恋
いつか必ず自分のものになる―――。
身も心も何もかも、すべて。
そう信じて疑ったことはなかった。
初めて会ったときのこと―――――そんなことは覚えていない。
私と彼はそれぐらい幼いころから一緒にいたのだ。
公爵家に生まれた彼は、王太子の遊び相手として申し分ない身分であり、何よりも父親である公爵が父王の近衛を務めていた。
普通であれば公爵家の当主が、王の近衛を務めることなどまずありあえない。
しかし彼の生家だけは、違った。
小さな子供でも知っている国の始まりの物語、それには王と一人の騎士が登場する。
国を興した王に忠誠を誓い、生涯それを貫いた一人の騎士。
物語の終わりに、王はその騎士へ公爵の地位を与えた。
それは彼の生家だった。
その騎士の子孫ともいうべき代々の公爵は、領地を治めることよりも文官として要職について権力を握るよりも、危険の多い騎士の道を選ぶ者が多かった。
血の記憶、というものがあるのならばそれだろうというほど彼ら子孫は王に惹かれ、仕えた。
例に漏れず彼の父も公爵の地位にはあったが、ほとんどを王の傍で過ごしていた。
同時にその子であった彼は兄の遊び相手として早くから王宮に上がっていた。
3歳年上の彼は私から見て、年齢以上の落ち着きを持った少年だった。
私は子供のころから生意気だの我が儘だの言われ、同年の遊び相手や兄の遊び相手からは敬遠されがちだったが、彼だけは違った。
最後まで放り出すことなく私に付き合い、我が儘を叶えてくれた。
静かに寄り添い、時には過ぎた我が儘をたしなめ、けれど最後には穏やかに微笑む彼にどれだけ救われたか。
だから私は信頼できる人と言われれば、家族以外なら真っ先に彼の名前を上げた。
それぐらい幼いころから彼はかけがえのない存在だったのだ。
そうして彼を想う気持ちが―――恋だと気づくには時間がかからなかった。
幼いころは当然のように口にできた好きという言葉が簡単にはできなくなって。
傍にいたいのに、いざ傍にいると何もできない。
羞恥、をはじめて覚えた相手も彼だった。
ひどくもどかしかった。
成長した彼は相変わらず穏やかな人だったけれど、父公爵と同じく王の剣となる道を選び、日に日に逞しくなっていく。
そんな彼を好きにならない女などいない。
彼の周囲にいる女は皆彼の気を引こうとしているように思えた。
それが許せなくて。
できるだけ彼の傍に居ようと思うのにどうしてか彼がそれを許してくれなっていた。
避けられていると気づいたとき、なぜと彼に聞いた。
彼は静かに、けれどはっきりと答えた。
最早、傍にいることはできないと。
身分をわきまえ、その垣根を超えることは許されないのだと。
それを聞いて沸き起こるのは、怒りだった。
離れることは、絶対に許さない。
手放すなど有り得ない。
彼だって私のことが好きなはずなのに。
逸らされがちな眼差しを見ればわかるのに。
離れなければならない運命を呪い、自らを哀れむ。
けれど離れるなどという選択肢は、端からなかった。
『リリーア!』
――――それは起こった。
始まりは、私が口にした小さな我が儘だったと思う。
近しい身内だけで設けられた、母の茶会。
その席には彼の両親と彼自身も招かれていた。
彼が同じ席につくことは、本当に久しぶりだった。
そのことにはしゃぎ、指折り数えて楽しみにしていた。
母が場所を決めようとするときに自分も口を挟み、自分の気に入りの場所でこそ、開かれるべきだと両親に進言した。
ほんの少しだけ、後宮や奥宮の庭よりも表に近いそこは、広さはどこよりも広く、自分が好きな花が盛りを迎えていた。
選んだその場所は幼い頃よく彼と一緒に遊んだ場所だった。
あの頃を思い出してもらえればいい、この日を境にまた私の傍にあればいい、と想いを込め願い出た。
母は最初良い顔をしなかったが、自分に甘い父が母を説得して母が折れた。
茶会の日は、申し分ない天気だった。
誰よりも楽しみにしていた茶会。
最初は、よかった。
彼の顔を見て、美味しい菓子に手を伸ばして楽しんでいたけれど、目も合わせてくれない彼を悔しく思った。
兄とばかり話をするのが嫌で、それならと思いついたのが彼の母を連れ出すことだった。
少しでも関心を持ってくれればと無邪気さを装って、公爵夫人の手を取って茶会の席を離れて庭の奥へと進んだ。
でも奥へ入りすぎてはだめ。
そうしたら彼が見えなくなるから。
突然の私の我儘を微笑んで受け入れてくれる彼の母には少し、罪悪感が湧く。
けれど私を見ない彼が悪いのだ、とちらりと茶会の席を振り返る。
そこには呆れたような顔をする母と兄、仕方がない子だと苦笑する父。
そして真っ直ぐに私を見る、彼――――。
心臓が一つ大きく跳ねた、そのときだった。
はっと遠くにいる彼らの顔色が変わったのがどうしてかそのとき、鮮明に分かった。
同時にざり、と土を踏む音がした。
え、と振り返った先には銀色の煌めきがあった。
『………っ』
何が起こっているのか分からなかった。
声を上げることも叶わなかった。
身が竦み、立ち尽くすことしかできなかった私は、あのとき確実に死んでいただろう。
――――彼の母がかばってくれなければ。
本当に、ぎりぎりだった。
白刃に気付いた彼の母が私に覆いかぶさるのと、刃が私に振り下ろされるときは。
私の髪も左半分切り落とされ、彼の母は背中から腰までばっさりと切り付けられた。
何が起こったのか分からないまま、茫然と地面に倒れこむ。
どうやって入り込んだのか、警備の目を掻い潜って庭園に侵入した者は、若い男だった。
見たこともないその男は、どうしてか庭園の警備兵の制服を着ていた。
舌打ちした男は彼の母の身体から剣を引き抜くと、再び血が滴る剣を振りかぶろうとしていた。
私の両親がいる方向と私とを交互に見やり、一瞬迷ったようだった。
しかし決意したのか、逆光の中、煌めく銀色の刃がもう一度振りかぶられるのが見えて。
もう私には耐えられなかった。
そこで気を失ったのだ。
次に目を覚ましたときには自室の寝台で寝かされていた。
頭がぼんやりとしていたが、背中が痛みを訴え出してようやく茶会のことを思い出し、私にあれこれと気遣う侍女へと問うた。
その侍女の話によれば、あのとき侵入者の剣は私へと降ろされることはなかった。
即座に控えていた王の近衛が動き、まずあの者へと威嚇のための矢が射られた。
意図的に外された矢だったが、侵入者には十分な効果があった。
男は舌打ちし、一歩後ずさった。
それでもまだ時間があると思ったのか、迷うように気を失った私を見下ろしたが、近衛の数に怯んだのか身を翻した。
その背中を追いかけ、逃がす寸前で剣を突き立てたのは彼だった。
誰よりも早く駆け、自身の母へと剣を突き立てた者の命を奪ったのだ。
私を庇った彼の母は、はじめのうちはまだ息があったらしい。
けれどそれも少しの間だけ。
駆け付けた公爵の腕の中で、静かに亡くなった。
あの男を放った者が誰なのかは、まだ分からない。
あの庭の警備が数人命を奪われているのが、発見された。
恐らくはじりじりと茶会の席へと近づき、隙を見て王族を襲うつもりだったのだろう。
背の高い植物に潜んでいるときに、私が近づいた。
みすみす機会を与えたようなものだった。
『私のせいで……っ』
涙が止まらなかった。
自分の所為で誰かの命が奪われたこと、あの刃の前に立ったときの恐ろしさで。
あのとき馬鹿なことをしなければ、あんなことにはならなかったのに。
誰もが私の所為で彼の母が死んだと考えるだろう。
彼も私をそういう目で見るに違いない。
そのことが、何よりも辛くて悲しい。
たった数刻前までは彼に会いたくて仕方がなかったのに、今は会うのが怖かった。
けれど彼の母の葬儀で顔を合わせた彼は、私を責めなかった。
『殿下の所為ではありません』
泣きじゃくる私をなだめる彼は、いつも通りだった。
責められても仕方がないというのに。
彼は一言も責めなかったのだ。
そのことにひどく安心した。
窺った彼の顔に憎しみの色がないことに。
悪いのはあの者と、あの者を雇った者です、と続けられてさらに安堵した。
彼に嫌われなかった、それだけが何よりも嬉しかった。
でもそれはぬか喜びだったのかもしれない。
葬儀以降、母によって彼と会うことは禁じられたからだ。
反論しようとした口は、開くことすら許されなかった。
厳しいところはあるが、慈愛を持って育ててくれた母の目には私に対する軽蔑と怒りの色が強かった。
『お前に反省の色がないことが信じられない。お前は心底リリーアのことを想う涙を一粒でも流したか? お前の顔を見ていれば、とてもそうは思えない。己を庇って死んだ者を悼むことすらできないお前には失望すら覚えるよ。よくその顔をフレイヴィアスに見せることができたものだ』
『王妃、』
『君は黙っていて。大体この子がこうなった一端は、君にもある。君がこの子を甘やかしたからだ』
『………』
『今後、フレイヴィアスと会うことは許さないよ。期間は……お前が心底リリーアの死を悼むことができるまでか、フレイヴィアスが結婚するまでだ』
母の言葉に何を馬鹿な、と思った。
私は彼の母の死を誰よりも悼んでいる。
いや、それよりも彼が私以外と結婚するなど。
『反論は許さない、これは命令だ。逆らうなら好きにすればいい。けれどそのときはこの国から出て行く覚悟をするんだね』
最後まで口を開くことを許されないまま、母は背を向けた。
その背を追う父に縋ることもできないまま、立ち尽くした。
茫然と母の言葉を反芻していると、何を勝手なと怒りすら湧いてくる。
しかし王妃である母の言葉は絶対だ。
それこそ逆らうならば国から出て行かなければならないだろう。
意志が強い母のことだから、言葉を翻すことはまず有り得ない。
しかし焦る必要はない。
どうせ自分に甘い父のことだ。
母が何と言おうと、いずれは父に縋ればどうとでもできるだろうと考えていた。
ほとぼりが冷めたころにまた願い出ればいい、とその時は退いた。
しかし時は流れ、イーデンが同盟を違えて兵を上げた。
父も戦の途中で出陣し、私は他国へと出された。
名目は同盟を強力にすることと、イーデンへの協力をしないように、と念を押すために。
けれど本当は戦禍を被るかもしれない自国から守るために出されたのだ。
母と兄は国に残った。
心配は杞憂に終わり、無事に戦は終わった。
最後の国を訪問し、指折り数えた帰国。
しかし帰国すると同時に悪い報せが届けられた。
―――――フレイヴィアスが、結婚したと。
何の間違いかと目を疑った。
冗談にしては性質が悪いと、侍女に問い返す声に力がこもる。
しかし何度も聞き返して、紛れもない事実なのだと認識したときに膝から力が抜けた。
裏切り、という言葉が頭を過ぎる。
なぜなら私は帰国したならば、父にすぐに彼との結婚を願い出るつもりだったからだ。
今回の正使を務めたことに対する褒美として言えばいいと思っていた。
もしくは父に付いてイーデンに向かった彼が王太子を討ち取ったと早いうちから聞いていたから、彼が褒美として私との結婚を願い出るかもしれないと淡い期待を抱いていたのだ。
それなのに彼はイーデンの王女と結婚したという。
なぜ父は王女の処刑を命じなかったのか。
本来ならば消されるべき存在が今や彼の妻に納まっているという。
王女が誇りも何もかも捨てて助命を乞うたか。
いずれにせよ許しがたかった。
すぐさま父との面会し、父を詰り、非難した。
最後は泣いて縋ったが、命令が覆されることはなかった。
既に命は果たされ、婚姻が成立しているのだから当然といえば当然ではあるのだが、そんなものは関係なかった。
ならばと直接彼にも会ったが、ここでも願いは叶わなかった。
『私には既に妻がおります。ただ一人妻を愛すると神に立てた誓いを違えることはできません』
誓い、など今の時代何の効力もない。
ましてや真実フレイヴィアスが王女を愛しているわけではないのに、その誓いに何の意味があろうか。
私を拒絶した彼の目にはしかし確かに、私への想いがある。
絶対に王女よりも私を愛しているはずなのだ。
ならば何を遠慮することがあるだろうか。
『私は諦めない』
彼に言い放ったこの言葉に偽りはなかった。
諦める必要などどこにもない。
頼みの綱の父が駄目でも、自分でどうとでもすればいいのだ。
相手は所詮、滅んだ国の王女だ。
彼女の命が消えたところで困る者も、悲しむ者もいない。
父の戯れで救われた命など、何の価値もない。
ならば消してしまえばいいのだ。
そのためには何が必要か、どうすればいいか考えを巡らした。
すべては彼を手に入れるために、彼のそばにいるために。
「あなたは誰にも渡さない」
呟くだけで、その想いは強くなっていく。
たとえそれが最早恋ではなく、執着と呼ばれるものへと変化しているのだとしても。
決意は変わらなかった。