滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ
滝の名とゾンビをどう組み合わせていいものか、悩んだ結果、人工の滝であるダムになりました。
ゾンビは出てきません。
崩壊した世界で、水への希望に魅せられるお話です。
人の心情を読んだ歌と比べて、こういう歌は難しいですね。
人間が生きていくのに、最も必要なのは何だと思う?
それは、飲める水だ。
水がなくては人間は生きていけない。こんな常識的なことを、日常的に意識せざるをえない日が来るとは、誰が考えただろうか。
「みんな、あと少しだ」
俺は、ぞろぞろと後についてくる仲間を鼓舞した。
実際、後ろの仲間たちは皆、気力で動いているようなものだ。
もう何日も、まともなものを食べていない。野宿続きで、ぐっすり眠れてもいない。いや、下手にぐっすり眠ったらもうここにはいないだろう。
なぜ、こんな苦しい旅を続けてきたのか。
理由はただ一つ、水があるからだ。
登山道が途切れ、舗装された道路に出た。
「止まれ、音を立てるな」
まず俺が先に出て、様子を伺う。大丈夫だ、周りに人影はない。
俺が合図をすると、仲間たちはそれでもおどおどと辺りを見回しながら道路に出てきた。
道路の先にバスの駅がある。まずはあそこで、小休止だ。
「……何もなかったよ」
ベンチで休んでいる俺のところに、仲間が報告に来た。
土産物屋を兼ねたバスの駅だったので、何か物資が残っているかと期待したのだが……どうやらアテが外れたらしい。
土産物売り場も自動販売機も、すっかり荒らされて何も残っていなかった。
「ったく、水の一本も残ってねえ!」
毒づく仲間を落ち着かせるように、俺は地図を見上げて言う。
「まあまあ、もう少しで好きなだけ飲めるようになるさ」
その言葉に、仲間たちも乾いた唇をすり合わせながら付近の地図に目をやる。
皆の心を捕らえて放さない、偉大なるその名は……黒部ダム。
世界が平和だった頃、俺たちは好きな時に好きなだけ水を飲めた。
街のいたるところに水道の蛇口があって、安全な水が無尽蔵に出てきた。コンビニでもスーパーでも、好みの味のついた水が安価にいくらでも手に入った。
失われて久しい、夢のような世界。
それがとても繊細なバランスの上に成り立つ楼閣のようなものだと気づいたのは、どうしようもなくなってからだった。
世界が変わったあの日、夢みたいな日常は夢のように儚く消えた。
全世界を襲った、死体が歩き出す病……あの悪夢は今、不動の現実として世界を覆い続けている。
人が死んで起き上がって、人を襲ってまた歩く死体が増えて。
その災厄によってもたらされた人口の急激な減少は、それまでの当たり前の日常を崩壊させるのに十分なものだった。
スイッチを押せばつく電気、コンロのつまみをひねれば程よく出てくるガス、蛇口をひねれば溢れ出す清潔な水……それらは全て、人が作ったものだ。
作り方を知る人がいなくなれば、それはもうできなくなる。
作るのに必要な施設が動かなくなれば、もう手に入らない。
特にそのまま飲める清らかな水は、人が生きていくのに何より必要なものだったのに。
水不足は、ありとあらゆる場面で牙をむいた。
飲み水不足は言わずもがな、体を清潔に保つこともできず、汚れたものを洗うこともできず、食物を得るための畑の水すら雨に頼り……せっかく長く生き延びた人間同士が、大昔のように水を巡る争いで死んだ。
生存者の中で赤ん坊が生まれても、以前のように簡単には育たなかった。
赤ん坊を健康に育てるために、どれだけの水が要ると思う?
俺が以前暮らしていた場所にも、小さな骨を埋めた墓がいくつも並んでいる。きれいな水があれば助かったはずの、怪我や病気で死んだ新しい命たちだ。
誰もが皆、そんな生活に嫌気が差していた。
そんな時だ、ある旅人がこの情報を与えてくれたのは。
『黒部ダムと、そこにある浄水施設は健在だ。
そこには多くの人が集まり、水に恵まれた理想郷を築いている』
頭の中に、いつか見た壮大な風景が浮かび上がった。
どっしりと頼もしいコンクリートの壁、そこから吹き出す大量の水、もうもうと上がるしぶきが大きな虹をかけて……。
写真だったのかテレビだったのかは分からない、在りし日の黒部ダムの姿だ。
重要な水源、そして観光の名所としても全国にその名を轟かせていた黒部ダム。おそらく、日本中で最も有名なダムだった。
特に観光放水によってすさまじい勢いで絶え間なく吹き出す水は、自然の滝にはない雄大な眺めだった。
あの光景はまさに、無尽蔵の水の象徴だった。
「黒部ダムに、向かおう」
安全な拠点を捨てても、皆がその希望に心を奪われた。
あの災厄の年から十数年、水不足に悩まされない生活を誰もが夢見ていた。
それに、そこは理想郷というくらいだから、きっと今より豊かな生活ができるはずだ。
そもそも、生活な水がいつでも使えること自体が、今ではとんでもない贅沢なのだ。泥で濁ったり、漏れた化学物質で汚染されていたり、歩く死体が浸かっていたせいで腐臭がしたりしない水を好きなだけ……。
ここまで来るのは、本当に必死だった。
慣れない旅で疲れ果て、野宿しているところを歩く死体に襲われ、仲間は歯が抜けるように倒れて減っていった。
それでも、俺たちは歩き続けた。
それほどに、無尽蔵の水は魅力的だった。
黒部ダムという偉大な名の響きが、俺たちの心をさらに掴んだ。人間が作り出した水の支配者、どうかその庇護にあやかろうと。
「さあ、ここを抜ければ見えるはずだ!」
疲れてかすかに震える足に力をこめて、荒れ果てたコンクリートの上を歩く。
かつて、黒部ダムへの観光に使われた、長い長いトンネルだ。
懐中電灯の照らす先以外は真っ黒な空間が広がっているが、死体の姿はない。きっと、その理想郷の人々が駆除したのだろう。
トンネルの先に、白い光が見え始めた。
「ああ……ついに……!」
皆、我先にと走り出した。
もうほとんど体力が残っていないはずなのに、希望はこんなにも力をくれる。
俺も皆とともに光の下に飛び出し……一瞬まぶしさにくらんだ目が慣れてきたとたん、ポカンと口を開けて立ち尽くした。
「何だよ、これ……!?」
目の前にあるのは、無残に中央が崩れたコンクリートの壁。
かつてとうとうと水をたたえていた湖は底がむき出しになり、すでに生えてきた草木で緑色になっていた。
あの雄大な水のアーチはどこにもない。
その時、にわかに周りから声がした。
「今だ、やっちまえー!!」
気が付けば、俺たちは十数人の男に囲まれていた。
「しまった、罠……!」
皆に逃げろと指示を出す前に、木と石でできた簡素なハンマーが俺の頭にめりこんでいた。
久々にやって来た獲物を前に、山賊のリーダーは舌なめずりをした。
「さあ、使えそうなモンは全部奪っちまえ!
全員死んだか確認して、頭を潰してから捨てろ!」
手下たちが、手際よく獲物の装備を剥ぎ取っていく。
今日の獲物は、食料以外は大漁だ。
リーダーは満足そうに笑みを浮かべると、もはや用を為さなくなったコンクリートの壁を見つめた。
「こうして獲物にありつけるのも、アンタのおかげだ。
ありがとよ、黒部ダム!」
人の作ったものは、手入れがなければいつかは壊れる。
かつてあれほど威容を誇った黒部ダムは、数年前の洪水ですでに使い物にならなくなっていた。
それでも、コイツにはまだ利用価値がある。
それは、日本中に知れ渡っていた名だ。水を支配する本来の力を失っても、その名は少し使い方を考えればこうして人々を呼び寄せる。
おかげで、自分たちは引き寄せられた人間どもから時々物資を調達できる。
「ここは、俺たちの理想郷だ」
きっとこれからも、その名が人々の中に流れ続ける限り、ここを訪れる者はいるだろう。
音を失って黙りこくったダムの残骸に、山賊たちは心から感謝した。




