心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花
一日遅れましたが、発売日記念の書き下ろしです!
菊と霜の、白い色をテーマに。
その保育園は、裏にある菊畑が有名だった。
秋が深まって遅咲きの白菊が畑を白く染めるほど咲くと、保育園とは関係ない人々まで集まってきて、日中は人だかりが絶えないものだ。
その一面の白い花は、保育園の全員の夢と希望だった。
その日も、保育園の周りには人だかりができていた。
しかし、その日はいつもと違った。
園の門は固く閉じられ、集まってきた人々はその門の外側で恨めしそうに低い唸り声を上げていた。
集まっている人々の様子も、いつもとは違った。
彼らの間には、いつもの挨拶やにぎやかな話し声はなかった。
代わりに、満たされぬ欲求のこもった唸り声ばかりがその場に響いている。
「……全く、どうしてこうなったのかしら」
ガラス戸ごしに様子を見ていた保育士の一人が、ため息をついた。
いつもは多くの園児が遊んでいるこの南側の暖かい部屋に、今日は子供が一人もいない。いるのは、門の様子を見張っている数人の保育士と事務員だけだ。
門の外には、とても子供には見せられない光景が広がっていた。
門の外にいるのは、皆おどろおどろしく血に染まった人間だ。
もっとも、その血が自分の血だけであるなら、入れて助けてやるのが人道かもしれない。
だが、彼らの体を染めた血の半分くらいは、他人の血だ。彼らが他人に返り血を浴びるほどの大怪我を負わせたからである。
その他人の血は、主に上半身についている。
なぜなら彼らは、獣のように自らの口で他人の肉を食いちぎるのだから。
発端は今日の昼ごろ、緊急ニュースで暴動が起きたと知らされたことだ。
「全国で、同時多発的暴動が起きています。
速やかに建物の中に避難し、施錠して誰も入れないようにしてください」
これまで聞いたこともないニュースに初めは皆動揺したが、すぐに落ち着きを取り戻した。
暴動といっても、相手は人間だ。暴動は不満が重なって起こるものであり、破壊の対象は政府機関や略奪の対象となる商店に限られるはずだ。
こんな子供しかいないし奪う物もない保育園が襲われる訳がない……この園の大人たちは全員、そんな風に思っていた。
そのうち、心配して子供を迎えに来る親が現れ出した。
保育園は子供を預かる施設なのだから、親が来たら子供を返さなければならない。
ニュースで流れているように施錠して表にも出ないなど、もっての他だ。
結局、それが仇となった。
体の半分を血に染めてなお子供を迎えに来た親が、人間に噛みつくなど誰が想像できただろうか。
そんなになっても子供を心配して来たのかと、皆感涙を流し、何の疑いもなく門を開いて中に招き入れた。
愛と人情に従って行動する……これはもう、保育士の本能のようなものだ。
その結果、手を差し伸べた保育士の一人が腕を大きく噛まれた。
保育士たちはようやくそこで相手が正気でないことに気づいたが、もう遅かった。
悲鳴につられて、周りから同じ狂気に駆られた者が集まってくるのを見て、やっとの事で正門を閉じた。これで正門は狂気の群れに囲まれ、出られなくなった。
怪我をした保育士を病院に連れていくこともできず、外への電話もつながらない。
残った子供たちを家に帰すこともできない。
できることは、門と出入り口を固く閉じて子供たちを守り続けることだけだった。
「ぎゃあああ!!!」
園の中で悲鳴が響いたのは、早朝。
保育士たちも園児たちも、まだ眠りについていたほの暗い時間だ。
怪我をしていた保育士が、白目をむいて起き上がり、他の保育士や事務員を噛み始めたのだ。
大慌てで止めに入った大人たちは次々と返り討ちに遭って倒れた。そのうえ、大怪我を負った何人かはすぐに起き上がり、子供たちに襲い掛かった。
あっという間に、襲う側と取り押さえようとする側の数が逆転する。
園内は、門の外よりも危険になった。
子供を、こんな所に置いてはおけない。
「みんな、逃げなさい!!」
わずかに残った保育士たちが、子供たちのために裏口を開け放つ。
その先には、純白の花で埋め尽くされた菊畑が広がっている。
しかし、その草むらの中に狂った暴徒がいないと誰が保証できるだろうか。
「ど、どこへ逃げればいいの……?」
泣きそうな顔で尋ねる幼子に、その若い保育士は精一杯考えて答えた。
「白い花のところを、走りなさい。
花が踏み荒らされていなければ、そこはまだ誰も通ってないってことだから!」
かくして無垢な幼子たちは、純白の野に放たれた。
晩秋の身を切るような冷気が、園児たちの小さな体を襲う。
それでも、園児たちは先生に言われたとおりに白い畑を走り続ける。
お化けは怖い、食べられるのは嫌だ……それでもきっと、先生が言ったように白いところを走っていれば助かると信じて。
白い菊の花が、お化けから守ってくれると信じて。
しばらく行ったところで、一人が何かにつまずいて転んだ。
起き上がることはできなかった。
白く血の気を失った手が、幼子の足をしっかりと掴んでいた。
「あ……お化け……!」
朝日を浴びてきらきらと輝く草むらの中から、顔がえぐれた人間が頭をもたげていた。
甲高く舌足らずな悲鳴が、白銀の野にこだました。
白銀?
そう、純白ではなく白銀だ。
人の生活の温かい息吹が消えたせいか、その一帯には初霜とは思えないほどの分厚い霜が降りていた。
菊の花も、荒らされた草むらも、体温を失った化け物の髪や肌さえ覆って。
その一面の白い中で、誰が白菊の花を見分けられるというのか。
やがて、昇る朝日が霜を溶かせば、全てが白日の下に晒されるだろう。
冷たい白銀の溶けた下から、無残に踏み荒らされた白菊がその姿を現すだろう。
何も知らぬまま、手折られた無垢で小さなつぼみもまた。




