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ゾンビ百人一首  作者: 青蓮
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田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ

 お正月の初夢といえば一富士二鷹三なすび。

 そして富士山の世界遺産登録を祝って、富士山ネタです。

 山は登る器用さでは人間に有利かもしれないが、気候を考えるとゾンビに有利だと思う。

 かつて、富士山は霊山と呼ばれ、畏れ敬われていたらしい。

 この海岸からも見える雄大な姿、人を寄せ付けない高さと厳しい気候、それらは多くの人の心を惹きつけて多様な芸術を残した。


 今、富士山は死霊山と呼ばれ恐れられている。

 いや、呼んでいる人はもう少ないのかもしれない……少なくとも、前に会った人はそう呼んでいた。

 近づこうとする者は、いない。

 生きたければ、近づいてはならない。

 かつて多くの登山客でにぎわったあの山には、今は膨大な数の死霊があふれていて、神の山の残光に引き寄せられる哀れな人間を残らず死に引き込んでしまうから。


 死霊……実体のない本物の霊を含めるなら、多分前からいたのだろう。

 富士山を登ることは、山の見た目ほど簡単ではない。

 登るに従って容赦なく下がっていく気温、薄くなっていく空気……今も昔も、富士山は己を甘く見た者に手加減のない罰を下す。

 それで命を落とした者は、ずっと昔からいる。

 だけど、そうやって死んだ者が他者の命を奪うことはない。

 実体がなくなってしまった死者たちは……もう生者に触れることはできないのだから。


 困るのは、実体のある死霊たちだ。

 死んでも朽ちるまで大人しく寝ておらず、起き上がって他者を死に引き込む迷惑者。

 富士山は今、そんな奴らの巣窟になっている。


 この迷惑な死霊が発生した時、人間たちは少しでも人気のない地方へ逃げようとした。

 なぜ人気のない方かと言われれば、人間が多くいるところは死霊の巣窟に変わってしまいやすく危険だからだ。

 死霊は、仲間を増やす。

 死霊に傷つけられた人間は、二、三日のうちに死んで死霊に変わる。そして周囲にいる生きた人間に噛み付き、もっと死を撒き散らす。

 だから人間たちは、人間が少なくて死霊も少ないであろう地方へと逃げ出した。


 人口の集中した太平洋ベルトから、東北へ、中部の山間部へ……。

 何千万もの人々が、準備もなしに大移動を始めた。

 中でも、北の厳しい気候の中で暮らす自信のない者たちが、中部の山間部を逃亡先に選んだ。


 関東から近い山梨、群馬の街にはすぐに避難民があふれ、死霊に変わった。

 後から来た避難民はそれを察知すると、進路を南に変えて迂回せざるを得なかった。しかし死霊の波は名古屋からも広がっており、どこかで山に入らねば危ない。


 かくして、富士山の周りの道路も、すぐに避難民で埋まった。

 しかしその頃には、死霊の侵略はすでに中部の山間の街を襲い、逆に死霊が溢れ出してくる有様だった。

 進むことも、退くこともできない。

 東からも西からも北からも、死霊の波が迫ってくる。

 そのうち動けない車の中からも死霊が飛び出し、周りの人を襲い始める。

 もはや逃げ場は、一つしかなかった……富士山だ。


 富士山を取り巻く道路から、着の身着のままの人間が次々と山に入った。

 追い立てられ、休む間もなく狩られ続けていた人間。もはや考えることは、一時の安息を得ることのみ。

 そんな人々の目に、富士山は最後の砦のように映った。

 富士山に住んでいる人など数える程しかいないから、きっと死霊などいないはずだ。

 山に登れば、動きの遅い死霊を突き落とすことなど簡単なはずだ。

 山小屋には食料が備蓄してあるから、きっとそれで数回分の食事はしのげるはずだ。


 こうして、死の包囲戦が始まった。


 少しでも人のいない高いところを目指して、ふもとのほぼ全方位から人が登り始める。それを追って、死霊たちが包囲の輪を縮めていく。

 登るにつれ、人々は自分と同じ選択をした人の多さに驚く。

 しかし、もう逃げ場はどこにもない。

 これが連なった他の山ならば、険しい尾根伝いに他の山系へ逃げられたかもしれない。

 だが、富士山はたった一つの大きな円錐でしかない。

 輪の中に入ったが最後、行けるところは山頂しかないのだ。


 ばたばたと、人が倒れていく。

 体力が尽きた順に、山頂を目指す群れから脱落し、ゆっくりと追いついてくる死霊の群れに食われる。運が良ければそこで食い尽くされ、運が悪ければ死霊の群れに加わって再び山頂を目指す。

 脱落者の成れ果てを加えてますます厚みを増す死霊の群れから逃れ、人々はなおも逃げる。

 ただ今を生きたくて、本能的な恐怖に突き動かされて。

 誰かが言った、気温が氷点下になるところまで行けば、死霊は凍りついて動かなくなると。

 あっという間に広がった、その理論上は正しい言葉に、誰もがすがりついた。この死霊の群れを引きつけて凍らせた後に、山を下れば助かると。


 しかし、富士山の気候を正しく理解していた者は何れ程いたのだろうか。

 登るにつれ、気温は低くなり、気圧も下がっていく。

 慣れていない者は、その空気の薄さに耐えられず次々と膝をつく。顔を青黒く変え、肺に水をためて倒れる。

 だが、もはや息をしていない死霊にそんなものは関係ない。

 低体温と高山病で倒れた人々を、容赦なく血祭りにあげる。


 ようやく雪のかぶった山頂にたどり着いた者にも、希望などありはしなかった。

 眼下は、360度死霊の群れ。

 押し合いへし合い、壁のようになって手を伸ばしてくる。

 死霊を凍らせるという理論は、実用的ではなかった。

 だって、普通の冷たい水を冷凍庫に入れて、氷になるのに何時間かかる?動いているうちに山頂に着いてしまったら、意味がない。

 それに、山頂近くで倒れた者たちの成れ果ては、その時点で30度近い体温を有している。これを凍らせるのにかかる時間は、彼らが山頂に到達するよりはるかに長い。


 こうして、富士山には死霊しかいなくなった。

 山頂に密集した死霊たちは凍りつき、やがてその上から雪が降った。

 霊山が、死霊山に変わった。


 伝え聞くところによると、富士山はあれからも犠牲者を増やし続けているという。

 気温が上がるたびに、少しずつ凍りついた死霊たちが溶け出し、解放されてふもとに下りていく。

 だから今もあの山周辺は死霊が絶えず、誰も住み着かない。


「……海に向かえば良かったのに」


 遠目には昔と変わらぬ富士山を眺めながら、自分はつぶやく。

 自分は、富士山に向かおうとする家族と真っ向から対決し、車が渋滞で動かなくなったところで逃げ出してきたのだ。

 富士山が死霊山に変わる様子は、家族が最後に携帯で教えてくれた。

 今はその家族も……少なくとも親父は山頂で凍りついている。

 山頂が白く雪化粧をしている間は、ずっと……。


 はあっと白い息を手に吐きかけて、自分は再び櫂をとる。

 この辺はまだ首都圏に近いから、うかつに長時間陸にとどまらない方がいい。

 この穏やかな海岸だって、いつ松の間からひょっこり死霊が現れるか分からない。


 昔と変わらぬ景色。

 変わってしまった、この世。


 名残惜しい風景にさよならをして、自分はまた海を行く。

 見慣れた美しい風景には、つい情が湧いて引き寄せられてしまう。ならば、もう昔を思い出さないくらい離れた土地に行ってみよう。

 それでもきっと、あの山の姿がまぶたの裏から離れることはないだろう。

 日本で一番有名な山……そして今は、日本で一番恐ろしい山。

 白く清い雪の下に、数多の死霊を閉じ込めた、あの地獄の山は。

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