉に女は驚き、反論しようとしたが……一つの物音がそれを遮った。
ガサリと、何かが笹をかき分ける音。
原っぱ全体を覆う笹のなびく音とは違い、すぐ近くから聞こえた。
女は、凍り付いた。
近くに、あれがいるんだ。
男はそれに気づくと、一瞬気まずそうに目を泳がせた後、あてつけのように言い放った。
「……てめえがヘマしなけりゃ、こんな所さっさと抜けられたのによ!約束も守れねえ、ついて来やしねえ、そんな女の愛なんざ信じられるかよ!
てめえとはここまでだ、あばよ!!」
吐き捨てるようにそう言って、男は脱兎のごとく逃げ出した。
女は、信じられないような顔で男の背中を見送っていた。
自分は男を愛していたのに、男も自分を愛していると思っていたのに。だから男が自分のことを頼りないとか信じられないとか言うたびに、必死で信じてもらおうと頑張ってきたのに。
女は、走り去っていく男に向かって叫んだ。
「私、絶対にあなた以外に振り向いたりしない!
あなたの事を一時も忘れたことはないわ、これからもずっと……!!」
後ろ髪を引く言葉が途切れ、断末魔の絶叫に変わる。
それも風と笹の音だと言い聞かせて、男は去って行った。
女の足に、腐汁にまみれた歯が食い込む。
女は必死に目を閉じて、男との思い出だけを脳に映していた。
きっともうすぐ、それもできなくなる……ゾンビに食われた者は、自らも食欲の奴隷と化して心を失う運命にある。
それでも女は、激痛に叫びながらも男の面影にしがみついた。
それは、死にゆく身でありながらも幸せを求める女の執念だったのかもしれない。
やがて、生命反応の停止が女の心を黒く塗りつぶしていった。
数か月後、男は再び笹原を走っていた。
「……ちくしょう、何て女だ!
好きな男の命が惜しけりゃ、食料ぐらいケチケチするなよ……」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、人一人いない笹原を駆ける。
男は、追われていた。海沿いの割合食料のある避難所で、己の持つ天性の資質を使って、たらふく食い物にありつこうとしたせいで。
行く先々の避難所で、男は生まれ持った外見のたくましさで女をたぶらかしては、利用して大切な物資をくすねた。
だが、これはこの荒廃した世界では許されない事。
ゾンビが徘徊するようになった世の中では、水や食料は貴重品だ。
命の次に大事な物を奪われた海沿いの住民は怒り狂い、男は指名手配犯のように逃げ隠れしなければならなくなった。
避難所の女たちも警戒し、仕事はこれまでのようにうまくいかなくなった。
もうその地域では生きていくことができず、海沿いのいい道を使って逃げることもできず……人のいないこの有馬山に逃げ込んできたのだ。
「チッ……どいつもこいつも、すぐ心変わりしやがって!
どっかに最後まで信じられる女はいねえのかよ!!」
世の女たちの薄情さを呪いながら、男は逃げる。
外見と上辺でなびく女は多いが、その中に裏切らない奴は数えるほどしかいなかった。今後は女も使い捨てはやめて、裏切らない女をできるだけ長く使った方がいいのかもしれない。
そう思いながら走っていた男は、突然何かに足を滑らせて転んだ。
「うぉっ!?」
地面に叩きつけられた衝撃に身もだえしていると、何かが男の足を掴んだ。慌てて笹を払うと、そこにあったのは見たことのある女の顔だった。
(あなたのことを、一時も忘れないわ……)
女は、ずっとここで男を待っていたのだ。
足を岩に挟まれたまま、他の男に口をつけることもできず、ひたすら腹を空かして男を待っていた。
震えあがる男の足に、女の腐汁にまみれた歯が食い込む。
同じようにゾンビになれば、もう何も食べなくても死ぬことはない。その代わり、いくら食べてもその飢えが満たされることはなくなるけれど。
こうして、一途な愛は実を結び、二人は仲良くゾンビになった。
そして、風にそよぐ笹の下で動けないまま身を横たえ、二人のためのディナーを待ち続けた。




