レイニー・ハレーション
夏が季節の中で、最も素敵だと感じる理由…
それは甘く煌めく特別な恋が、飾りのない夏のシーンに永遠に辿り着けない夢として描かれているイメージがあるからだと思うのです。
それは、いつか出会うかもしれない物語へのプロローグへと繋がっているのですが、もし、あなたが本当に出会いたかった夏と巡り会ったとしても、それには気付かないでしょう…
なぜなら実際に体験した夏のシーンよりも心で想い描いている夏の方が、より理想的な夏のイメージであるからです…
ここに綴られたストーリーは一部、体験したエピソードに基づいたフィクションを夏をテーマに再構成したものです。
あなたに訪れる夏の出会いには、どの様なシーンが描かれているのでしょうか…
眠りから醒めた時、街はすでに音の無い雨に包まれていた。
幾重にも滲んだシグナルの淡い光がイルミネーションの様に甘く水彩画の窓を彩っている。
僕はベッドの側に置いていたコードレスの受話器に手を伸ばすと、ボイスメモリーに切り替えた。
無言の通信音が彼女の約束を隠しているかの様に短く切れる。
僕は気分を変える為、シャワーを浴びようと部屋のノブに手をかけた時、ドアのレターケースにメモの様な何かが挟んである事に気付いた。
電話の掛らなかった謎が、その中の2行に記されている。
“昨日はごめんなさい。
無理な約束はしたくないから電話はしなかったの”
確かに、彼女と交わしたのは約束ではなく他愛のないジョークには、違いなかった…
僕は夏の半分を、このリゾートで過ごす。
ここでは、いつも決まって長期滞在型のコンドミニアムを利用する。
ホテルよりも落ち着けるという理由もそうではあるが、ここから見下せるノースショアの美しさは夏に生活する為の僕の一部でもある。
しかし今年は、そんな無理もきかない。
仕事の関係で予定がシーズンへと流れ込み、都心部のホテルでさえ予約は困難かと思われたが、偶然にもこの一室を手に入れる事が出来た。
実はその理由が手紙の彼女と関係がある。
一週間前、空港のサービスカウンターでホテルのキャンセル待ちを申し込んでいた僕の隣でツアーの客らしい女性が受付を済ませると、近くの係員を呼び止めた。
彼女はかなり心配そうな顔で、ロビーの係員と流暢な英語で話している。
コンコースの中は雑然としていたが、彼女が大きな声で話をしていたので自然と会話が耳へと入ってきたが、僕は気にも止めてはなかった。
それよりも、ステイ先のキャンセル待ちが取れなかった場合の事を考えていた為に、その会話の内容を把握する余裕が無かったと言った方が正しいのかもしれない。
僕が何気なく彼女の方を振り向くと、以前から僕の事を知っているかの様な笑顔で近づいてきた。
「あの…よろしかったら私の部屋を使いませんか?」
「君の部屋…ですか?」
「あっ、いえ…私が予約したホテルの事なんですが」
旅行慣れしているのであろう。
最初、ツアーのビジターだと思っていたのもブラウンのツーピースにセカンドバックだけといった軽装が、僕にそう思わせていたのかもしれない。
「それで、ひとつお願いしたい事があるのですが」
「僕に出来る事なら…」
「実は私、その部屋に忘れ物をしてしまって取りに行きたいんですが車の運転が出来ないんです。
ホテルはここから車で1時間程の場所にあるロイヤル・エージェンシーなんですが、次のフライトに乗り遅れると彼との約束に間に合わなくて…」
フライトボードを見上げる僕を、彼女は不安げそうに見つめた。
「40分もあれば、間に合うと思うよ」
「それじゃ、交渉成立というわけね」
僕はどうも、女性の笑顔には弱いらしい。
ハイビスカスをモチーフにしたモニュメントが飾られたパーキングゲートの東側に彼女を案内すると、駐車ラインを横切る様に、カーキーグリーンが鮮やかな左ハンドルのコンパーチブルが停めてあった。
「これって…あなたの愛車?」
「いつもは、この島でショップを経営している友人に預けてるんだ」
疑い深く、コクピットを覗き込む彼女に僕は“ある物”を取り出し見せた。
「これで動けば、僕がオーナーという事を証明出来る訳だ!?」
そう言って左側のドアに手をかけシートに飛び乗ると、キーを差し込みイグニッションを右へ回した。
鏡の様なフェンダーに映る緑の陰が、南国の午後2時に傾く日射しと共に揺れる。
「君の趣味には合わないかもしれないけど、とりあえず、約束は守れそうだとは思わない?」
僕がバイザーのポケットに差していたサングラスを掛けると、不安な顔に再び笑顔が戻った。
「一応…ね」
悪戯な仕草は、コケティッシュな彼女の魅力と良く似合っている。
慣れない手つきでドアを開ける彼女がようやく乗り込むと、唯一二人の共通するものを見つけ興味を示した。
「あなたも大会へ出る為にここへ?」
彼女はミラーに取り付けているサーフボードのミニチュアを手で揺らしながら尋ねた。
「これはクラブが主催するプロシップの記念品さ」
「そうなの…私は彼が出る大会が隣の島で開催されると聞いて、会いに来たの」
「確かに僕も大会には出場するけど、それが目的じゃないんだ」
「…彼とは違うのね」
その横顔は彼女の中で一瞬よぎった何かを感じたものに映ったのだが、僕の思い過ごしだったのだろうか…
でも、それ以上に僕には気がかりな点があった。
「なぜ君は、この取引きに僕を選んだの?」
「あなたがホテルを探しているんじゃないかと思って」
「その選択は間違って無かった訳だ。
でもそれは、僕自身を選んだ理由にはなってないよ」
「それは私が、あなたの事を安全なタイプの方だと予感したからだとは思わない?」
「君の、男を見る目は確かだったという事にしておこうか」
はにかんだ仕草で僕に微笑み掛ける姿を見て、僕の方も少し安心した。
それは、これから始まるドライブが例え短い間であっても、楽しいに越した事はないだろう、という僕の勝手な判断ではあったのだが…
ルートの検索には、困難を極めた。
“このホテルなの”と差し出されたリーフレットにはホテルの場所が記された住所が、黒く塗り潰されていたからだ。
しかし、以外にも道については、僕よりも詳しい。
“彼とはよく、このルートを使ってドライブに行ってたから”という言葉が確かな様に、彼女のナビによって快適なクルージングが続いた。
往路の途中、島に来たきっかけやそれにまつわるエピソードなど僕の話す自らのプロフィールについては無邪気に反応する彼女ではあったが、話の内容が彼との事に触れると何故か彼女の笑顔に陰りが出来る。
その度に僕は、会話の広がりそうな話題を選んだ。
「ここには、何日ぐらい、いるの?」
「島へは何しに来たの?」
彼女に抱く印象がそう感じなければ、こんな質問はもうすでにし終わっている筈だ。
彼女からは自己紹介もなくそのプロフィールさえ明かそうとしない。
それを気にする僕もおかしいが、ただ言える事は、彼女は彼の所に遊びに来たという雰囲気には感じ取れないという事だ。
直接、彼女から聞いてはいないが話題が彼の話になった時の過去形の多さが僕にそう思わせたのかもしれない。
スタンリーコーストのトレードウインドが彼女のフレグランスとブレンドされニュアンスな香りを演出する頃、流れる景色をサイドシートで見つめる彼女の視線が何を考えていたのか、その時はまだ知る由もなかった…
フリーウェイを過ぎ、二人は予定よりも少し早く目的地へと着いた。
立ち並ぶパームトゥリーと熱帯植物が美しいコラージュに似た原色のホテルに彩りを添えている。
僕はフロントのあるノスタルジックな洋館へと車を回し、客待ちのリムジンの後ろで彼女を降ろすと、対応に出たドアマンに事情を説明した。
モザイクの石段を上り、花をイメージした自動ドアへと消えて行った彼女が再びフロントから出て来るまでの間、僕は数分待っただろうか。
それに加え、手荷物らしきものも見当たらない。
特に慌てている様子ではなかったので気にしないつもりでいたが念の為、聞いてみた。
「えぇ…この通り、大丈夫よ」
彼女は自然な笑みを浮かべながらそう答えたきり無言だった。
それでも僕には、ある疑問を拭い去る事は出来なかったが、やがてそれは以外な形で確信へと変わる。
週末の午後とはいえ、センター街を抜ける国道は渋滞もなく、エアポートまでの幹線道路もスムーズに流れていった。
国際線のターミナル前に到着したのは彼女の時計で午後2時30分を少し過ぎた頃だった。
「どうもありがとう、お礼は必ずします」
「気にしなくていいよ、無理な約束は、するもんじゃないよ」
まだ高い日射しを背に彼女は軽く頭を下げると、雲ひとつなく澄みきった青空と鮮やかな境界線を描く北ウイングのゲートをくぐり、建物の中へと走り去って行った。
僕は、そんな彼女の後姿をただじっと見つめ続けていた…………
僕は、ベッドに腰掛け、手紙の続きを見た。
そして最後に“?”と思った。
この手紙の最後に記してある宛名のイニシャルが僕のものではない。
その脳裏に、あの時に見せた、その横顔が浮かんだ。
きっと彼女はホテルに忘れ物を取りに行ったのではなく、この手紙を彼に渡す目的であったに違いない。
でも何故か、その決意を直前で咎めてしまった。
彼女が時折見せた言い知れぬ不安は、彼女を空港で降ろした時にも感じた、彼に対する想いへの決別に他ならないのだ。
だが、残るひとつの謎については解らないままだ。
理由はともかく、彼の待つ島への出発便の無いターミナルゲートから彼女が無事に帰国していれば、僕なりの責任は果たした事になるだろうと思い、読み終えた手紙をデスク下のダストボックスへ入れようとした瞬間、フロントから僕に面会者が来ているとの知らせが入った。
僕が1階のエントランスへ降りてみると、以前とは全く別の姿をした彼女が、そこで待っていた。
「手紙、読んでくれた?」
彼女は軽く小首をかしげながら微笑んだ。
切りたてのセミロングレイヤーとマリゴールドのサマードレスが南国の甘い風に揺れている。
「よく似合ってるよ…君らしくて」
「約束だったでしょ?それを果たそうと思って…」
開け放された窓から香る果実の様な風は、採光の差し込む吹き抜けのロビーへと二人をいざなう。
エスコートした彼女が外へ出てみると、雨は、もうすでに上がっていた。
二人がプライベートビーチの見下ろせる施設内のプールへと、噴水に沿って歩いて行くと、水滴を残すパームトゥリーの葉影が、午後のプールの眩しいハレーションの中で揺れている。
青空を浮かべた水面のデッキチェアーを前にして立ち止まる僕には、この景色に映らない雲行きを感じてはいたが、振り向いた彼女の中に迷いはなかった。
「あの手紙には続きがあるの…その前後には彼の知らない私へのメッセージが…」
彼女は右肩で結んだドレスの紐を軽く結び直しながら追憶の陰りを浮かべた。
時として黙り込む、その長さは、僕にとっては短くもあり、彼女にしてみれば長く感じとれたのかもしれない…
「私は知り合ってからの5年間、ずっと彼の愛に不安を抱いていたの。
でも、今まで信じてこれたのは想い続けられた自分を認めたくて…という気持ちがどこかにあったんでしょうね。
このままじゃいけないというもう一人の私が、いつもそれを責めていたから…
そんな気持ちを彼は本当に理解してくれているのか、確かめたかったの。
でも待ち合わせの部屋に残されていた書き置きを見て思ったわ…もう、いいかなって…」
「残された書き置きには、何が書いてあったの?」
「今になって、一度も話してくれなかった言葉が並んでいたわ。
確かにそれを見るまでは覚めかけた部分と迷っていた心が微妙にリンクした所もあって、気持ちの整理に区切りをつける勇気がなかったの。
未練とは別の意味でね…
でも、まるで友達に宛てた手紙の様なその内容で彼の全てが読めたわ。
初めから分かっていたはずなんだけど、私よりも夢を選んだあなたに何故こんな事が書けるの、って…
それを伝えたら帰るつもりでいたの。
でも、その必要もなくなったわ。
あの手紙を書き終えた後、私も彼の様に気持ちが変わっていたから…」
「…僕にはどうしても、分からない事が…」
取り出した2通のエアメールを彼女に差し出すと、
「特に深い意味はないの…粋な計らいでしょ?」
彼女は受け取ったそのメールで口元を隠し、瞳で微笑んだ。
「お時間があればディナーでも、ご一緒にどうかしら!?」
「レディーのお誘いを断る特別な理由もないから…お言葉に甘えようかな」
彼女の好意を快く受けた僕ではあったが、
「どこかに予約を入れてあるの?」
「ううん…急な約束だったでしょ!?これから決めようと思って…」
「それだったら、とっておきの場所にご招待するよ」
指差した先には青白く輝くラグーンと、鮮やかな虹を映したサウス・パシフィックが広がっている。
「…私には、海だけの様にしか見えないけど」
困惑する彼女に、
「ここから30分程、南下した島にお洒落なコテージがあるんだ。
そこで素敵なワインをご馳走するよ」
彼女はバックからパスポートを取り出すと、僕に手渡しながら囁いた。
「最初で最後のアバンチュールに乾杯ね!?」
僕はパスポートを受け取りながらそれを否定するかの様に答えた。
「そうなると、いいね」
僕は部屋へ戻り、簡単に身支度を済ませると宿泊予定を1週間残し、チェックアウトのサインをした。
空港へ着くと、コンコースは週末を海外で過ごす観光客で賑わっており、その中を逆行する僕の右側を彼女は寄り添う様に腕を組み微笑みを浮かべている。
フライトインフォメーションの前で僕は2枚のチケットを確認すると、彼女を残し2階の公衆電話へと向かう。
コインを入れ、慣れた手つきでダイヤルすると、3度目のコールで恋人が出た。
「1週間程、島を離れるから…」
僕はそう言い残し、受話器を置いた。
搭乗口から機内へ入ると、この便はそれ程の混雑はしていない様子だ。
スチュワーデスの案内で彼女を窓際のシートへ座らせると、僕はシャンパンをグラスで2つ注文した。
フライトまで、まだ少し時間がある。
僕は、隣で軽く化粧を直す彼女の横顔を見つめながら、その言葉を思い出していた…
『彼には、何も言い残す事はないの?』
『話す事なんか、もうないわ。
私は男の帰りをただ待っているだけの、最低な女にだけは、なりたくないの…』
機内にアナウンスが流れ、夢の7日間が始まろうとしている。
はたして、この旅が本当に最初で最後になるのか…
彼女も、そのつもりなのか…
窓越しに見える景色を見つめながら僕は、いつもより長くなりそうな夏の予感が遠く海の彼方から広がってゆくのを感じた…