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ゾンビ百人一首  作者: 青蓮
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唐衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ

 作者の郷土の史跡にある歌をゾンビ化しました。

 ゾンビ百人一首の発売記念にどうぞ。

 ひんやりと冷たい水を滴らせて、服を絞る。

 ぽたぽたと垂れる水が、水面に大きな波紋を作っていく。

 揺れる水面の下で、水底の水草たちも一緒に揺れて見えた。それを見た僕は小さな感動を覚え、嘆息する。

 ああ、何て透明度の高いきれいな水だろう。

 こんな水、故郷では水道か井戸からしか手に入らなかった。洗濯に使えば確実にきれいになりそうな、いっそこのまま飲めそうな水が、自然の中にあるなんて。

 こんな水の湧くところなら、妻もきっと喜んでくれるだろう……そう思うと、胸が痛んだ。


 洗った服を広げて干しながら、腰を下ろして少し休む。

 服にはだいぶしわが寄り、色も少しあせてよれよれになっている。洗ったのだけではなく、今自分が着ているのも同様だ。

 洗剤や漂白剤の使いすぎではない。そんなものは使ってすらいない。

 ただ単純に、洗った回数が多いからだ。

 ずっとこの服を着て、時々洗いながら旅をしてきた。買った当初はあんなに立派な服だと思ったのに、今では見る影もない。

 ただ、色遣いと形にのみ、先進国の雰囲気を残している。

 おかげで、これを着ていれば何とか元からいた外国人労働者に紛れていられるが……。


 これを着て旅に出てから、もうどれくらい経つのだろう。


 この服を買って故国を後にしたのは、もう何か月も前のこと。今でもこの服を着るだけで、これを渡して送り出してくれた愛しい妻の顔が浮かぶ。

 常に堅実な家計で我が家を支えていた妻は、有り得ないような大出費にも関わらず笑顔で許してくれた。

「いいのよ、だって必要なものだから。

 大きな買い物をする時は、見た目も大事」

 そう言って、新品のこの服に袖を通した僕を愛おしげに見ていた。

「せっかく新しい家を買いに行くのに、服装で足元を見られたら困るでしょう?外国に行っても、なめられない格好をしなきゃ!

 大丈夫、あなたらなきっとできる。

 きっとどこか安全な国を見つけて、そこで素敵な家を買えるわ!」


 そうだ、僕は……この安全で衛生的な国で家を買うために来たんだ。

 そして愛しい妻を呼び寄せて、二人で安心して暮らすために。


 僕はそのために、一人でここまで旅をしてきた。

 家にある財産をほとんど金に換えて、妻がつつましく暮らすのに必要だと言った分だけ残して、大金を持って故国を飛び出した。

 しかし、目的は未だ果たせていない。

 僕は今も一人、そして放浪の身だ。


 新居は、まだ手に入れていない。

 僕は金さえあれば何とかなると思っていたが、この日本という国は思った以上に外国人に厳しかった。

 家を買おうとすると、保証人やら何やかんやで日本国内に担保を求める。そしてそれを用意できないと分かると、やんわり断られてしまう。

 手当たり次第に何十件もの不動産屋を当たったが、どうにもならなかった。

 情勢的に、外国からの危険を国全体が警戒しているせいかもしれない。


 そう、危険だ……僕が故国を飛び出したのも、それが原因なのだ。

 今、世界中に広がりつつある奇妙な疫病がある。かかると高熱を出して確実に死に至り……そして、死体が動き出して生きた人間を食う新種の病。

 僕はそれから逃れて安全に生きるために、ここまで来たんだ。


 この恐ろしいと言うのも生ぬるい病が故国でも見つかったと聞いた時、僕と妻はぞっとした。このままこの国にいては、自分たちもいつか犠牲になるのではないかと。

 だってこの病気は、感染症だ。そして僕の故国は、インドだ。

 インドの都市がそれだけ人口過密で不衛生か、知っているか?人々は所構わず便や尿をまき散らし、そのせいで感染症が常に発生し、それで死んだ者の死体が普通に転がっている。

 こんな国で、あの疫病を防げる訳がない。

 僕と妻は小ぎれいな住宅街に住んでいるが、この街にもそんな場所はあふれている。

 幸い、その時はまだ軍がきちんと動いて死んだ暴徒はすぐ鎮圧されていたが、それがいつまでも続く訳がない。

 僕と妻は、全財産をかけて外国に移住しようと決意した。


 そうして僕は、買ったばかりの西洋的なシャツとスラックスをまとって外国に飛んだ。

 まずは軍事大国として知られる中国に行ったが、そこはダメだった。

 インドよりは多少マシかもしれないが不衛生で、同じように都市の人口密度はすさまじい。そして既にあの疫病が散発し、国外に逃亡する者が続出していた。

「疫病から逃げてここに来た?冗談はやめてほしい。

 今はこの国が国外逃亡の大ブームだ」

 中国人のブローカーは、そう言って笑った。


 僕は、目的地の変更を余儀なくされた。

 そして中国人たちに人気の逃亡先について情報を集めるうちに、日本のことを聞いた。

 空路か海路からしか入れない、海に囲まれた東の島国。人々の暮らしは先進的で衛生的で、国民は規律を重んじる。

 ここだ、と思った。理想的な移住先だと確信した。

 いずれ発生するであろう飢えた死体の大群に襲われない、感染症を防ぐ最高の体制が整っている素晴らしい国。

 ……だと思っていたんだ、実際にここに来るまでは。


 僕は、ここに新居を構えて愛する妻と共に暮らしていける気がしない。

 日本は物価が高すぎる。日々暮らすための宿や食べ物だけでも、あっという間に金が飛んでいく。家を買うにも高すぎて、元いたような庭付きの家はとても手が出ない。

 それでも何とかいい家を見つけようと頑張っているうちに、手持ちの金はみるみる減っていった。インドでは小金持ちだと思っていたのに、その額では日本ではまるで無力だ。

 今の僕はもう宿もなく、日々の食事にも事欠く有様だ。

 もう、ここで家を買って妻を呼ぶことはできないだろう。


 弱気になると、いつも妻の顔が浮かぶ。

 金を持っているのに倹約ばかりしてろくに遊びにも連れて行かなかった僕に、文句の一つも言わず長年連れ添ってくれた妻。

 せめて何か、土産だけでも持って帰ってまたこの手に抱きしめたい。

 しかし今の僕にはもう、役に立ちそうな土産を買う金もなくて……。


 うなだれる僕の前で、美しい紫色の花が揺れている。

 ああ、確かにこれくらいなら持って帰れるかもしれない。

 そう言えば若い頃から、金がかからないわりに妻が喜んでくれるから、よく花を贈ったっけ。こういう異国の花も、たまにはいいかもしれない。

 だけど、思い出すのは移住の話を妻としていた時のこと。

 旅先できれいな花を見つけたら送ろうかと言った僕に、妻はこう言った。そんな事より早くそこに私を呼んで、生で咲いているところを見せてねと。

 ……ああ、結局この花でも妻を喜ばせることはできなさそうだ。


 あの時の事を思い出すと、目頭が熱くなってきた。

 寂しさを紛らわすように、ボロボロのかばんをぎゅっと抱きしめる。

 その中には、絶対にこれだけは使うまいと取っておいた最後の金が入っている。

 どうしてもうまくいかなかった時、せめて故国の自宅に戻るための金。せめて愛しい妻の元に戻って、最後まで寄り添うための金だ。


 だが、この金ももう無意味になってしまった。

 日本に来てしばらくしてから聞いたニュース……インドは既に全国で死んだ暴徒が猛威を振るう最悪の汚染地帯になっているため、渡航禁止になってしまったと。

 特に都市における感染率はすさまじく、軍は軒並み壊滅し、都市を放棄して田舎で細々と抵抗しているらしい。もう、家族の安否を確かめにとかそういう段階じゃないそうだ。


 ……もう、妻のいる自宅に戻ることはできない。

 戻っても妻がいるかは分からないし、生きているかすら分からない。

 僕は、完全にインドの衛生環境とあの疫病を甘く見ていた。危険に気づいたなら、妻と共に全財産を持ってすぐに国を飛び出せばよかったのだ。

 だが、妻に苦労をかけたくないからと自宅に残し、そして少しでもいい家をと頑張っている間に自宅は死んだ暴徒の群れにのまれ……。

 せめてどんなボロアパートでもいいから早く決めて呼んでいれば、今も一緒にいられたのに。

 本当に妻を思うなら、一人で長旅などしている場合ではなかった。


 ようやく乾いてきた服をたたんでいると、その下にあった地名の看板が目に入った。

『八橋』

 日本語にあまり詳しくない僕も、漢字は読める。元々中国に逃げるつもりだったのだから。

 橋が八つ……今の僕には皮肉な地名だ。

 今、僕は妻のもとに帰る橋を失くしてしまった。大海に囲まれた日本からでは、大陸への渡航ができなければインドに帰ることができない。死んだ暴徒が来られないように橋のない国を選んだのが、完全に裏目に出た。

 大陸にいさえすれば、この足で歩いていくつでも橋を越えて妻の元に向かえるのに。


 もう、僕と妻をつなぐものは、このよれよれになった服だけだ。

 行く場所も帰る場所もなくした僕に、この服だけが寄り添って生きろといってくれる。

 だったら、僕だけでも、どんなに汚れてよれよれになっても生きてやろう。

 いつかあの疫病が終息して再び橋が架かった時に、国に帰って妻を探し出し、この美しい花を捧げられるように。

元の歌の意味:唐風の着物は着続けていると柔らかく身に馴染んでしまう。その着物のように親しみあって離れがたい妻が都には住んでいて、都を離れて遠くまで来てしまった旅路の遠さをしみじみとやるせなく思う。


解説:百人一首ではなく、伊勢物語の歌です。男が京の都から東に旅をする場面で、八橋というところで「かきつばた」を区切りごとの頭文字にして読まれています。

 ゾンビ発生の初期には、今いる危険地帯から安全な場所に引っ越そうと移住先を探す人が多いでしょう。しかし、その国の状況によっては、ゾンビは人々の予想をはるかに上回る速度で蔓延してしまいます。そして、気づいた時には故郷に帰れなくなり、故郷の家族を迎えることもできなくなっている……そんな悲しさを描いてみました。

 また、日本は外国人や難民にとって住みづらい国でもあります。最近は世界中で難民問題が騒がれているので、それをヒントにしました。それから、東下りの歌なので、歴史の長いインドから東の新興国にやって来たという状況で風情をかぶせています。

 最後に、この歌は作者の郷土に残る史跡の歌です。作者の住む市では、マンホールのふたにこの歌が書かれていたり、かきつばたの絵が描かれていたりします。観光協会のホームページには、家庭でできるかきつばたの育て方まで載っています。気になった方は「三河八橋」で検索してみてください。ただし、観光資源が豊かな場所ではありませんので、悪しからず。

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